愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

関ヶ原古戦場(5) 岐阜県

2017年04月27日 15時21分47秒 | 岐阜県
島津義弘陣所跡
石田三成の陣所跡を南の方に歩いていきますと、大きな道があり、それを渡りますと、小さな集落になります。「小池」という集落です。ここに島津義弘の陣所がありました。

島津義弘陣所跡

島津の退き口
島津義弘は、薩摩の戦国大名島津義久の弟で鬼島津と異名をとった勇猛な武将です。兄の島津義久とともに勢力を拡大し、南九州を平定しました。島津が薩摩で明治維新まで大名として存在した基礎を作った人物といえます。その有名な話が関ヶ原の戦いでの「島津の退き口」です。
以下陣所跡の案内板の記述を掲載します。

戦国の雄・島津軍団千人を率いた義弘は、北国街道をおさえるため、ここ小池村に陣をかまえました。西軍がことごとく敗退するなかで、「西軍に島津あり」の雄姿を家康に見せつけるため、義弘は最後の賭けに出たのです。「背進」を最強の武器に変えたその決断こそ、現代にまで語りつがれる「敵中突破」なのです。

「島津の退き口」を伝える案内板

関ヶ原戦跡踏破隊
ところがよく見ると下の方にもうひとつ案内板があります。そこにはこんなことが書いてありました。

「関ヶ原戦跡踏破隊」の名碑
 鹿児島県日置市の青少年で組織する関ヶ原戦跡踏破隊は、昭和35年から毎年夏休みを利用して関ヶ原から大阪までの島津勢退路を踏破しています。(途中電車等も利用)
この名碑には、これまでの参加者の氏名、年齢を刻み、その労苦を称えるとともに、郷土の先輩方に負けぬ立派な大人に成長できるようにとの自戒の念をこめて設置しています。
また、関ヶ原戦跡踏破隊が取り持つ縁で、関ヶ原町と日置市(旧伊集院町)は、昭和38年に兄弟都市盟約を結んでいます。


すごいことですね。郷土の先人たちの偉業に学び、青少年たちが関ヶ原から大阪までを踏破しているというのです。義弘の思い、鹿児島(薩摩)の意地が400年以上もたって受け継がれているとは、本当に驚きました。

関ヶ原戦跡踏破隊の名碑

江戸時代には薩摩藩から木曽川の河川工事に947名もの武士たちが動員され、何人もの人が自殺をしたり、病気で亡くなったりということがありました。(宝暦治水)薩摩と尾張・美濃は深い関係があると思いました。
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関ヶ原古戦場(4) 岐阜県

2017年04月25日 14時03分35秒 | 岐阜県
石田三成陣所跡(笹尾山)
島左近の陣所跡の背後の山笹尾山を登りますと、石田三成の陣所跡になります。

石田三成陣所跡石碑

ここで陣所跡の石碑や案内掲示がいくつもあることに気づきました。写真に示した石碑は一番大きい石碑です。他に明治時代のものもありました。

明治時代の石田三成陣所跡石碑

また麓には説明付きの掲示板もありました。

最近の掲示板

つまり、関ヶ原古戦場は過去に史跡の指定を受け、その時に石碑等を建立したと思われるのですが、それに満足せず、見学者を増やすため、より大きな石碑を建てたり、掲示板をリニュウアルしたりして努力を怠らなかったことがうかがわれるのです。先に見てきた岡山烽火場でもそうでした。また、電柱の掲示や山肌の伐採などにも見ることができました。交流館が観光スポットとして機能しているのもそうした努力の一つでしょうか、とにかく見学者を楽しませるための努力が見られてすごいと感じました。

笹尾山からの眺望

笹尾山からも関ヶ原を一望することができ、東軍の動きが手に取るように分かります。石田三成になった気分です。東軍をしっかり西軍が囲んでいて、裏切りがなければたぶん西軍が圧勝していただろうことがここにいると感じられました。

大一大万大吉
ちなみに石田三成の旗は「大一大万大吉(だいいちだいんまんだいきち)」というものですが、「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」という意味だそうです。これって聞いたことがある言葉です。「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」(英語で格好をつけて「One for All , All for One」とも言います)ということを学校で目当てにする教師がいますが、石田三成がすでに400年も前に言っていたようです。
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関ヶ原古戦場(3) 岐阜県

2017年04月24日 08時11分43秒 | 岐阜県
岡山烽火場から石田三成陣所跡へ
岡山烽火場から関ヶ原を一望した後は笹尾山の石田三成陣所跡へ向かいました。途中の道は自然豊かな道で、まだ桜も咲いていました。

岡山烽火場から笹尾山(石田三成陣所跡)へ

決戦地
笹尾山へ行く途中に「決戦地」という石碑がありました。

決戦地石碑

案内掲示板によれば、西軍が総崩れした後「ここ決戦地一帯は、最後に残った石田隊や島津隊に押し寄せる東軍諸隊で埋めつくされていたと考えられる。」とありました。

笹尾山交流館
この決戦地を過ぎて北の方へ行きますと、笹尾山交流館がありました。交流館ですから、市民の集会所や図書などが置いてあると思いきや、観光地になっていました。玄関の前に柵が造られていて、中に入ると武将隊の服装に着替えて記念撮影ができたりするコーナーもありました。土日はそういう活動をして、平日は交流館の働きをしているのかと思いました。

