Pianist 池田みどり

ピアニスト池田みどりの四苦八苦をまるごとお見せします。
http://www.hi-ho.ne.jp/~midopi/

映画「第4の革命」公開のお知らせ

2011-12-01 | ドキュメンタリー/映画
 原発廃止を宣言したドイツに、そこまでの決心をさせた市民の動き。30年以上の長年に渡る運動ではありましたが、地道な活動こそが画期的なモデル国家へと導きました。そのリーダー的な人たちが手掛けた映画が、この「第4の革命」です。
 ぜひみなさんに見ていただきたい映画が、やっと一般公開されることになりました。
 配給元ユナイテッド・ピープルからのお知らせです。

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1.「第4の革命−エネルギー・デモクラシー」12月17日公開!
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再生可能エネルギーへのシフトが可能であると訴える、ドイツで去年公開
された、「第4の革命−エネルギー・デモクラシー」は、いよいよ、
12月17日、ヒューマントラストシネマ渋谷(東京都)で劇場公開!
その後、順次全国展開します。初日は、飯田哲也さん(環境エネルギー
政策研究所 所長)によるトークあり!ぜひ、特別鑑賞券をご購入の上、
いらしてください(事前に席の確保をおすすめします)
http://www.4revo.org/archives/281

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2.1月14日(いい世!)に日本全国一斉上映会を開催!パートナー募集!
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来年1月14日に、日本全国すべての都道府県を目標に「第4の革命」の
全国一斉上映会を開催します!このイベントは、全国の有志、
イベントパートナーと共に開催します。エネルギーシフトを、第4の革命を
ぜひ、私たちの手で起こしましょう!
http://www.4revo.org/archives/315
※現在、福島県, 岡山県, 秋田県, 千葉県, 山形県, 岩手県, 茨城県, 長野県
 が決定しています(2011.12.1 現在)。

47都道府県すべてでイベント開催をしたいのですが、まだ、8ヶ所です。
どうぞ主催や、主催して下さりそうな方がいれば、お知らせ下さい。


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3.オフィシャルパートナー/パートナーを募集中!(12月7日締め切り)
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この日本でも再生可能エネルギーへのシフトが可能であるビジョンを見せて
くれるこの映画を草の根で全国で上映展開するため、キャンペーンパートナーを
募集します。日本が脱原発を実現し、再生可能エネルギーへエネルギーシフト
するために、どうぞパートナーとしてのご協力をご検討ください。
http://www.4revo.org/archives/445

※ユナイテッドピープル株式会社 ( http://www.unitedpeople.jp/ )

第4の革命 − エネルギー・デモクラシー 予告編(日本語・完成版)


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流通業者としての覚悟〜風評被害に惑わされない

2011-11-02 | ドキュメンタリー/映画
 「プロフェッショナル〜仕事の流儀」の今回は、食品スーパー経営者の福島徹氏。広告もチラシも使わず、40年連続黒字経営を続けるこの店の流儀とは…そこには「いいものはいい」と確信を持って伝える覚悟がある。そして「売れそうか、ではなく、お客様の役に立つか、で考える」

 産直を手掛ける福島氏。提携農家とは、生産者と消費者をつなぐという役目をクリアにする。だから流通業者である福島氏のスーパーの取り分の利率まで、全部わかるように説明する。彼はまずは生産者の人柄を見る。いい人柄はいい商品を生み出すという信念がある。だから何度も生産者のもとに足を運ぶ。生産者はそんな彼を信頼し、一緒に商品開発までする。この店は特別、売値が安いわけではない。しかし納得のできる品質と価格のバランスが顧客の信頼感につながる。

 新米の時期になり今までの産直米に、福島産の米を加えることにした。微量な放射能が福島産の米の一部から検出されたあとだった。震災直後、被災地を応援するために、農産物などは売り上げを一時上げることがあった。しかしそれは長く続かず、現在は以前より福島産の農産物は、ガクンと売り上げが下がっている。今になって風評被害が深刻になっている。風評被害はそれを取り扱う流通業者の価値にまで影響する。売る側にもそうとうの覚悟が必要だ。福島氏は言う。「逃げないで向かい合いたい」「いいものはいいということを、お客様にちゃんと伝えることが、私たちの信用につながるんですよ」

