いろんなことが同時進行する。
大事な事に気付けるように心の触角を鋭敏にして、
今、この瞬間も、何が起こっているのか把握したい。
いつだってそんな風に怒涛のように人生は進んでゆくのだ。
何にも気付けなければ雨水に流されてゆくアリンコのように翻弄されるだけだ。
翻弄され、流されて行くにしても、足掻きながら行くべきだ。
私は、私の命の火が消える瞬間まで諦めずに足掻いてやる。
さて、
先週の土日の休みに俺は「騎士団長殺し」1部、2部、買ってきて、一気読みしたのだ。
「読むまい」とか言ってた?そんなこと言ってたっけ?
「興味ない」って言っただけだよ。
でも読みたくなったから読んだんだ。
やっぱり、良かったな。
期待し過ぎずに読めばいいのだ。
でも今回、「1Q84」とか「カフカ」とかと決定的に違うのは、
主人公がフツーに、オトナの男だから・・・・という部分って大きいのではないか?
等身大な感じするもの。
あと、1部と2部の二冊で、ちゃんと「終わってる」感があるのが、何よりも嬉しい。コンパクトだ。
これなら、「読後カタルシス」みたいなものも、ちゃんとある。
仮に・・・もしも、後日に3部が出版された、としても、それはそれでいい。でも出ない気がする。
「1Q84」のときは、絶対これ、終わってねぇよ・・・・・という確信があった。
「ねじまき鳥」も、ぐずぐずと続いたよね。ああゆうのはちょっと・・・。
でも、この本・・・・夢中になって、喰いつくような感じで読めたので、もうそれだけでいいようなものなのだが
ちょっとだけ不満もあって、
それは結局、最大の山場がまた「壁抜け」だったこと。「井戸」を思わせる場所へ通じる、「壁抜け」。
「ねじまき鳥」の繰り返しだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
地下の狭い通路を殆ど死ぬ思いで潜り抜ける、というのも「ハードボイルドワンダーランド」を思わせて、
それはそれでいいのだけれど、
「ハードボイルドワンダーランド」では、あれは飽くまで「現実」だった。
「壁抜け」となると現実か妄想か夢か・・・わからない。
まあいいか。文句つけるのは止めよう。
そうだ、そういえば今回の「騎士団長殺し」、
全体が、レイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」を思わせる
「男同士の友情譚」になっているところは特筆すべき点だ。もちろん、いい意味で。
初期三部作は実は、そうだったし、
「ダンス、ダンス、ダンス」も、五反田くんの存在は、悪くない。
「世界の終わり」にも、「影」がいたよね。
あと、主人公が「画家」、というのも斬新で良かった。
深層を読み解き、描く「肖像画家」。これってすごく「村上春樹」っぽいのだ。
実際に本人も抽象画を描いていたりする。
この作品ならきっと、後日、何度も読み返すことが出来るだろう。
俺は彼の初期作品はアホほど読み返しているのだが、
「ねじまき鳥」「カフカ」「1Q84」は、読み返す気にならないのだ。
今回のは良かった。
でも、ほかの人はどんな風に思ったのだろう?
でもしかし、「読書」なんて個人的なものだから究極には他人がどう思おうが、
関係ないんだけど。
でもちょっと聞いてみたい気もする。
「読書会」みたいな感じで。