顔に覚えあり...☆人に歴史あり...

　長野オリンピックで、金メダルを獲得したイリヤ・クーリック選手の背後には、同世代で同じく旧ソビエト出身のニコライ・モロゾフ選手がいた。ニコライ・モロゾフ選手はこの時、アイスダンスで出場し、16位に終わったが、モロゾフ選手はクーリック選手の圧倒的な才能に打ちのめされたであろうか。挫折感と敗北感で心はひととき麻痺したであろうか。人の心の内は誰にもわからない。だが、実際、モロゾフ氏は自身の夢は敗れても、人の夢を叶えるという夢追い人になり、その後は、類稀な才能に恵まれた選手の更なる能力を高めることに、自身の全生活を捧げる人生を送ることになる。
　深夜に放送された『Birthday』はモロゾフ氏の人生の軌跡を追うとともに、献身的な夢追い人であるモロゾフ・コーチと邂逅し、彼の思いに応える為に、自身の情熱のすべてを彼に委ねて、日夜、氷上に彼と共にいる安藤美姫の姿をも映し出した。深い挫折を知った者が、深く打ち砕かれた者の心を知り、眠っていた才能を開花させるその物語は美しい。自分の夢を叶えることは素晴らしいが、人の夢を叶えることが夢、人に喜びを与えることが喜びという境地は高い。そのことを知る安藤美姫は著しい飛躍を遂げ、その復活と飛躍の歴史が、モロゾフ氏の輝かしい歴史に重なる。
　ニコライ・モロゾフ氏を追うこの感動的な番組『Birthday』にはもう一人の天才が登場する。２０年前に世界中のファンを驚嘆させた選手、伊藤みどりである。親しみやすい笑顔でざっくばらんに話す伊藤みどりに馴染んでいる視聴者は、安藤美姫の四回転を見つめる伊藤みどりの表情には、心地良い驚きを覚えたはずだ。スローモーションで流れる安藤美姫の四回転の映像を凝視する伊藤みどりのその顔は見る見る間に引き締まり、きりりと凛々しくおごそかになる。伊藤みどりは安藤美姫のジャンプの回転の速さに見入り、こう呟く。「私のトリプル・アクセルは高さと幅があって、滞空時間も長かったのですが、安藤選手は跳び上がってから回転軸を取るまでがすごく速く巧く、これだけ速く回転出来るというのは生まれ持った天性の才能以外の何ものでもないと思います」
　それは計算や努力で到達し得るものではない、天賦の才そのものであると一人の天才がもう一人の天才についてしみじみと語るその表情は忘れ難い。やはり天才だけが天才の凄さを真に評価し得るということか。
　さらに、興味深いことには、トリプル・アクセルを跳ぶ伊藤みどりと安藤美姫の映像が同時に映し出されるが、１６才前後の安藤美姫は速く綺麗な着氷で、まるで他のトリプル・ジャンプのように、トルプル・アクセルを楽々と跳び終える。安藤美姫自身がその後、トリプル・アクセルを跳ばなくなったのは、彼女の巧まざる美学と伊藤みどりへの敬意と思えてくるほどの余裕のトリプル・アクセルに唖然とする。いずれにしても、女子では、２０年前に伊藤みどりが、あの高さ、あの幅で跳んだトリプル・アクセルを超える選手が未だに現れていないことだけは確かである。
　その伊藤みどりは２２才の時に、アルベールビル・オリンピックで、演技終盤、完璧なトリプル・アクセルを跳び、銀メダルを獲得した。カタリナ・ヴィットがカルガリー・オリンピックで「カルメン」を演じ切り、金メダルを獲得した時も２２才。そして、安藤美姫は２２才で、バンクーバー・オリンピックを迎える。


　今年二月の四大陸選手権に向けて、四回転を猛練習していた安藤美姫の映像は、彼女の充実した２２才を暗示するかのようだ。大人の女性になった安藤美姫が迫力のある華麗な四回転を何度も決めてみせる映像。そしてさらに緑の芝の上で妖艶に舞う安藤美姫。その印象的なシーンは、神々しいまでに美しい２２才の舞姫の姿を瞼に彷彿と浮かび上がらせ、また心に深く響く余韻を残した。