 提携を考えている農家は、農薬も使わず雑草を手作業で除くなどの手間暇をかけて、ていねいに作っている。もちろん、土からも稲からも放射能は検出されていない。福島氏は契約を決めた。生産者はほっと胸をなでおろす。特に風評被害にあっている東北地方の生産者には、どれだけうれしいことだろう。

 このスーパーでは放射能汚染がないということを国の検査、自治体の検査、そして店側の検査とトリプルで安全性を保証していることを、告知した上で、この新米を売り出した。発売当日、心配だったお客の反応は上々。予想以上の売り上げだった。「これだけ安全性が確認されているのであれば、安心して食べられる」「この店の品なら安心だから」福島氏がもっともうれしい言葉だった。

 流通の覚悟。それはいかに信頼を得るかということ。そしていいものはいいと伝えること。

 ※NHKプロフェッショナル http://www.nhk.or.jp/professional/2011/1031/index.html
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プリズンドッグ〜僕に生きる力をくれた犬

2011-09-29 | ドキュメンタリー/映画
 2010年に放送されたNHK世界のドキュメンタリーアンコール作品。私自身何度か見ているし、もしかしたら以前もブログに書いたかもしれませんが、感動の作品なので取り上げます。

 アメリカ・オレゴン州にある青少年刑務所。ここでは虐待されたり捨てられた犬たちの面倒を見て、新しい飼い主に手渡す為のトレーナーを受刑者が行っている。ここでは再犯率ゼロを記録している。全米刑務所の再犯率が50パーセントに達する中、この試みが受刑者である青年たちにどのような影響を与えているかを取材する。2009年6月からの3カ月、3人の若者たちの変化を追う。

 ギャングの一員だったスティーヴンは、我慢ができないタイプ。ドラッグや酒におぼれ、かっとなっては喧嘩沙汰を引き起こしてきた。懲役15年。預かった犬には「ハンター」という名前をつけた。ドッグ・プログラムでは自分でプログラムを決める。まずは伏せを覚えさせようとするが、飼い主に捨てられしつけを受けていないハンターは、言うことを聞かない。7日目、やっと伏せができるようになった。「犬は話し相手になるし、一緒にいると落ち着くんだ。今は犬に救われてる。ハンターをいい新しい飼い主に手渡すことが恩返しだと思ってるよ」

 アレックスは兄を助けるために殺人を犯してしまった。それから心を閉ざし人と話すことさえできなくなった。勉強も出来て学校でも人気者だった。そんな彼が自信を取り戻し、ちゃんと人と関係を築ける自分になるためには…。彼が犬を飼うのは初めて。彼の犬「オレオ」と名付けられた。1ヶ月後の取材では犬の扱いも慣れ、人との輪にも入れるようになり、笑顔が絶えなくなった。「最近妹に幸せそうだって言われるんだ。犬の話をしていると自然と笑顔になるんだ。ここの犬はオレみたいにつらい時期を過ごしてきた。人に捨てられてもう一度人を信用するのは難しい。でもここでまた信用しようと頑張ってる。オレも我慢と忍耐を持ちたいって思ったんだ」

 ジェフが担当するのは激しい気性で飼い主が見はなした「ジギー」。飼い主の横を歩くことから始める。汚い仕事はしたくないという彼は犬のフンの始末もすることになった。両親の離婚後、母親は麻薬中毒になり、ジェフに関心を持つことさえなくなった。暴力団に入り手のつけられない少年となった。手をかければかけるほど、犬はその愛情を返してくれる。「ジギーといると自分の考えがすごくポジティブでいられる。愛情を感じられるっていうことは気持ちのいいものだね」

 ドッグ・プログラムは始まってから16年になる。信頼関係を失った青年たちと犬たちがお互いに愛情の存在に気づかされるプログラムでもある。

 ※BS世界のドキュメンタリー http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/091031.html
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Why not ワーグナー?〜イスラエル室内管弦楽団の60日

