なんとなく

日常の思うところを綴っております

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最近観た映画

2017-10-15 | 日記
最近、「マネーボール」という映画をみました。
ブラッド・ピット主演の映画なんですが、イケメンの彼が随分年を取られたことに驚いたものの、なかなか役にピッタリハマっていて、いい感じに仕上がっていたのに好感を持ちました。それもそのはず、ストーリーが実話に基づいた確かな内容でしたし、事実は小説よりも奇なりということを見せつけられたような、観終わった後も何度も考えさせられることの多かった映画でした。

繰り返し視聴しましたが、また時間を置いて、記憶が薄らいだ時点で再び観ようとしています。
野球について疎い身のため、身近な野球マニアと映画について話し、いろいろ教えて頂きたかったのですが、残念なことにマネーボールを観ていないとのことでした。

マネーボールの内容について何ら説明もせずに、いきなり書くのも何ですが、身近なことについてさえも発想の転換というか、考え方を変えることの大変さ、難しさを改めて実感しています。

それは慣れ親しんだ考え方に無意識的に頼ってしまうことは、何ら新しい発見も展望も見出すことはできないと同時に、考え方を少し変えるだけでも、多大な労力と勇気が必要とされ、そんなことは止めて今まで通り、皆と同じように行動しなさい、という内なる声に対し、どう抗うかいうことが、非常に骨が折れることだということです。

ほんの少しだけ変えるんですから、傍から見ても外見からは分からず、見破られることはないのですが、自己の中では戦争が勃発しているわけなんです。

そんな時に観た映画だからこそ、一層心に残ったんだと思います。

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話し合い

2017-08-13 | 日記
この間、グーグルマップや旅行サイトを閲覧していましたら、一緒に見ていた知人から旅行に行こうと誘われました。

どこへ行きたいのか興味本位に聞きましたら、エーゲ海、モナコ、ボラボラ島など高級リゾート地を希望され、滞在期間も長期間で旅行先ではゆっくり過ごしたいとのことでした。

食べられない料理があることから、そのことも考慮して滞在先を検討して欲しいとのこと。
航空会社は日本航空で、座席のクラスもビジネスかファーストクラスがいいとのこと。
そういうご希望であれば、旅行代理店へ行って相談してください、と言いたい位でした。

この方と私とでは旅行の趣旨が全く異なることからでした。
私を誘う理由も不明で、アタシは全然そういうことは気にしない方なの、とのこと。

私は長期間休暇をとることはできませんし、できるだけ低予算に抑えたい方なので、ご希望の旅行は叶わないことを申しあげました。

そうしましたら、今度は国内旅行でいいとのことで、モナコやボラボラ島はどこへ飛んで行ってしまったか、この人は一体どこへ行って、何がしたいのか益々分からなくなりました。

一度きちんと話し合った方がいいと思うのですが、そういうことは話したくはなさそうです。
一度の話し合いなしに、勢いで旅行させようとするのであれば、それはあり得ないことです。
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安全が危ない

2017-06-18 | 日記
この間近所で空き巣被害があったんです。
しかも最近のことなので、また入られたらどうしようと、心配なさっていました。
お宅も気をつけてねと言われたことを機に、どのように気をつけようか考えました。

事前に下調べをして入る空き巣もいるらしく、マーキングしていくのだとか。今回の件はそうとも断定できないのですが、ガラス窓と鍵の仕組みを知っており、奪っていくのも現金のみということから窃盗の常習犯に思われました。
そんなのが近くを物色しているなんて、と想像すると他人事ではなくなり怖くなって家の周囲を再確認し、マーキング探しをしてしまいました。

この件で、通帳と印鑑は別々に保管しておくという初歩的なことを怠っていたことにも気がつきました。
調べてみると金目のものは高いところに隠すのがよいとのこと。見つかったら逃げることを常に考えているため、目線より上には目が行き届かなく、探すのも手間がかかるからなのだそう。もちろん予め知られていたら元も子もないのですが。

ご本人はとにかく今回の件を機に人をみても何かと疑心暗鬼になってしまい、奪われたものは計り知れないものがあります。
幸い犯人と鉢合わせなくてよかった、もしそうなっていたらもっと怖い目にあっていたと。そうでしょうよ、悪行に及んだ人間はブレーキが効かないものですから、そんな目にあったら、余程のことでない限り捕まえようとかせずに、逃げるに越したことはありません。
空き巣については、管理組合で掲示板に載せたり、回覧板で注意喚起することは大事なことです。

