長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

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NHKBS番組『文豪ファミリア 家族は見た!父・藤沢周平 元祖イクメンの日々』

2018年01月19日 16時25分48秒 | 日記





























NHKBS番組『文豪ファミリア 家族は見た!父・藤沢周平 元祖イクメンの日々』より。
昭和五十四年(1979年)真夏。小菅展子(こすげ・のぶこ・現在・遠藤展子・夫・遠藤崇寿)は人気大衆時代劇作家・藤沢周平(小菅留治・こすげとめじ)の娘。展子は理髪店で「どうする?展子ちゃん?」「思いっきりカーリーで!」「ふふ。いっちゃう?」「うん!」
カーリーヘアで自宅に戻ってきた愛娘・展子に周平は驚く。「わっ!」
「なんだその髪型は??!!!」「カーリーだよ。今はやってるの。」「すぐに元に戻してきなさい!」「なんで?いまかけてきたばかりなのに。」「明日から田舎に戻るんだ。戻してこい!」時代小説の文豪・藤沢周平(小菅留治)。しかし、こわい父親ではない。愛娘を叱ったのは後にも先にもこの一回だけ。藤沢周平(1927~1997)は歴史小説家で市井の人や下級武士たちをエンターテインメント小説として作品(小説)を次々と出して人気作家の仲間入りを果たしていた。人生の機微(きび)、人の世の哀感(あいかん)を描いた作家です。
父を亡くした下級武士が真実の愛をもとめてさまようことを描いた『蝉しぐれ』。牢獄での医者として働く下級医師の話『立花登青春手控え』(原作・立花登手控え)『清左衛門残日録』(原作・三屋清左衛門残日録)。藤沢周平の作品は何回も映画やドラマになった。
亡くなって二十年以上経つ今も多くの読者に愛される作家です。昭和38年2月、展子生まれる。同じ年の十月、展子を生んだ母親は、展子を生んで八ヶ月後になくなりました。そのために家事や育児も父親の留治の仕事になりました。そう、いまでいうイクメンです。保育園への連絡ノートにも周平の几帳面な文章がならぶ。
イクメンの周平は食事をたどたどしくつくる。その当時、藤沢周平は小説を小説雑誌に投稿していましたが、業界新聞のサラリーマン記者でした。
“片親しかいないというのはとても難しいものだと思います。特に父親などというものはたいてい家事オンチに近いものですから、ずいぶんと見当違いなことをやっているに違いありません。すべて万事そつなくするなどというのは不可能です。気のついたことをやっていくしかありません。”
祖母・たきゑ(たきえ・70才)は山形の田舎から上京し子供の展子をあやしている。しかし、周平の母親(展子さんの祖母)は目も腰も悪く、半分病人であり、留守番くらいしかできない。
「留治!はやぐすねど会社さおぐれっど!(早くしないと会社に遅れるよ)」
「かあちゃん、わがっでるず!今、保育園の連絡ノードかいでるどごだべした」
保育園に暑い中、急ぐ藤沢周平……保育園につくと「あ、小菅さん。もう少し早くお迎えに来ていただけるとありがたいのですが…」周平は保育園の女性先生にあやまる。
「すいません!」「ほら、のぶこちゃんのパパきたよ~」「はいはい、パパだよ~」
小説『たそがれ清兵衛』の定時で急いで帰り、子育てをする主人公は留治(周平)のこと。でもそれは病気の妻を世話するためだったのです。
“洋楽のレイ・チャールズの歌「愛さずにはいられない」を歌うと展子も口ずさむ。展子は歌が好きなようです”
藤沢周平(小菅留治)の娘・遠藤展子「レイ・チャールズの歌で父親の気持ちがわかります。」展子さんが昼から夜まで眠っていると心配する周平。
「かあちゃん。展子さすけねえ(だいじょうぶ)が?」
「さすけね。昼がら夜までねでる」
「昼がらねでる??!!おがしべした!昼からこげな夜遅くまでねでるんだなして!」
「さすけね。おまえも同じだっだ」
「んだげんども!母ちゃん、展子にお菓子ばっがりたべさせで夜遅くまでおきでっがらだべしだ!」「さすけねえ!子供はねるもんだすけ。」「んだども…」
藤沢周平は保育園の先生と話した。
「展子ちゃんはさみしいんだと思います。」「さみしい?」「無理に寝かせてはいませんか?眠くないなら無理に寝かせなくてもいいんですよ。」「……はあ。」
“ふだんいないことで愛情不足になっているんだと思いはっとしました。考えてみれば母は半分病人であり、ぼくは朝と夜しかいないわけです。そんなぼくがひとなみにしつけをしようというのがまずまず無理なわけで。展子に甘えるだけ甘えさせることも必要何だと思いました”藤沢周平は山形の湯四川(現・鶴岡市)での中学校教師時代、わずか二年で肺結核になり、東京東村山で六ヶ月療養。退院後、東京の食品系新聞の記者時代の昭和三十四年(周平三十二才)同郷の三浦悦子と結婚、昭和三十八年展子誕生。これから幸せな生活が送れると思いきや、悦子は昭和三十八年六月に入院……展子を田舎にあずけて病院内で周平は文学賞への原稿を書く。妻が入院して死ぬまでの期間で短編九作品も書いた。