2011-09-23 | ドキュメンタリー/映画
ワーグナーは反ユダヤ主義として知られ、イスラエルでワーグナーを演奏することはタブーとされてきました。彼は理論家・文筆家としても知られ、19世紀後半のヨーロッパに広く影響を与えた文化人でもありました。彼を崇拝する人たちをワグネリアンと呼びますが、アドルフ・ヒトラーもそのひとりでした。

特に1850年、K.Freigedankという匿名で出した論文「音楽におけるユダヤ性」では、ユダヤ人である歌劇作曲家マイヤーベーヤやメンデルスゾーンを「さまよえるユダヤ人は絶滅せよ」と批判し、反ユダヤ主義の事件のひとつとなっています。
ヒトラーはこの論文を利用することとになりますが、ワーグナー自身は義父(実父ともいわれる)がユダヤ人であったことや、その後もユダヤ人指揮者を起用するなど親交を結んでもいました。ナチスはことあるごとにワーグナーの音楽で党大会を盛り上げ、ガス室に送られる人々もワーグナーの音楽で見送ったといいます。

ワーグナーとヒトラーは世代に亘り親交を結び、ワーグナー一族は、ヒトラーに手厚い保護を受けていました。ヒトラーはワーグナー邸から指示を出していました。息子ジークフリートの妻ヴィニフレートは未亡人となってもヒトラーを支え続け、結婚の噂までありました。

ワーグナーの聖地、バイロイト祝祭劇場は彼のひ孫であるカタリーナ・ワーグナーに引き継がれ、総監督として活躍しています。2011年7月、イスラエル室内管弦楽団がバイロイト市庁舎ホールでワーグナーを初めて演奏するという歴史的なイベントが行われることになりました。
「一族には多くの暗い過去があり、一部のメンバーにはタブーのテーマだが、私は幸いなことに(ナチスの)第三帝国とは何の関係もない。「どうぞ文書をすべて見てください」と言える立場にある。
 こうした問題の存在を否定することが一番誤ったことなのだ。私は一族の暗い過去がなかったかのように振る舞うことはできない。
(2011年1月20日付朝日新聞より)」
そう語るカタリーナは美人で才女のようです。
※カタリーナ・ワーグナーの画像、写真【作曲家ワーグナーのひ孫】 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2128641536522588601?keyword=%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%BC

世界中のユダヤ人奏者から構成されるこのイスラエル室内管弦楽団の音楽監督であるロベルト・パテルノストロさんは、「純粋に素晴らしい音楽を次世代に伝えたい」という想いを語っています。
楽団員全員の家族はホロコーストの被害者で、ワーグナーを演奏することには拒絶感があり、彼らの心の揺れがドキュメンタリーでは描かれました。

「ワーグナーと聞くだけでぞっとするわ」「ワーグナーはホロコーストの象徴だ。その音楽を演奏することは許されない」

1971年、テルアビブでもワーグナーの楽曲演奏がされましたが、その時にはコンサートは激しいヤジの嵐になり中断された経緯があります。今回もニュースが流されるなり、世論は大きな批判と、次のステップに進むべきだという意見がまっぷたつに分かれました。プログラムは細心の注意を払い、まずはイスラエル国歌が最初に演奏され、その後最愛の妻コジマと家族のために作ったという楽曲、ジークフリート牧歌が演奏されました。

音楽は歴史も政治も超える。そう信じたいですね。

※ノンフィクションW・WOWOW Why not ワーグナー? http://www.wowow.co.jp/documentary/nonfictionw/story0822.html
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「ヒロシマの黒い太陽」その3

