緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

小説 打倒徳川家康!風と共に殉死するとも 石田三成【真田丸】石田三成ファンへのギフト!6

2017年02月12日 11時57分23秒 | 日記

























 浅井長政の裏切り



  織田信長と将軍・足利義昭との確執も顕著になってきていた。
 義昭は将軍となり天皇に元号を「元亀」にかえることにさせた。しかし、信長は「元亀」などという元号は好きではなかった。そこで信長は元号を「天正」とあっさりかえてしまう。足利将軍は当然激怒した。しかし、義昭など信長のロボットみたいなものである。
 義昭は信長に剣もほろろに扱われてしまう。
 かれは信長の元で「殿中五ケ条」を発布、しかし、それも信長に無視されてしまう。
「あなたを副将軍にしてもよい」
 義昭は信長にいった。しかし、信長は餌に食いつかなかった。
 怒りの波が義昭の血管を走った。冷静に、と自分にいいきかせながらつっかえつっかえいった。「では、まろに忠誠を?」
「義昭殿はわしの息子になるのであろう? 忠誠など馬鹿らしい。息子はおやじに従っておればよいのじゃ」信長は低い声でいった。抑圧のある声だった。
「義昭殿、わしのおかげで将軍になれたことを忘れなさるな」
 信長の言葉があまりにも真実を突いていたため、義昭は驚いて、こころもち身をこわばらせた。百本の槍で刺されたように、突然、身体に痛みを感じた。信長は馬鹿じゃない。 しかし、おのれ信長め……とも思った。
 それは感情であり、怒りであった。自分を将軍として崇めない、尊敬する素振りさえみせず、将軍である自分に命令までする、なんということだ!
 その個人的な恨みによって、その感情だけで義昭は行動を起こした。
 義昭は、甲斐(山梨県)の武田信玄や石山本願寺、越後(新潟県)の上杉謙信、中国の毛利、薩摩(鹿児島県)の島津らに密書をおくった。それは、信長を討て、という内容であったという。
 こうして、信長の敵は六万あまりとふくらんだ。
 そうした密書を送ったことを知らない細川や和田らは義昭をなだめた。
 しかし、義昭は「これで信長もおしまいじゃ……いい気味じゃ」などと心の中で思い、にやりとするのであった。
  義昭と信長が上洛したとき、ひとりだけ従わない大名がいた。
 越前(福井県)の朝倉義景である。かれにしてみれば義昭は居候だったし、信長は田舎大名に過ぎない。ちょっと運がよかっただけだ。義昭を利用しているに過ぎない。
 信長は激怒し、朝倉義景を攻めた。           
 若狭にはいった信長軍はさっそく朝倉方の天筒山城、金ケ崎城を陥した。
「次は朝倉の本城だ」信長は激を飛ばした。
 だが、信長は油断した。油断とは、浅井長政の裏切り、である。
 北近江(滋賀県北部)の浅井長政の存在を軽く見ていた。油断した。
 永禄十年(1567年)浅井長政に信長の命令により、お市の方は嫁いだ。信長にとって浅井はいわば義弟だ。裏切る訳はない、と、たかをくくっていた。お市の共に、利家の弟で、佐脇家の養子にいった佐脇良之が選ばれ、浅井にいき浅井家の家臣となった。良之はおとなしく物静かなタイプだった。…浅井長政は味方のはずである…………
