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アラフは扇動者、教育を知らない

自省の差

2015-03-17 11:10:17 | Weblog
女のべき論と男のべき論の差。 私はこれを「自省の差だ」と置いて書いて
みようとしたがその先に以前目にした話を思い出し、違うな、となった。
何はともあれ初期方針の下始めてみる。
私は女の家事に対する態度を疑いの目で見ている。 料理ならば「食う」と
いう目的ないし食う事による目的達成ではなく「食わせる立場」という料理
者自身の地位を、節電ならば消費電力の現象達成ではなく自身が電力消費
管理者の座にある事を、目的としているかのように。
さてこうなった原因に「思春期に始まる一時的不安定状態が周囲に対する
攻撃性を誘発、それが助言される立場を無くし自省の機会を減らす結果と
なっているのだ」といった結論を付けようとしたのだが、そこでとある学校
教師、小学校のそれ、を思い出した。 男児と女児とで「言い訳」の差が
はっきりとある、と。 曰く、男はふてくされるが女は必ず周囲のせいに
する、というもの。

思春期以前の児童を対象とする、小学校教師の弁。 仮に勤続十年とすると
40人学級で対象数400人うち半数が女。 統計データとしてはそこそこの数
でありまた同じ学校の同僚たちや他校の同業者とその事について話し合う
機会もあったであろうとするとサンプリングの偏りによるものとも思えない。
つまり小学校低学年の時点で既に、自省の差は存在しているのだ、が結論と
なる。

ここまで女性論で書いた。 ここがおもしろい所、この文章では女の側のみ
が対象だが、つまりここで「男もそうだ」とする人と「自分はどうなのか」
とする人とに分かれる。 これが自省の差。 ちょっとした心理テスト。

何故自省の差があるのか。 何故男の方は「嫌でも承認せざるを得ない」と
する一方で女の方は「自分の悪ではない、自分のみの悪ではない」とするの
か。 これを「女の方が生物学的に防衛本能が強いのだ」とする事は可能だ
ろうそうすると自省の有無は、生来の個体差によるものなのだ、となって
しまう。

自省の差が後天的なものだと仮定する、ならば私はどこでそれを身に付けた
のか。 幼稚園入園以前将棋を教えられた事がそうだ、としよう、ならば
囲碁将棋といった黙考し局後に感想戦を行うゲームがその訓練となったのだ、
となる。 ここで逆の例が出る。 韓国は囲碁大国である。 また男と同様
小さい頃からそうした訓練をしてきた女棋士たちにも「棋風の差」があると
されている点もそう。 私は韓国に自省の文化を見ないし、棋風の差の内容
つまり女の方が激しい碁、局地戦からそのまま勝負が決まり地を数えるの
ではなく一方が屍を曝す事から「血を見る」などと言い換えられる、となる
といった言われ様の説明がつかない。 これはまだ「結果が出ていない」
だけなのかもしれないが。

さて自省の差。 この原因はどこにあるのか。
幾つか考えられる。
1. 生物学的、先天的な差が大きい
2. 黙考習慣によるもの
3. 周囲と自身との比較によるもの

当面それっぽく見える結論は3だろう、同世代同嗜好でつるんでいる集団と
そうではない集団とで自省の差が出るのだと。 そうなのかもしれない。
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