2011-08-19 | ドキュメンタリー/映画
 広島で原爆投下により被爆しながらも、直後から治療を行っていた蜂谷道彦医師「ヒロシマ日記」より:
「8月9日、やけど・外傷の有無と無関係にみな、一様に訴える症状があるのがわかった。罹災者はすべて食欲不振がある。そのうちに吐き気を訴えるものがかなり多い。(中略)患者の症状はさまざまで一定の基準がない。」
「20日、待ちわびた顕微鏡が東京から到着した。我々の部屋の6人は申し合わせたように白血球が3000前後であった。正常人の白血球数は6000から8000だ。なかには500〜600しかないものがある。瀕死の重症患者はわずか200しかないのがあった」

 1ヶ月後、米国の記者団は広島・長崎に入った。長崎では米軍によって秘密裏に残留放射能が測られた。マンハッタン計画医学部長スタッフォード・ウォーレンは長崎に入り、日本の医師たちのデータを集め、本国に送られ軍事機密とされた。一部は医療用映画「放射線による疾病」になり、この番組でみることができる。

 医師・肥田舜太郎「内部被ばくの驚異」より:「職員全員に、厚生大臣からの通達があるので厳重に守るようにと通達があった。広島・長崎の原爆被害はアメリカ軍の機密であり、何人も被害の実際について見たこと、聞いたこと、知ったことを話したり書いたり絵にしたり写真に撮ったりしてはならない。違反した者は厳罰に処す」
 9月から占領軍による検閲が実施された。特に広島・長崎では厳戒され、紙面からは原爆に関する言葉は消えた。およそ10年間、原爆投下による情報は隠されることになる。検閲により没収された印刷物は米国メリーランド大学の図書館に保存されている。

 1945年マンハッタン計画医療班報告:「核爆発に伴う放射線は爆発後数秒続き、人々を傷つけたが、すべて初めの1分間で終わった。他の2種類〜残留放射能と爆心地付近の瓦礫の放射能はいかなる犠牲者も産まなかった。それは確固たる方法で証明されている」

 戦後、米国では検閲が解除された。米国民はこの時まで原爆が自国で製造されたことさえ知らなかった。

 ライフ誌9月11日オッペンハイマー:「化学兵器や放射性物質による土壌汚染に比較しうる影響はなかったはずだ。通常火薬の大規模な爆発と変わりはない」

 マンハッタン計画トップのグローブス将軍「日本で本土決戦となれば犠牲者の数は膨大だっただろう。チャーチルは100万人以上とみていた。原子爆弾は日本人の意思をくじき戦争を終わらせた」
 審議会では、残留放射線に関する質問で、彼はきっぱりその影響は「きっぱりゼロだと云えます。爆発の瞬間を除き放射線の障害はありません。一瞬の被害だけでした」と答えている。
 解毒剤については「放射能の被害はいろいろです。大量に浴びれば即死です。少量なら死期がやや早まっても苦しみはまずない。安楽死のようなものだというのが医師の見解です」

 1946年8月トルーマンは「原子力法」に署名。マンハッタン計画は政府組織AEC(原子力委員会)に移管された。

 ウォーレン医師はプルトニウムの影響に関する人体実験を行い、11人中3人が死亡。データは機密とされた。日本では被爆者1万4千人のデータが集められた。長期調査を目的とした機関ABCC(原爆障害調査委員会)が広島・長崎に設置されることとなる。そのデータは1975年まで防衛機密とされた。

 現在、ABCCのデータバンクは一般公開され、放射線防護のための基準を定める国際的な目安とされている。染色体異常については長年研究されており、被爆者の免疫細胞のバランスが崩れていることが認められていると、研究員は語る。

 唯一の核爆弾を受けた国、日本。戦後、世界で3番目の原子力エネルギー生産国となった。そして福島第一原発事故はまだ収束を見ていない。

  ※ハイビジョン特集「ヒロシマの黒い太陽」
http://cgi2.nhk.or.jp/navi/detail/index.cgi?id=1720110806
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「ヒロシマの黒い太陽」その2

2011-08-19 | ドキュメンタリー/映画
 番組の残りの記録をお約束しておきながら、忙しさにかまけております。前回の続きです。
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 ルーズベルトとチャーチルがかわした「ハイドパーク協定」(1944年)には、すでに核兵器の使用について書かれており、それは日本に対して終結を迎えるまで何度も行われだろうとされている。