 信長にはそういう油断があった。義弟が自分のやることに口を出す訳はない。そう思って、信長は琵琶湖の西岸を進撃した。東岸を渡って浅井長政の居城・小谷城を通って通告していれば事態は違っていただろうという。しかし、信長は、”美人の妹を嫁にやったのだから俺の考えはわかっているだろう”、という考えで快進撃を続けた。
 しかし、「朝倉義景を攻めるときには事前に浅井方に通告すること」という条約があった。それを信長は無視したのだ。当然、浅井長政は激怒した。
 お市のことはお市のこと、朝倉義景のことは朝倉義景のこと、である。通告もない、しかも義景とは父以来同盟関係にある。信長の無礼に対して、長政は激怒した。
「殿! はやまってはなりませぬ!」お市とは家臣が羨む程の仲の良い夫婦だったが、お市は信長の身を案じた。「市! わしは信長を討つ!」
「……殿?!」お市は動揺した。信長は実の兄であり、長政は愛しい夫である。
 三人の娘、のちに浅井三姉妹と呼ばれる娘にも恵まれたというのに……
(茶々(のちの秀吉側室、秀頼の母)、初(京極高次室)、お江(徳川秀忠室、三代将軍・家光の母)と長男・万福丸、次男・万陽丸が子である)
 信長の政略結婚の駒はほとんどが家臣からの養女であったが、お市の方と松平信康(家康)へ嫁がせた五徳姫は家族だった。また、お市は信長の妹とされ、絶世の美女とされるが、信秀の弟の信光か広良の娘という説もある。また茶々は浅井長政の娘とされるが、晩婚だったためお市の方の『連れ子』という説もある。
 何はともあれ、浅井は信長を裏切った。
 浅井長政は信長に対して反乱を起こした。前面の朝倉義景、後面の浅井長政によって信長ははさみ討ちになってしまう。こうして、長政の誤判断により、浅井家は滅亡の運命となる。それを当時の浅井長政は理解していただろうか。いや、かれは信長に勝てると踏んだのだ。甘い感情によって。
  金ケ崎城の陥落は四月二十六日、信長の元に「浅井方が反信長に動く」という情報がはいった。信長は、お市を嫁がせた義弟の浅井長政が自分に背くとは考えなかった。
 そんな時、お市から陣中見舞である「袋の小豆」が届く。
 布の袋に小豆がはいっていて、両端を紐でくくってある。
 信長はそれをみて、ハッとした。何かある………まさか!
 袋の中の小豆は信長、両端は朝倉浅井に包囲されることを示している。
「御屋形様……これは……」利家が何かいおうとした。利家もハッとしたのだ。
 信長はきっとした顔をして「包囲される。逃げるぞ! いいか! 逃げるぞ!」といった。彼の言葉には有無をいわせぬ響きがあった。戦は終わったのだ。信長たちは逃げるしかない。朝倉義景を殺す気でいたなら失敗した訳だ。だが、このまま逃げたままでは終わらない。まだ前哨戦だ。刀を交えてもいない。時間はかかるかも知れないが、信長は辛抱強く待ち、奇策縦横にもなれる男なのだ。
 ……くそったれめ! 朝倉義景も浅井長政もいずれ叩き殺してくれようぞ!
 長政め! 長政め! 長政め! 長政め! 信長は下唇を噛んだ。そして考えた。    
 ……殿(後軍)を誰にするか……
 殿は後方で追撃くる敵と戦いながら本軍を脱出させる役目を負っていた。そして、同時に次々と殺されて全滅する運命にある。その殿の将は、失ってしまう武将である。誰にしてもおしい。信長は迷った。
