「赤尾の道宗(どうしゅう)申され候ふ。一日のたしなみには朝つとめにかかさじとたしなむべし。一月のたしなみにはちかきところ御開山様(親鸞聖人)の御座候ふところへまゐるべしとたしなめ、一年のたしなみには御本寺へまゐるべしとたしなむべしと[云々]。これを円如様きこしめしおよばれ、よく申したると仰せられ候」『浄土真宗註釈版聖典』P1247
蓮如上人の御時、赤尾の道宗は、月々の別院参り、毎年のご本山参りを続けられたということです。交通の発達していなかったあの時代に、何十キロも離れた別院にお参りし、何百キロも離れたご本山にお参りするのですから、その苦労はいかばかりであったかが知らされますし、現在の私の真宗人としてのたしなみを大いに反省させられます。
ご本願まことと聞かせていただいてより、最低月に一度は法座にお参りし、信心の溝をさらえて弥陀の法水を流させて頂いておりますが、同じことを聞かせていただくたびに、新たな味わいが出てきますし、今まで聞き流していたこと、誤解していたことが種々知らされてきます。
ある和上さんは、「仏説」という語をいつも力を入れてお話してくださいます。仏説は私たちの分別智を離れたさとりの世界から出てきた言葉でありますが、この語について聞かせていただくたびに、仏さまの言葉を虚妄分別の頭でこねくり回してきた我が身と、そのような私に届けられた南無阿弥陀仏の六字の中に阿弥陀さまのおさとりの全てが知らされ、ただ頭が下がるばかりです。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
蓮如上人の御時、赤尾の道宗は、月々の別院参り、毎年のご本山参りを続けられたということです。交通の発達していなかったあの時代に、何十キロも離れた別院にお参りし、何百キロも離れたご本山にお参りするのですから、その苦労はいかばかりであったかが知らされますし、現在の私の真宗人としてのたしなみを大いに反省させられます。
ご本願まことと聞かせていただいてより、最低月に一度は法座にお参りし、信心の溝をさらえて弥陀の法水を流させて頂いておりますが、同じことを聞かせていただくたびに、新たな味わいが出てきますし、今まで聞き流していたこと、誤解していたことが種々知らされてきます。
ある和上さんは、「仏説」という語をいつも力を入れてお話してくださいます。仏説は私たちの分別智を離れたさとりの世界から出てきた言葉でありますが、この語について聞かせていただくたびに、仏さまの言葉を虚妄分別の頭でこねくり回してきた我が身と、そのような私に届けられた南無阿弥陀仏の六字の中に阿弥陀さまのおさとりの全てが知らされ、ただ頭が下がるばかりです。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