 1945年2月ヤルタ会談では、スターリンが対日参戦を表明。日本はこの時点でどの国の占領下になるかまだ分からない状態だった。
日本への攻撃はサイパン、硫黄島にとどまらず、3月10日には東京大空襲によって決定的な打撃を受けた。

 同年、4月トルーマンが大統領に就任。副大統領であったにも関わらず、核兵器開発「マンハッタン計画」は隠されていた。就任後その情報を知ることとなる。
 大統領就任演説では次のように述べられた。
 「ドイツと日本に告ぐ。アメリカはあらゆる軍事抵抗がなくなるまで、自由のために闘い続ける。我々の要求は変わらない。無条件降伏である」

 5月8日、ドイツ降伏。核兵器開発のリーダーであるオッペンハイマーは、この時期、最後の調整にかかっていた。あとは実行する時期だけが問題だった。日本の数か所の都市が候補に挙がった。シカゴでは日本に核爆弾を落とすという警告が必要かどうかが議論された。国務長官バーンズは次のように述べた。「我々はこの爆弾の開発に20億ドルも費やしてきた」膨大な使途不明金を国民に説明するためにも、結果が必要だった。マンハッタン計画は軍事目的のみならず、戦後も核使用という点で開発を続けるべきだとされた。

 7月16日、ニューメキシコ州アラモゴルドにて、世界初の核実験が行われた。それは予想を越えた破壊力だった。即座にその報告はポツダム会談に向かったトルーマンに伝えられた。彼は対日戦は米国の力だけで終結できるという自信に満ちた。ポツダム宣言第13条では無条件降伏を飲まない限り「迅速且完全ナル壊滅アルノミトス」とされている。

 テニアン島ではひと月前から原爆投下の準備が進められていた。8月6日、「リトルボーイ」(4.4tウラン型爆弾)はB29に積載され、高度9000mから投下、40秒後広島上空600mで爆発。爆発により火の玉ができ、その温度は摂氏100万度に達した。火の玉は音速を越えて広がり周囲を焼き尽くした。

 その2日後、ソ連軍は満州に侵攻。8月9日、2発目の原爆「ファットマン」(プルトニウム爆弾)は長崎に投下される。爆心200mでは人体は消滅するか炭化した。

 (続く)

 ※ハイビジョン特集「ヒロシマの黒い太陽」
http://cgi2.nhk.or.jp/navi/detail/index.cgi?id=1720110806
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「ヒロシマの黒い太陽」

2011-08-14 | ドキュメンタリー/映画
 広島に落とされた原爆によって、この年の暮れまでに約14万人の犠牲者を、被爆者は約20万人に及ぶ。「放射線影響研究所」は戦後、米軍が設営した「原子爆弾傷害調査委員会」を前身として、現在、日米で共同研究されている。被爆者とその子孫についての調査が続いている。

 1933年、世界の物理学者がベルギーに集まった。その中のひとり、米国人アーネスト・ロレンスは中性子によるウランの核分裂の研究していた。
 1939年ドイツはチェコスロバキア併合。ヨーロッパ随一のウラン鉱山がナチスの手に落ちたことになる。ポーランド侵攻によってはじまったとされる第二次世界大戦は化学兵器の戦争でもあった。米国ルーズベルト大統領は中立国としての立場をとったが、それは微妙な賭けでもあった。
 同年、アインシュタインは大統領宛の手紙の中で核爆弾の可能性について書いている。手紙を受けて大統領はウランと核分裂についての諮問委員会を作る。米国のみでなく、ナチスの手を逃れてきたヨーロッパ各国の化学者たちが集結した。ナチスと真っ向から闘っていた英国のチャーチル首相は、米国に核爆弾製造の可能性を託した。
 1941年「モード委員会」によるのレポートで、核爆弾の破壊力と製造の可能性が報告された。ルーズベルト大統領は、議会にかけることなく機密事項としてこの計画を推し進めた。
 同年12月、真珠湾攻撃により、米国は連合国と合流し本格的に参戦することとなった。