「殿は誰がいい?」信長は迷った。
 柴田勝家、羽柴秀吉、そして援軍の徳川家康までもが「わたくしを殿に!」と志願した。 前田利家も「わたくしめを殿に!」と嘆願した。
 信長は四人の顔をまじまじと見て、決めた。
「又左衛門(利家のこと)はわしと一緒にこい! サル、殿をつとめよ」
「ははっ!」サル(秀吉)はそういうと、地面に手をついて平伏した。信長は秀吉の顔を凝視した。サルも見つめかえした。信長は考えた。
 今、秀吉を失うのはおしい。天下とりのためには秀吉と光秀は”両腕”として必要である。知恵のまわる秀吉を失うのはおしい。しかし、信長はぐっと堪えた。
「サル、頼むぞ」信長はいった。
「おまかせくださりませ!」サルは涙目でいった。
 いつもは秀吉に意地悪ばかりしていた勝家も感涙し、「サル、わしの軍を貸してやろうか?」といい、家康までもが「秀吉殿、わが軍を使ってくだされ」といったという。
「又左衛門……やはりお主は御屋形様に愛されておるのう」秀吉は利家にいった。
 占領したばかりの金ケ崎城にたてこもって、秀吉は防戦に努めた。
「悪党ども、案内いたせ」
 信長はこういうときの行動は早い。いったん決断するとグズグズしない。そのまま馬にのって突っ走りはじめた。四月二十八日のことである。三十日には、朽木谷を経て京都に戻った。朽木元綱は信長を無事に案内した。
 この朽木元綱という豪族はのちに豊臣秀吉の家臣となり、二万石の大名となる。しかし、家康の元についたときは「関ケ原の態度が曖昧」として減封されているという。だが、それでもかれは「家禄が安泰となった」と思った。
 朽木は近江の豪族だから、信長に反旗をひるがえしてもおかしくない。しかし、かれに信長を助けさせたのは豪族としての勘だった。この人なら天下をとるかも知れない、と思ったのだ。歴史のいたずらだ。もし、このとき信長や秀吉、そして家康までもが浅井朝倉軍にはさみ討ちにされ戦死していたら時代はもっと混沌としたものになったかも知れない。 とにかく、信長は逃げのびた。秀吉も戦死しなかったし、家康も無事であった。
 京都にかろうじて入った信長は、五月九日に京都を出発して岐阜にもどった。しかし、北近江を通らず、千種越えをして、伊勢から戻ったという。身の危険を感じていたからだ。 浅井長政や朝倉義景や六角義賢らが盛んに一向衆らを煽って、
「信長を討ちとれ!」と、さかんに蜂起をうながしていたからである。
 六角義賢はともかく、信長は浅井長政に対しては怒りを隠さなかった。
「浅井長政め! あんな奴は義弟とは思わぬ! 皆殺しにしてくれようぞ!」
 信長は長政を罵った。
 岐阜に戻る最中、一向衆らの追撃があった。千種越えには蒲生地区を抜けた。その際、蒲生賢秀(氏郷の父)が土豪たちとともに奮起して信長を助けたのだという。
 この時、浅井長政や朝倉義景が待ち伏せでもして信長を攻撃していたら、さすがの信長も危なかったに違いない。しかし、浅井朝倉はそれをしなかった。そして、そのためのちに信長に滅ぼされてしまう運命を迎える。信長の逆鱗に触れて。
 信長は痛い目にあったが、助かった。死ななかった。これは非常に幸運だったといわねばなるまい。とにかく信長は阿修羅の如く怒り狂った。
 皆殺しにしてくれる! そう信長は思った。




