なんとなく

日常の思うところを綴っております

再び「沈黙」について

2017-04-05 | 日記
この間「ハッピーイースター」なるお菓子屋さんの看板をみました。
ついにクリスマス、ハロウィーンと並んで、最後の砦であるキリスト教の最大のお祭りのイースターまで金儲けの機会に利用されることになってしまいました。
日本人のたくましい商売根性を称えるべきなのでしょうか、復活祭はそもそもクリスマス商戦のようには日本の風土には馴染みにくいなどと深読みするのは誤っていたようです。

遠藤周作の小説「沈黙」の評価は肯定的なものと否定的なものとに分かれています。
時を経て、スコセッシ監督の映画上映を機として高い評価をキリスト教高位聖職者や神学者から得ることになったにしても、従来の否定的見解は尚存在していて、その中には考えさせられるものがありました。


従来のキリスト教では、踏み絵を踏まないでみごと殉教するような強い人間を称えがちでした。これに対して、「沈黙」の世界ではそれを踏んでもなお神の救いにあずかる道を描いています。
それは一歩誤れば、単に転びを肯定するのみならず、すすんで賛美することになりかねず、それでは「世の光」「地の塩」となるようなキリスト教の本質的使命の崩壊を生むのではないかというものです。

次になぜフェレイラは踏み絵を踏んだのでしょうか。
彼は「今こそ、神は語った」と叫んで踏み絵を踏み、ロドリゴは「踏むがいい」という神の言葉を聞いて踏んだのです。

この神の言葉という大義名分こそ、転びを義とする根拠となるのです。したがって、この作品の最も特異な点は神が沈黙したということではなくて、神が沈黙を破ったというところにあるのです。

操正しき者が苦しみ、節度なき者が栄える地上の現実に対して、人類は常に煩悶してきました。「神も仏もあるものか」等々の叫びに対し、天は答えず、神は黙するという痛みを古今東西を問わず、沢山の作品が取り扱ってきました。

この人間心理の弱点をついて、ご利益宗教が広まるのも珍しいことではありません。

フェレイラ・ロドリゴが、眼前に苦しむ民の姿を見て、「踏むがいい」という神の言葉なしに、いっさいの裁きを主のみ旨に委ねつつ踏み出したのならば、そこには人間に徹底した司祭の姿があったでしょう。
沈黙こそは神の最高のかたらいであり、その神の沈黙を聞き得る耳を地上にあたえるために、ロゴスは人となって地上に来たりたもうたのです。

この作品の残念な点は、神が「沈黙」を破った点にあるのです。

他にも、
ナザレのイエスが、十字架の上で壮絶な最後を遂げようとした時、天の父なる神が「沈黙」を破って、「そんなに苦しまなくてもよい、奇跡の力を使って十字架から降りなさい」と言ったとは、聖書のどこにも書いてありません。
キリストの場合でさえも、拷問にまさる究極の苦しみ、つまり、神にも見捨てられたという絶望の彼方にしか、復活の栄光は輝き出なかったとすれば、信者の殉教を見た神父の懊悩に、神が沈黙で応えるのは当たり前ではありませんか。

神が人間の弱さに同情して、暗黙裡に「踏み絵を踏みなさい、転んでもいいよ」と言っているのだという解釈は、結局、そうでない神は受け入れられない、と言っているのと同じではないでしょうか。

スコセッシ版のハリウッド映画に見る遠藤の世界には、聖書の神、ナザレのイエスの天の父なる神はいませんでした。いるのは日本の神々の神、森羅万象に秘められた力に「人間が勝手に名を貼り付けた神」であって、森羅万象を無から創造した「生ける神」、モーゼに「私は在りて、在る者なり」と「自分の側から名乗りを上げた神」はいませんでした。

このような説得力のある魅力的な批判論に対して、私なりに反論を試みるのは気が引けると同時に、それ以上に大変光栄なことであります。なぜならこのような批判がなければ私自身深い考えに及び至らなかったと思われるからです。

フェレイラ・ロドリゴの踏み絵は正当視できるでしょうか。
フェレイラ・ロドリゴに神は沈黙を破って語りたもうたのでしょうか。

まず踏み絵を踏むことはイコール棄教なのかという問題があります。

幕府の査察はキリスト教信者かどうかを確かめるためキリストや聖母子像を彫った踏み絵を利用したのです。それは踏んだらキリスト教信者ではないか、或いは信者であったとしても棄教したものとするといった極めて表面的外観的手段です。
踏み絵を踏むことはただ幕府の権威にのみすがる査察を免れるためだけのもので、表面的には棄教のように見えても実際は聖母子像に足を置いただけで、棄教したわけではないのです。

踏み絵を踏むことを拒んで殉教する信者のいわゆる「赤い殉教」の他方では、踏み絵を踏んで転びの苦汁を味わいつつも、生き続けることで日常のことをしながら、信仰のために、さまざまな形で、あらゆる機会を利用してキリストを他者に証しする「白い殉教」があるのです。
この2つの殉教の表現は、2つの信仰の証のあり方を表しています。どちらが優れていて、どちらが劣っているということはないのです。

フェレイラ・ロドリゴは白い殉教を選んだと捉えることができます。


では神は沈黙を破ったのでしょうか。

その前に、遠藤周作は他の書籍の中で厳格で怒り、裁きの神である旧約時代の父なる神よりも、慈悲深く憐み深い新約時代の母なる神を好んでいると述べています。

神はほとんどの場面において沈黙するものですが、しかし例外的に語ることがあるとしてはいけないでしょうか。

神はマザー・テレサがダージリンに向かう汽車に乗っていた際に「全てを捨て、最も貧しい人の間で働くように」と語られました。

この神の沈黙破りを残念に思う信者は少ないでしょう。
むしろマザー・テレサになら神は語っても不思議ではないという暗黙の了解があるくらいなのです。

ですので、神は原則沈黙しますが、人によっては語られることがある、としたいのです。
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