オートロックシステムのマンションも簡単に侵入されるようです。
ポストに新聞が沢山入っていたり、回覧板が何日もぶら下がっていたりなどしては不在をアピールしているようなものです。
隣が在宅でも気が付かない場合があるとのこと。
それでは地域での情報共有も意味をなしません。

そうなると個々の世帯で注意することが不可欠になってきます。
高額な防犯システムを導入する余裕があればよいのですが、センサーライトを付けたり防犯カメラ作動中なるシールを貼ったりするだけでも効果はあるとのこと。
室内照明を付け、植栽を生い茂らせるなどして死角を増やさないようにしたいものです。
空き巣に関わらず、他にも様々な被害が見受けられらます。

巧みにフルーツを売りつけられた高齢者が近所にいらしたので、まあフルーツ位なら食べられるものなので、我慢もできそうなものですが、やはり値段不相応なものや傷んでいるものだったり、買う予定のないものなら、はっきりいりません!と言わないと、という話です。

とりとめのない話になってしまいました。

ご近所と機会あって情報交換できてよかったです。

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昔の思い出

2017-04-29 | 日記
ブログの更新をしないと、と気になっていたのですが、長い間ご無沙汰をしてしまいました。

丘陵地帯にある淡い緑をつけた木々が、日本人のあいまいさを表すかのようで、またこの季節がやってきたのだとしみじみとした気持ちになりました。
この緑は、亡くなった祖母が好きだった色だからです。
祖母との間で後悔することは、もっとその時代のことを、戦時中の話などを含めて直に聞いておけばよかったということです。

そんな後悔を塗り替えてくれるようなことが実現するとは、本当にありがたいことです。
北朝鮮のミサイル問題に関連して、避難場所についての話になり、戦時中の防空壕については今の意見よりも私の方が詳しいのだと、防空壕を掘った話になり、それが空襲時に間にあわず、完成した隣家は防空壕の中で皆亡くなってしまったのだという周知の話でも、改めて体験談として伺うと、有事の際の予想不可能な出来事を身近に感じさせられます。

国際政治学者の緒方貞子氏が学生時代に、当時で最初の政治学の講義をなさり、興味本位で聴講に行ったこと、美智子様が寮生活において皆のおやつの買出しに行ってくださったこと、渡辺和子氏は雙葉の頃から同窓だったこと、高木仙右衛門(浦上四番崩れの中心人物)と曾孫さんのこと(曾孫さんは私が一時期お世話になった方)杉原千畝氏のこと等々、興味の尽きない話を目前の人と一緒に追体験するように毎回聞かせていただいております。

多少記憶がおぼつかなく、この間も日本料理屋さんで食べている最中に、パスタを食べに行くって言わなかった?と言われ、ちゃんとメールで連絡していることですし、パスタ屋なんて一言もいっていないのにな、なんてこともあります。

まだ生まれたての父を背負って東京の空襲下を懸命に逃れ走るたくましい祖母の若かりし姿が一層鮮明になった気がいたしました。
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再び「沈黙」について

2017-04-05 | 日記
この間「ハッピーイースター」なるお菓子屋さんの看板をみました。
ついにクリスマス、ハロウィーンと並んで、最後の砦であるキリスト教の最大のお祭りのイースターまで金儲けの機会に利用されることになってしまいました。
日本人のたくましい商売根性を称えるべきなのでしょうか、復活祭はそもそもクリスマス商戦のようには日本の風土には馴染みにくいなどと深読みするのは誤っていたようです。

遠藤周作の小説「沈黙」の評価は肯定的なものと否定的なものとに分かれています。
時を経て、スコセッシ監督の映画上映を機として高い評価をキリスト教高位聖職者や神学者から得ることになったにしても、従来の否定的見解は尚存在していて、その中には考えさせられるものがありました。


従来のキリスト教では、踏み絵を踏まないでみごと殉教するような強い人間を称えがちでした。これに対して、「沈黙」の世界ではそれを踏んでもなお神の救いにあずかる道を描いています。
それは一歩誤れば、単に転びを肯定するのみならず、すすんで賛美することになりかねず、それでは「世の光」「地の塩」となるようなキリスト教の本質的使命の崩壊を生むのではないかというものです。

次になぜフェレイラは踏み絵を踏んだのでしょうか。
彼は「今こそ、神は語った」と叫んで踏み絵を踏み、ロドリゴは「踏むがいい」という神の言葉を聞いて踏んだのです。

この神の言葉という大義名分こそ、転びを義とする根拠となるのです。したがって、この作品の最も特異な点は神が沈黙したということではなくて、神が沈黙を破ったというところにあるのです。