         姉川の戦い


  浅井朝倉攻めの準備を、信長は五月の頃していた。
 秀吉に命じてすっかり接近していた堺の商人・今井宗久から鉄砲を仕入れ、鉄砲用の火薬などや兵糧も大坂から調達した。信長は本気だった。
「とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない」信長はそう信じた。
 しかし、言葉では次のようにいった。「これは聖戦である。わが軍こそ正義の軍なり」 信長は着々と準備をすすめた。猪突盲進で失敗したからだ。
 岐阜を出発したのは六月十九日のことだった。
 とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない! 俺をなめるとどうなるか思い知らせてやる! ………信長は興奮して思った。
 国境付近にいた敵方の土豪を次々に殺した。北近江を進撃した。
 目標は浅井長政の居城・小谷城である。しかし、無理やり正面突破することはせず、まずは難攻不落な城からいぶり出すために周辺の村々を焼き払いながら、支城横山城を囲んだ。二十日、主力を率いて姉川を渡った。そして、いよいよ浅井長政の本城・小谷城に迫った。小谷城の南にある虎姫山に信長は本陣をかまえた。長政は本城・小谷城からなかなか出てこなかった。かれは朝倉義景に援軍をもとめた。信長は仕方なく横山城の北にある竜が鼻というところに本陣を移した。二十四日、徳川家康が五千の軍勢を率いて竜が鼻へやってきた。かなり暑い日だったそうで、家康は鎧を脱いで、白い陣羽織を着ていたという。信長は大変に喜んで、
「よく参られた」と声をかけた。
 とにかく、山城で、難攻不落の小谷城から浅井長政を引き摺り出さなければならない。そして、信長の願い通り、長政は城を出て、城の東の大寄山に陣を張った。朝倉義景からの援軍もきた。しかし、大将は朝倉義景ではなかった。かれは来なかった。そのかわり大将は一族の孫三郎であったという。その数一万、浅井軍は八千、一方、信長の軍は二万三千、家康軍が六千………あわせて二万九千である。兵力は圧倒的に勝っている。
 浅井の軍は地の利がある。この辺りの地理にくわしい。そこで長政は夜襲をかけようとした。しかし、信長はそれに気付いた。夜になって浅井方の松明の動きが活発になったからだ。信長は柳眉を逆立てて、
「浅井長政め! 夜襲などこの信長がわからぬと思ってか!」と腹を立てた。…長政め! どこまでも卑怯なやつめ!
 すると家康が進みでていった。
「明日の一番槍は、わが徳川勢に是非ともお命じいただきたい」
 信長は家康の顔をまじまじとみた。信長の家臣たちは目で「命じてはなりませぬ」という意味のうずきをみせた。が、信長は「で、あるか。許可しよう」といった。
 家康はうきうきして軍儀の場を去った。
 信長の家臣たちは口々に文句をいったが、信長が「お主ら! わしの考えがわからぬのか! この馬鹿ものどもめ!」と怒鳴るとしんと静かになった。
 すると利家が「徳川さまの面目を重んじて、機会をお与えになったのでござりましょう? 御屋形様」といった。
「そうよ、イヌ! さすがはイヌじゃ。家康殿はわざわざ三河から六千もの軍勢をひきいてやってきた。面目を重んじてやらねばのう」信長は頷いた。
 翌朝午前四時、徳川軍は朝倉軍に鉄砲を撃ちかけた。姉川の合戦の火蓋がきって落とされたのである。朝倉方は一瞬狼狽してひるんた。が、すぐに態勢をもちなおし、徳川方が少勢とみて、いきなり正面突破をこころみてすすんできた。徳川勢は押された。
「押せ! 押せ! 押し流せ!」
 朝倉孫三郎はしゃにむに軍勢をすすめた。徳川軍は苦戦した。家康の本陣も危うくなった。家康本人も刀をとって戦った。しかし、そこは軍略にすぐれた家康である。部下の榊原康政らに「姉川の下流を渡り、敵の側面にまわって突っ込め!」と命じた。
 両側面からのはさみ討ちである。一角が崩れた。朝倉方の本陣も崩れた。朝倉孫三郎らは引き始めた。孫三郎も窮地におちいった。
 信長軍も浅井長政軍に苦しめられていた。信長軍は先陣をとっくにやぶられ、第五陣の森可政のところでかろうじて敵を支えていたという。しかし、急をしって横山城にはりついていた信長の別導隊の軍勢がやってきて、浅井軍の左翼を攻撃した。家康軍の中にいた稲葉通朝が、敵をけちらした後、一千の兵をひきいて反転し、浅井軍の右翼に突入した。 両側面からのはさみ討ちである。浅井軍は総崩れとなった。
 浅井長政は命からがら小谷城に逃げ帰った。このとき、佐脇良之は浅井家臣として戦っていたにも関わらず、あやうくなった利家を救った。浅井を裏切ったのだ。
 佐脇良之は浅井方にも戻れず、利家の屋敷に身をよせ、浪人となった。
「……あれは雀の子かのう?」佐脇良之は茫然と屋根や蒼い空を見上げていた。

「一挙に、小谷城を落とし浅井長政の首をとりましょう」
 利家は興奮していった。すると信長はなぜか首を横にふった。
「ひきあげるぞ、イヌ」
 利家は驚いて目を丸くした。いや、利家だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。いつもの御屋形らしくもない………。しかし、浅井長政は妹・お市の亭主だ。なにか考えがあるのかもしれない。なにかが………
 こうして、信長は全軍を率いて岐阜にひきあげていった。