それは小説を書いているのを見るのが好きな女房への周平からの愛だった。
昭和三十八年十月、小菅悦子病死、享年二十八才(展子生後八ヶ月)。
周平は友人に手紙を書く。“西海浄土までは十万キロの旅だそうです。方向音痴で何かにつけてぼくにきいていたアレにはそんなながい旅は出来るだろうか?そんな馬鹿げた考えでいまだに胸がきりきり痛むのです。ぼくも何一つ知らないあの世というものにひとりでやるのはかわいそうで、一緒に行くべきではないか?と真剣に考えました。子供がいなかったら、多分ボクはそうしたでしょう。それが少しも無理なくたやすく感じたほど、アレがなくなるとぼくは死というものにはなんの恐れもない気がします。”
幼児の展子を寝かしつけ、皿を洗う周平。タバコをふかす。サラリーマンの周平は小説を書く時間は夜と祝日と日曜だけ。妻を亡くし疲れ果てる周平。原稿用紙にむかう。この当時の気持ちを藤沢周平は晩年のエッセイで打ち明けています。『千年の紀』より“人の世にある不幸と不平等な社にたいする憤恨(ふんむ)。妻の命を救えなかった無念の気持ちは、どこかへ吐き出さなければならないものだった”
元・「オール讀物」編集者鈴木文彦(当時の周平について語る)「まさか!っていうか。一種の業(ごう)みたいなね。で、かなしかったのかも知れません。昭和三十八年になってからの“読み切り小説の”藤沢周平の生き様「忍耐生活」。これは応募原稿じゃなく雑誌の方からのオファーを受けて書かれた。それが年間で九本でしたね。しかも、業界新聞のサラリーマンとして働きながら。原稿料は医療費の少しのたしになったと思う。よくそのときにお書きになれたなあ、と。ある意味、強靭な精神というか。生まれながらの作家というか。」
昭和四十二年。展子四才。周平四十才。周平はサラリーマンの仕事を続けながら文学新人賞に応募をくりかえしていた。深夜、おきてしまった展子に草稿(書き損じ)のうらなどに展子に絵など悪戯書きをさせる周平。五才となり展子は幼稚園へ。運動会の朝、周平はカッパ巻を弁当につくる。「パパ、おむすびつくってるの?」「いや。カッパ巻だ」
「おめ、そだなものつぐれんのが?」「ああ、かあちゃん。つぐれる!ほれ展子、たべでみろ。」「おいしいー!」「んだが?」
また、幼稚園でトートバックをつくらねばならず周平は母親に「おめ、そげなものつぐれんのが?」ときかれ「つぐれる!」と不器用な針仕事で地味な背広の生地でバックをつくった。愛娘・展子が小学生になるとき、藤沢周平(小菅留治)は高橋和子という女性と再婚した。昭和四十三年のことだった。知り合って三ヶ月の電撃結婚だった。
昭和四十五年、団地から一軒家に引っ越した。この年に藤沢周平の代表作『猽(くら)い海』(晩年の葛飾北斎が主人公の小説。VS若き歌川広重)で第38回オール讀物新人賞(第64回直木賞候補→落選)を受賞して職業作家デビュー!最初の藤沢周平作品は暗い陰鬱とした文体と世界だった(『負のロマン』)が、江戸ものの大衆作品で明るい文体へ開花。第69回直木賞(『暗殺の年輪』作品により)(昭和四十八(1973)年三月)を受賞した。
周平四十六才展子十才。受賞を期に執筆の依頼が増えて、サラリーマンとの二足のわらじが難しくなり、周平は十四年つとめた会社をやめて作家一本に。昭和五十一年にはマイホームへ引っ越し、『隠し剣』シリーズ『用心棒日月抄』シリーズ。展子十三才。大衆小説家になる藤沢周平。この時期、展子は父親に始末書を書かせている。お菓子を友達が食べているから「この学校ではお菓子を食べていい学校だ」と思ったら先生が来て怒られた、という。遠藤展子(周平の娘)「父はいつも『普通が一番』といっていましたね。嘘をつかない。挨拶をきちんとする。正しいことをする。悪いことをしない。」
展子高校生の時に『立花登』シリーズスタート。登のいとこのちえは展子がモデルである。
藤沢周平作品・短編227作品長編31作品……小説家になったのはずっと家にいれて、展子と一緒にいられるから……と。展子さん「親ばかだなあ、と。(笑)」
思春期になっても展子さんは父親が好きで好きでたまらなかった。
ふたりはよく近所の道を散歩したという。
「展子はどんな男がタイプなんだ?」
「う~ん。……お父さんみたいなひと……っていったらうれしい?」
「この。(笑)」
「わたし……将来小説家になろうかなあ。」
「展子みたいにのほほんと生きてきた人間には小説は書けないよ。」
「え?……そうか。そうだね」
「そうだよ。」
ふたりは笑った。
1997年1月26日藤沢周平(小菅留治)死去。享年六十九才。タンスの中に遺書のようなもの。“展子をたのみます”……展子さん「普通、逆じゃないの?って母親と笑って。普通はわたしにお母さんをたのみます……ってのが普通で。最期まで親ばかだったんだなあ、と(笑)」

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