連続無窮

ベイスターズファンの名も無き同行が他力信心を通して知らされた世界を綴らせて頂きます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

お聴聞

2010-10-31 19:41:05 | 真宗・信心
「赤尾の道宗(どうしゅう)申され候ふ。一日のたしなみには朝つとめにかかさじとたしなむべし。一月のたしなみにはちかきところ御開山様(親鸞聖人)の御座候ふところへまゐるべしとたしなめ、一年のたしなみには御本寺へまゐるべしとたしなむべしと[云々]。これを円如様きこしめしおよばれ、よく申したると仰せられ候」『浄土真宗註釈版聖典』P1247

 蓮如上人の御時、赤尾の道宗は、月々の別院参り、毎年のご本山参りを続けられたということです。交通の発達していなかったあの時代に、何十キロも離れた別院にお参りし、何百キロも離れたご本山にお参りするのですから、その苦労はいかばかりであったかが知らされますし、現在の私の真宗人としてのたしなみを大いに反省させられます。

 ご本願まことと聞かせていただいてより、最低月に一度は法座にお参りし、信心の溝をさらえて弥陀の法水を流させて頂いておりますが、同じことを聞かせていただくたびに、新たな味わいが出てきますし、今まで聞き流していたこと、誤解していたことが種々知らされてきます。

 ある和上さんは、「仏説」という語をいつも力を入れてお話してくださいます。仏説は私たちの分別智を離れたさとりの世界から出てきた言葉でありますが、この語について聞かせていただくたびに、仏さまの言葉を虚妄分別の頭でこねくり回してきた我が身と、そのような私に届けられた南無阿弥陀仏の六字の中に阿弥陀さまのおさとりの全てが知らされ、ただ頭が下がるばかりです。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

無条件

2010-10-11 18:08:12 | 真宗・信心
 阿弥陀さまのお助けが、ある条件を果たして後の無条件であるならば、それは条件のない救いの語義を逸脱した条件のある救いです。

 今、ここで、ありのままの私がお助けに預かるから無条件の救いなのです。

 ある条件と私自身が妄想しているものには、沢山あります。

「真剣になって聞き切ったら」
「不断のお念仏が出てきたら」
「一生懸命廃悪修善ができたなら」
「諸善→念仏→信心の軌道に乗ったなら」

等々数知れません。

 しかしそれは、
「ぼくの考えた浄土真宗」
であって浄土真宗ではありません。

 阿弥陀さまの18願のお助けは、あくまで「そのまま」です。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

お念仏

2010-10-10 13:27:54 | 真宗・信心
「なぜお念仏を称えないのか?」
という問いかけに、最初は、お寺の中でお念仏が聞こえないことを言うておるのかな?と聞いておりましたが、実は私がお念仏を忘れていたのだとお聞かせ頂き、どこまでも定まらない私の心を思い知らされました。

 定まらない私の心を定めよというご本願だったら、間違いなく私は漏れていたでしょう。
 定まらぬものは定まらぬまま、そのまま助けるご本願に、最初は話が上手すぎると背を向けておりましたが、実は自分の心ぐらい自分で定められると自惚れていただけだったのですね。

 あほやったなあ。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

如来の言葉を聞く

2010-10-09 18:06:20 | 真宗・信心
真の知識にあうことは
かたきがなかになおかたし
流転輪廻のきわなきは
疑情のさわりにしくぞなき
(親鸞聖人)

 いろいろなお同行と接していると、時折こんな人がいます。
「あの僧伽(サンガ/仏法者のコミュニティ)はこうだった、ああだった」
という文化の違いをいうのですが、なぜか、
「阿弥陀さまの願いはこうでした」
という阿弥陀さまのことが聞こえてこないのです。
 その人が語っている僧伽の中には阿弥陀さまのこころを知っている人がいて、その人は
「阿弥陀さまに聞け」
と言うておるのになぁ。

 いろいろな先生から、いろいろな化風の違いがあるとはいえ、阿弥陀さまの仰せを聞かせて頂いていますが、まことの方は常に、阿弥陀さまの仰せに押し出して下さる方であり、
「私の言葉を聞け」
とオレの話を聞かさないで阿弥陀さまの仰せばかりをお伝え下さる方ばかりです。

 人の言葉を通し、人の言葉を離れて、阿弥陀さまに仰せを聞いてみると、阿弥陀さまの
「助けるぞよ」
以外に聞こえてきません。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