 1942年9月、レスリー・グローブス将軍が核開発計画のトップとなると、本部をマンハッタンに置いた。以降、この計画は「マンハッタン計画」と呼ばれる。彼はベルギー領コンゴのウラン鉱山と手を結び、すべてをマンハッタンに運び込んだ。また、多くの科学者のトップとして、ロバート・オッペンハイマーを選んだ。結果は求められ、予算に制約はなかった。

 2ヶ月後、シカゴ大学構内でエンリコ・フェルミによる世界初の原子炉のテストを成功させた。軍事機密として誰にも知らされなかった。この実験にはデュポン社も関わった。担当のグリーンウォルド氏は、放射線の人体に対する影響に関して、懸念し、リスクを確認するために、ロバート・ストーン医師を訪ねた。彼は、がんの治療に放射能を使用することを研究していた。リスクはグローブスに受け入れられ、デュポン社には多額の保証金が支払われることとなった。

 デュポン社は、ワシントン州ハンフォードに、1年半で3機の原子炉を作った。テネシー州のオーク・リッジでは爆弾原料を製造した。GE社などが施設を運営することとした。数万人の勤務者は秘密保持の誓約をし、戦後まで自分が何を製造しているかを知らないままに勤務していた。マンハッタン計画の本部は、このオーク・リッジに移された。職員の臨床検査は行われ、医学面も放射能は研究された。
 ハミルトン医師は放射能は武器としても使用可能で、放射能を空から撒けば汚染できることを報告している。食物汚染による殺傷についてもオッペンハイマーとやり取りされている。

 そのころドイツは核開発を諦めていた。ヒトラーはむしろ石油の確保にやっきになっていた。

 オッペンハイマーはニューメキシコ州ロス・アラモスに秘密軍事基地を建設し、世界初の核兵器製造が約2000人の科学者たちによって進められた。放射能の人体に対する影響がわからないまま、作業員たちは日常的に放射能にさらされていた。体内被曝についても研究された。患者には知らせずに、プロトニウムを体内に注射しその許容量を調べることも許された。

 (続く)

 ※ハイビジョン特集「ヒロシマの黒い太陽」
http://cgi2.nhk.or.jp/navi/detail/index.cgi?id=1720110806
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「それはミズーリ号から始まった〜日本の運命を分けた2日間〜」

2011-08-09 | ドキュメンタリー/映画

「終戦の日は?」と聞かれると、私たち日本人は8月15日と答えます。昭和天皇による終戦の詔書の朗読、つまり玉音放送がされ、日本の降伏が国民に伝えられた日です。米国人に同じ質問をすると9月2日と答えます。ミズーリ号船上で降伏文書に調印された日です。

 1945年7月26日、米英中(後にソ連も加わります)が日本政府に対してポツダム宣言を発し、無条件降伏を求めます。8月6日には広島に、8月9日には長崎に原爆が投下されます。8月14日、日本政府はポツダム宣言の受諾を言い渡します。9月2日降伏文書に調印した後も、日本政府の消滅を食い止めようとした幾人かの努力がありました。

 調印の直後、GHQから日本政府に伝えられたのが、「三布告」と言われるものです。
「日本の公用語を英語とする」
「日本の司法権はGHQに属する」
「日本円を廃しB円と呼ばれる軍票を日本国の通貨とすること」

 9月2日9:25、調印が終了。16:00 横浜終戦連絡事務局・鈴木九萬(ただかつ)が、GHQ(現・横浜税関)に呼び出されます。マーシャル参謀長官より「明朝6時に、この三布告とともに軍票B円を公布する」。占領としか思えないこの布告にびっくりした鈴木は、「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されること」とされているポツダム宣言に違反していると、猛反撃をします。しかし三布告にはマッカーサーの最終確認の署名がされていました。残すは13時間。

