梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

お若えのおまちなせえ

2016-11-08 08:11:52 | 雑記
京浜急行の大森海岸を降りて目の前の国道一号線をわたり、左に進み高速道路をくぐると細い道路と先ほどの国道の間に細長い緑地がありその奥にあまり寺らしからぬ寺がある、
その手前の緑地の中に幾つかの石碑や看板が立っている、此処は江戸時代200年以上にわたって公開処刑場とされていた有名な「鈴ヶ森処刑場」の跡である、明治7年まであったそうだが東海道が拡幅された時に殆どは道路となってしまったそうだ、因みに旧東海道はその細い道の方でこのまま進めば青物横丁の先まで旧東海道として保存されている、と言っても昔の主画毛があるのは随分と多い寺社だけだが商店街も最近は力を入れているのでそれなりに楽しめる、
国道の横断歩道上から見るとこんな感じである、
白井権八を幡随院長兵衛が呼び止めるセリフで有名だが彼はここで磔になっている、彼は磔だが八百屋お七の方は磔火あぶりだったらしい、磔の礎石は別だった様だ

ネットで心霊スポットなどと出ているのだがあまりに明るく生活に隣接しているのでこの雰囲気からは想像しにくいがここで処刑された人数は優に20万人を超えると言うのだから怨念が残っても不思議ではない、多分中には無実の者もいただろうが凶悪犯や社会に不安を与えるとして見せしめ的な「市中引廻しの上」見学者を集めて公開処刑である、怨念と言われても江戸市民は「何をぬかしゃがる」と言った所なんだろう、
当時は高札で予告したうえ裸馬にのせて街中をゆっくりと引廻した挙句に高々と十字架に磔て左右の脇から斜めに肩先に突き刺し、しばらく置いてから槍を捻り引き抜くと言う方法だったそうだがそれを普通の庶民がわざわざ見に来ると言うのだ、とても今の感性では耐えられそうもないが当時はこれも娯楽の一種だったのか、

八百屋お七は足元に積み上げた粗朶に火をつけて焼き殺されたと言う、数えで17歳満で言えば15歳か16歳、これを見に来ると言うのは本当に凄い、因みに彼女の碑は目黒行人坂の比翼塚他阿智子l地にある、火あぶりを見学する一方で彼方此方に供養する感覚はよくわからない、火炙りと槍では台が違うようだ


十字架と言えばイエスキリストの処刑方法でそれがキリスト教の共通したシンボルになっているのだが戦国時代に日本にわたって来た時聖母像とこのクルス像が浸透したのだろうがそこから基督教迫害の時から十字架火炙りの刑が出てきたようだが江戸時代の処刑方法もこっちがルーツなんだろうか
丸橋忠也もここで処刑されたとなっているが実際には捕まる時にすでに死亡していたものを見せしめとして磔にしたらしいがこれは掛かれていない


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