         焼き討ち


  石山本願寺は、三好党がたちあがると信長に正式に宣戦布告した。
 織田信長が、浅井長政の小谷城や朝倉義景の越前一乗谷にも突入もせず岐阜にひきあげたので、「信長は戦いに敗れたのだ」と見たのだ。
 信長は八月二十日に岐阜を出発した。そして、横山城に拠点を置いた後、八月二十六日に三好党の立て籠もっている野田や福島へ陣をすすめた。
 将軍・足利義昭もなぜか九月三日に出張ってきたという。実は、本願寺や武田信玄や上杉らに「信長を討て」密書を送りつけた義昭ではあったが、このときは信長のもとにぴったりとくっついて行動した。
 本願寺の総帥光佐(顕如)上人は、全国の信徒に対して、「ことごとく一揆起こりそうらえ」と命じていた。このとき、朝倉義景と浅井長政もふたたび立ち上がった。
 信長にしたって、坊主どもが武器をもって反旗をひるがえし自分を殺そうとしている事など理解できなかったに違いない。しかし、神も仏も信じない信長である。
「こしゃくな坊主どもめ!」と怒りを隠さなかった。
 足利義昭の命令で、比叡山まで敵になった。
 反信長包囲網は、武田信玄、浅井長政、朝倉義景、佐々木、本願寺、延暦寺……ぞくぞくと信長の敵が増えていった。
 浅井長政、朝倉義景攻撃のために信長は出陣した。その途中、信長軍は一揆にあい苦戦、信長の弟彦七(信与)が殺された。
 信長は陣営で、事態がどれだけ悪化しているか知らされるはめとなった。相当ひどいのは明らかだ。弟の死を知って、信長は激怒した。「こしゃくな!」と怒りを隠さなかった。「比叡山を……」信長は続けた。「比叡山を焼き討ちにせよ!」
「なんと?!」秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。そて、口々に反対した。
「比叡山は由緒ある寺……それを焼き討つなどもっての他です!」
「坊主や仏像を焼き尽くすつもりですか?!」
「天罰が下りまするぞ!」
 家臣たちが口々に不平を口にしはじめたため、信長は柳眉を逆立てて怒鳴った。
「わしに反対しようというのか?!」
「しかし…」秀吉は平伏し「それだけはおやめください! 由緒ある寺や仏像を焼き払って坊主どもを殺すなど……魔王のすることです!」
 家臣たちも平伏し、反対した。信長は「わしに逆らうというのか?!」と怒鳴った。    
「神仏像など、木と金属で出来たものに過ぎぬわ! 罰などあたるものか!」
 どいつもこいつも考える能力をなくしちまったのか。頭を使う……という……簡単な能力を。「とにかく焼き討ちしかないのじゃ! わかったか!」家臣たちに向かって信長は吠えた。ズキズキする痛みが頭蓋骨のうしろから目のあたりまで広がって、家臣たちはすくみあがった。”御屋形様は魔王じゃ……”秀吉は恐ろしくなった。
 秀吉のみぞおちを占めていた漠然たる不安が、驚異的な形をとりはじめた。かれの本能のすべてに警告の松明がみえていた。「焼き討ちとは…神仏を?」緊張が肩から首にまわって大変なことになったが、秀吉は悲鳴をあげなかった。
 九月二十日、信長は焼き討ちを命じた。まず日吉神社に火をつけ、さらに比叡山本堂に火をつけ、坊主どもを皆殺しにした。保存してあった仏像も経典もすべて焼けた。
 佐脇良之は炎上する神社の中から赤子を救いだした。これが利家の養女となる。
 こうして、日本史上初めての寺院焼き討ち、皆殺し、が実行されたのである。