 終戦連絡中央事務局 岡崎勝男局長はGHQの泊まっている横浜・ホテルニューグランドに潜入し、三布告撤廃を直談判します。GHQナンバー2のサザーランド参謀長官の部屋を見つけますが、実は人違い。ところが、彼が岡崎の熱意に負けて呼び出してくれたのが、マーシャル参謀長官。彼の説得にマーシャル参謀長官は明日の公布は延期するが、最終決定はマッカーサーがすると譲歩をします。

 寝ずに岡崎の帰りを待っていた外務大臣・重光葵(まもる)は、9月3日8:00、GHQに向かい、マッカーサーに直接交渉すべく待ち続けました。重光は三布告は、直接軍政下に日本政府をおくこととなり、ポツダム宣言に違反する旨を説きます。12:00、三布告は公布中止となりました。

 この3人の不退転の努力がなければ、今の日本はなかったでしょう。あまり知られていなかった三布告をめぐる日本人のがんばりは、私たちを改めて励ましてくれるものでした。

 ※NHKオンデマンド BS歴史館 それはミズーリ号から始まった〜日本の運命を分けた2日間
http://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2011028049SA000/

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"9.11テロに立ち向かった日系人”

2011-07-22 | ドキュメンタリー/映画
 「渡辺謙 アメリカを行く」シリーズの第二弾は、特に渡辺謙自身が震災に対して自分たちが何ができるかを問い詰め、事件や災害にどのように立ち向かっていくことができるのかを、アメリカの歴史から学び直していく作業でもある。彼自分の足で歩き、人に会い、ひとつひとつを紡いでいく。

 テロ発生当時、米国の運輸長官だった日系二世、ノーマン・ミネタさん(日本名・峯田良雄)は、事件発生直後、次のように発表した。

 「アラブ系イスラム系アメリカ人はすべての国民と同じだけの尊厳と敬意をもって接せられます。外見や肌の色で判断されることについて、私は実体験として知っています。日本人が祖先である私の歴史は両親の精神力と強い志、そして日系アメリカ人が直面した不当な扱いの数々から成り立っています。」

 ノーマン・ミネタは米国初の日系人議員で、クリントン政権では商務長官、ブッシュ政権で運輸長官に務めた。幼少のころにはハートマウンテンの日系人強制収容所に収監されていた経験を持つ。

 テロの恐怖から、多くの米国人はアラブ系イスラム系の人間に復讐をあらわにした。それは子供や女性にも及んだ。彼らは米国に居ることの恐怖を感じた。「人種プロファイリング」なるものが彼らの国民性を危険なものとした。
 そんな中での、ミネタ氏のこの発言は大きな波紋をもたらした。しかし、彼の信念はそれを曲げることを許さなかった。

 「これは正しいことなのです。そう考えたら揺るがないことです。後に引かないのです。強い姿勢で立ち向かうのです。”こう私たちは感じている””このやり方でやる”と言うべきです。全く引き下がりませんでした。多くの人が手りゅう弾のようでしたよ。耐えるしかありません。これは正しいことなのです。憲法にのっとっているのです」

 この問題に立ち向かったのはミネタ氏だけではない。アラブ系イスラム系の人たちを守ろうと、日系人たちが立ち上がった。その中心的人物がキャシー・マサオカさん(日本名・正岡義枝)。彼女の母も強制収容所に収監されていた。しかし母はそのことを娘には話そうとはしなかった。
 強制収容所の全貌は徐々に白日のもとにさらされ、その証言を国民が目にするまでには長い時間がかかった。1988年8月10日、レーガン大統領は「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)に署名し、謝罪と補償がされた。

 その442法案を提出する際のミネタ氏の言葉は多くのことを語っている。(1987年9月17日)
 
 「私たちは家を失い、ビジネスも失い、農場を失いました。しかし、いちばん失ったものは我々の最も基本的な人権でした。国が命じた強制収容の侮辱に私たちが異議を唱えなければ、悲劇の亡霊は、再び世に現れます。不法行為は繰り返されます。本日は12万人のアメリカ人が45年もの間背負わされてきた屈辱の重荷を降ろせるかどうか決断するのです。この日は私にとって生涯忘れない日となるでしょう。正義が達成された日として記憶されるよう助けてください」