笹尾山交流館

この交流館の素晴らしいところは、「行事予定」の黒板でした。

笹尾山交流館の「行事予定」

よく見ると、4月3日は曜日が「1557」となっていて、予定欄は「毛利元就、周防の大内義長を討つ。周防二国を手に入れる」とあります。おそらく戦国時代の出来事を月毎に記載しているものと思われます。よく調べたなあと感心しましたし、こういうことを行事予定に書いておくことがとても面白いと思いました。

島左近陣所跡
そして交流館から東へ歩きますと「馬防柵」があり、島左近の陣所跡がありました。

島左近陣所跡

ここは、笹尾山の麓ですが、上に石田三成陣所跡がある関係でしょうか、観光地として気合が入っていると感じました。馬防柵の他にモニュメントみたいなものも建てられていました。島左近という武将も関ヶ原古戦場に来て初めて知りました。
案内板によれば、

「三成が家禄の半分を与えてまでも仕官させたといわれる左近です。前日の杭瀬川の戦で中村隊を破り、本戦では石田隊の先手として布陣。黒田・田中らと奮戦後、家康本陣に迫ろうとしましたが、銃弾を受けて討ち死にしたともいいます。鬼の左近と称され、謎に満ちた猛将像は諸書に様々な姿で描かれています。」

大変勇猛で有能な武将だったようです。しかし関ヶ原で討ち死にしてしまいました。
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関ヶ原古戦場(2) 岐阜県

2017年04月23日 09時12分55秒 | 岐阜県
田中吉政陣跡

田中吉政陣跡

徳川家康の陣跡のすぐ南に付属のように田中吉政の陣跡がありました。田中吉政は、以前訪れた岡崎城の城主です。徳川家康が関東へ移った後に岡崎城の城主となりました。豊臣秀吉が亡くなってからは徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦いました。案内看板には田中吉政が西軍の将である石田三成を手厚く扱ったため、石田三成から脇差「切刃貞宗」を授けられたという逸話が記載されていました。

戦国武将物語

電柱に掲示された戦国武将豆知識

ここから北東にある岡山烽火場に向かいました。すると電柱に戦国武将についての豆知識が掲示されていました。案内の地図の道順と連動しているようで、逆にこの豆知識のある電柱をたどって行けば、史跡めぐりができるようです。関ヶ原町ぐるみで観光開発をしていることが見受けられました。観光者にとってはうれしいことです。

細川忠興陣所跡
次のポイント細川忠興陣所跡に来ました。

細川忠興陣所跡

細川忠興は、妻が細川ガラシャです。石田三成が関ヶ原の戦いの前に大阪にいる諸大名の妻子を人質にしましたが、この細川ガラシャだけは拒絶して命を絶ちました。このことが東軍の士気を高めたと言われています。

岡山烽火場
この陣所の北に川が流れていて、そこから岡山烽火場が見えました。

岡山烽火場

先日みた長篠の戦いの医王寺砦のようにきれいに木や草が刈ってありました。岡山烽火場からの眺望を確保するためでしょう。

岡山烽火場石碑

東軍が戦闘を開始した際に、ここで烽火を上げたそうです。ここには、黒田長政、竹中重門らが布陣していました。黒田長政はご存知黒田官兵衛の息子です。竹中重門は、豊臣秀吉のもう一人の軍師竹中半兵衛の息子です。黒田長政は、父官兵衛が織田信長に謀反を企てた荒木村重に加担したとして、織田信長に殺されようとしました。そこを竹中半兵衛が助けたという逸話が残っています。
それで黒田長政と竹中重門は幼馴染だそうです。

岡山烽火場からの眺望 関ヶ原全体を一望のもとに見ることができます。
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関ヶ原古戦場(1) 岐阜県

2017年04月22日 17時51分50秒 | 岐阜県
関ヶ原町歴史民俗資料館
4月16日、関ヶ原古戦場を訪れました。大変暑い日でしたが、約5時間歩き回りました。大変でした。
まず訪れたのは、古戦場の博物館、関ヶ原町歴史民俗資料館です。

駐車場から見た関ヶ原町歴史民俗資料館

資料館の入館料は350円でした。中に入るとちょうど団体さんが見えていて、その団体さんを「武将隊」が案内していました。館の中央に大きな画面が設置されていて、関ヶ原の戦いの様子を開戦から終戦まで映像で説明していました。

中央の画面を「槍」で指し示しながらガイドをしている武将隊の方

この資料館で、古戦場を周るための地図をいただきました。

古戦場めぐりの地図

地図には道順が記されていて、ぐるっと回るとだいたいの史跡が周れるようになっていました。

徳川家康最後陣地

徳川家康最後陣地

徳川家康は、はじめ桃配山といって資料館のある所よりけっこう東の方に陣を取っていたそうですが、戦いが始まる直前には、資料館のすぐ西隣の場所に陣を進めてきたそうです。

戦いは東軍の勝利に終わりましたが、家康はここで、首実検(とった首がだれの首なのか、まただれがとったのかなどを確認する)を行ったそうです。

「験首処」を示す石碑
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