操正しき者が苦しみ、節度なき者が栄える地上の現実に対して、人類は常に煩悶してきました。「神も仏もあるものか」等々の叫びに対し、天は答えず、神は黙するという痛みを古今東西を問わず、沢山の作品が取り扱ってきました。

この人間心理の弱点をついて、ご利益宗教が広まるのも珍しいことではありません。

フェレイラ・ロドリゴが、眼前に苦しむ民の姿を見て、「踏むがいい」という神の言葉なしに、いっさいの裁きを主のみ旨に委ねつつ踏み出したのならば、そこには人間に徹底した司祭の姿があったでしょう。
沈黙こそは神の最高のかたらいであり、その神の沈黙を聞き得る耳を地上にあたえるために、ロゴスは人となって地上に来たりたもうたのです。

この作品の残念な点は、神が「沈黙」を破った点にあるのです。

他にも、
ナザレのイエスが、十字架の上で壮絶な最後を遂げようとした時、天の父なる神が「沈黙」を破って、「そんなに苦しまなくてもよい、奇跡の力を使って十字架から降りなさい」と言ったとは、聖書のどこにも書いてありません。
キリストの場合でさえも、拷問にまさる究極の苦しみ、つまり、神にも見捨てられたという絶望の彼方にしか、復活の栄光は輝き出なかったとすれば、信者の殉教を見た神父の懊悩に、神が沈黙で応えるのは当たり前ではありませんか。

神が人間の弱さに同情して、暗黙裡に「踏み絵を踏みなさい、転んでもいいよ」と言っているのだという解釈は、結局、そうでない神は受け入れられない、と言っているのと同じではないでしょうか。

スコセッシ版のハリウッド映画に見る遠藤の世界には、聖書の神、ナザレのイエスの天の父なる神はいませんでした。いるのは日本の神々の神、森羅万象に秘められた力に「人間が勝手に名を貼り付けた神」であって、森羅万象を無から創造した「生ける神」、モーゼに「私は在りて、在る者なり」と「自分の側から名乗りを上げた神」はいませんでした。

このような説得力のある魅力的な批判論に対して、私なりに反論を試みるのは気が引けると同時に、それ以上に大変光栄なことであります。なぜならこのような批判がなければ私自身深い考えに及び至らなかったと思われるからです。

フェレイラ・ロドリゴの踏み絵は正当視できるでしょうか。
フェレイラ・ロドリゴに神は沈黙を破って語りたもうたのでしょうか。

まず踏み絵を踏むことはイコール棄教なのかという問題があります。

幕府の査察はキリスト教信者かどうかを確かめるためキリストや聖母子像を彫った踏み絵を利用したのです。それは踏んだらキリスト教信者ではないか、或いは信者であったとしても棄教したものとするといった極めて表面的外観的手段です。
踏み絵を踏むことはただ幕府の権威にのみすがる査察を免れるためだけのもので、表面的には棄教のように見えても実際は聖母子像に足を置いただけで、棄教したわけではないのです。

踏み絵を踏むことを拒んで殉教する信者のいわゆる「赤い殉教」の他方では、踏み絵を踏んで転びの苦汁を味わいつつも、生き続けることで日常のことをしながら、信仰のために、さまざまな形で、あらゆる機会を利用してキリストを他者に証しする「白い殉教」があるのです。
この2つの殉教の表現は、2つの信仰の証のあり方を表しています。どちらが優れていて、どちらが劣っているということはないのです。

フェレイラ・ロドリゴは白い殉教を選んだと捉えることができます。


では神は沈黙を破ったのでしょうか。

その前に、遠藤周作は他の書籍の中で厳格で怒り、裁きの神である旧約時代の父なる神よりも、慈悲深く憐み深い新約時代の母なる神を好んでいると述べています。

神はほとんどの場面において沈黙するものですが、しかし例外的に語ることがあるとしてはいけないでしょうか。

神はマザー・テレサがダージリンに向かう汽車に乗っていた際に「全てを捨て、最も貧しい人の間で働くように」と語られました。

この神の沈黙破りを残念に思う信者は少ないでしょう。
むしろマザー・テレサになら神は語っても不思議ではないという暗黙の了解があるくらいなのです。

ですので、神は原則沈黙しますが、人によっては語られることがある、としたいのです。
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