 日系人とアラブ系・イスラム系の若者たちの交流会で、ミネタ氏は次のように語りかけている。
 
 「一人の人間として誇りを持つのです。それを他人と共有しましょう。恐れる必要なありません。そして君たちの先祖にも誇りを持ってほしいと思います。宗教も言語も芸術も先祖が出身国から持ってきたすべてのものを…
 さらに大事なのはそれを他の人たちと共有することです。
 ”互いを知る”ことが重要です。恐怖心は”未知”から生まれるのです。何かについて誰かについて知れば知るほど恐怖感は消えていきます」

 ※渡辺謙 アメリカを行く ”9.11テロに立ち向かった日系人”
http://www.nhk.or.jp/kenwatanabe/index.html
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映画「ローマの休日」と赤狩り

2011-06-27 | ドキュメンタリー/映画
 多くの人に愛される映画「ローマの休日」は夢のようなストーリーですが、実はこの脚本は赤狩り(共産主義者排斥運動)でハリウッドを追放されたダルトン・トランボが、書きあげたものでした。彼は自分の名前を伏せるため友人イアン・ハンターの名前を借り、ハンターは1953年のアカデミー賞最優秀脚本賞を受賞します。1993年、トランボの遺族にアカデミー脚本賞が40年ぶりに渡されました。

 1929年に始まった大恐慌から立ち直るためにルーズベルト首相はニューディール政策を打ち立て、貧富の差をなくそうと共産的な考え方に復興を目指します。ダルトンが共産党に入党したのはこの時期です。しかしソビエトが台頭し、共産主義が現実化する中、1947年3月トルーマン大統領は共産主義封じ込め政策を打ち出します。これが米ソ冷戦の始まりです。非米活動委員会は、共産主義者を取り締まるためにハリウッドに目をつけます。10月公聴会が開始されます。先陣を切ったのはウォルト・ディズニーなどの反共産主義のトップスターたちでした。トランボは当時売れっ子の脚本家でした。彼を含め、ハリウッド・10と呼ばれる人たちは証言を拒否することで、赤狩りに反抗しました。翌月アメリカ下院はハリウッド10の議会侮辱罪を可決。映画制作協会は赤狩りへの協力を表明し、共産主義者は雇用しないと表明しました。トランボは絶頂の時期にハリウッドから追放されました。ハリウッドは赤狩りによって分断されました。 

 ローマの休日の監督であるロバート・ワイラー氏は、共産主義者ではないものの、思想の自由を迫害するものだとこの赤狩りに抗議しました。
 「非米活動委員会は表現を抑圧しハリウッドに恐怖をもたらしている。恐怖は検閲を、検閲は映画を麻痺させる」

 追放されながらもトランボは偽名を使って脚本を書き続けました。1948年ごろ、親友イアン・ハンターの秘密を守ると云う堅い約束を得て、ローマの休日は書きあげられました。撮影はハリウッドを避けローマ・ロケで行われました。実は赤狩りで追放されたスタッフも混じっていました。ワイラー監督が信頼するスタッフたちで固められたロケでした。1950年にはトランボは10カ月投獄されます。しかし、その後赤狩りを扇動していたマッカーシー議員は議会を追われ、赤狩りは収束していきます。その後まもなく米ソ冷戦が終わりを告げると、この映画「ローマの休日」はモスクワで公開され、好評を得ました。

 トランボは1960年以降、スパルタカス Spartacus(1960年)、栄光への脱出 Exodus(1960年)、いそしぎ The Sandpiper(1965年)、ダラスの熱い日 Executive Action(1973年)、パピヨン Papillon(1973年)の脚本を書いています。特に1971年にはジョニーは戦場へ行った Johnny Got His Gunを小説化し、映画化されています。

 ※BS歴史館 シリーズ ハリウッド100年(1)「ローマの休日」〜赤狩りの嵐の中で〜オンデマンド 
 https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2011028050SA000/index.html
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