話を戻す。
信長は岐阜で天下取りを狙った。寧々の妹ともが子を産む。孫七郎……のちの関白秀次である。信長と妹のお市の方と嫁ぎ先の浅井長政との赤子・茶々(のちの淀君)である。
「お市、義弟の長政と仲良くやっておるか?」
岐阜城で帰郷のお市に信長はきいた。きくまでもない。
「もちろんです。兄上さま。」お市は笑顔で赤子茶々をあやす。
「…おお!お可愛いですなあ。お市さまの赤子は…。べろべろばあ!」
「これ!」お市は側の秀吉を叱った。「猿!近づくでない。茶々が泣き出したらいかがする?」
「…はあ。」秀吉は美貌のお市も好きだったが、お市は猿面の秀吉は大嫌いだった。
触るのも嫌だ。どこかの国営放送のアナウンサーではないが、そういうことだった。
人質同然のお市さまが幸せで安堵じゃ。だが、未練がある。
お市への想いの秀吉。寧々は寛容に許した。
「いよいよ京じゃ。おかかは幸せか?」
「はい。」
「大事にせねばのう。わしにはたったひとりのおかかじゃ。」
寧々は、子供さえ産まれれば……とつらかった。
もう結婚して七年だったが、子供には恵まれなかった。
話が重複するかと思いますがここで数年後に足利義昭の策によって”信長包囲網”が出来る。
足利将軍の義昭が全国の諸大名に手紙を送り、「織田信長を討て!」と命じたのだ。
一向一揆衆、本願寺、武田信玄、上杉謙信、毛利勢、北条勢……続々と信長に叛旗を翻す。最初の障害は妹の婿浅井長政と越前の朝倉義景の同盟軍だった。
有名な浅井・朝倉による信長挟み討ちの策である。
お市から“袋の小豆”が陣中見舞いだ、と届く。
両端がひもで結んである。そうか!信長は気づいた。「浅井・朝倉勢に挟み討ちじゃ!悪党ども逃げるぞ!俺は逃げるぞ!」
「御屋形さま!この猿めを殿にしてくだされ!」秀吉は名乗り出た。
「そうか!猿、頼むぞ!全軍退却じゃ!わしにつづけ!」
信長は馬で駆け出した。
ここで信長や秀吉や家康までが死んでいたら時代はもっと混沌としていたろう。
戦国の三傑がいればこその戦国の世、である。
この浅井・朝倉勢の攻撃の情報が岐阜にも届いて、寧々や妹のやややとも、なからは不安になった。秀吉殿は無事であろうか?まさか、戦死???
だが、秀吉は命からがら岐阜に戻ってきた。
だが、秀吉は、戦が嫌いになった百姓に戻る、などという。その愚痴に寧々は激怒した。
「お前様まで信長さまを見捨てられるのか?!話が違うではありませんか!お前様は信長様に惚れ込んで足軽になられたと。嘘にございましたか??!!」
「おなごに何がわかる?!信長様の敵は比叡山、一向一揆衆、武田信玄、上杉謙信、毛利勢、北条勢、すべて辺り一面敵だらけじゃ!」
「……逃げるのですか?」
「何っ?!!」
「お前様がいまこそ知恵をつかって御屋形さまをおたすけする番です!お前様は甘えていなさる!今が秀吉殿の策の出番です!」
「………おかか。」
「泣き言をいうまえにしっかりしなされ!」
「………おかか。そうじゃのう。おかかの言うとおりじゃ。わしは甘えておった!よし!」
 寧々は秀吉の心をすくう堤防のような存在にいつのまにかなっていた。
こうして信長は秀吉の策などにより浅井長政や朝倉義景軍を叩きつぶす。
お市の方と三人の娘(浅井三姉妹・茶々・初・江)は炎上する小谷城より秀吉配下の者によってすくわれた。だが、お市の方や三姉妹も“秀吉嫌い”であったという。
木下秀吉は姓を丹羽長秀と柴田勝家から一文字ずつもらい羽柴…羽柴秀吉、とした。
浅井責めの功績によって秀吉はのちの長浜城を賜った。
やっと城持ち大名になったのである。
寧々は只の足軽の妻だったのに急に城持ち大名のおかかさまになり、戸惑った。
多くの家臣がそれこそ家柄の申し分のない家柄の者が家臣として百姓上がりの秀吉や寧々にかしずく。平伏する。戸惑うしかない。当たり前である。
だが、秀吉はにやにやしてうれしがるだけで戸惑う事をしらない。
当たり前のように家臣に命ずる。百姓上がりめ!そんな陰口がきこえるような寧々の戸惑いと秀吉の態度は反比例するばかりだ。
だが、子供が産めない……という負い目が寧々にはある。
だから、秀吉が上方で愛人を囲って妊娠させて当たり前のように長浜城に愛人(千草)を呼ぶこむと秀吉の元を去ろうとしたのだ。もう、号泣である。
だが、やってきた秀吉の母親にとめられた。
「秀吉を許してくれもんそ!寧々さん、あいつには寧々さん以外は駄目じゃでえ。あんさんしか秀吉を守れんでえ!許してくれもんそ!」
「おっかさま……しかし、赤子も産めない私は…」
「赤子なんぞ関係ねえでえ!寧々さんしかおらんのよ、秀吉のおかかさまは!」
「おっかさま!………おっかさま!」
抱擁し、涙声になる寧々をなかは慰めた。「寧々さん。頼むでえ。」
「………はい。はい、おっかさま!」
やがて秀吉の愛人が流産すると当然のように愛人は捨てられた。
寧々は秀吉の愛人に銭を渡して、慰めたという。
「あなたもしっかりね。」
「……奥方さま。すいませんでした。」
そういって愛人は長浜城を去っていった。


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