Michiyo Kamei "Shape of life"いのちのかたち  

画家 亀井三千代 記
「身体曼荼羅」春画と解剖図
michiyokamei diary

神ではない。

2016年12月13日 09時31分22秒 | 日記


墨で描いていると、
能動的に「描く」、というよりも
水の動きや染みこみに合わせて、自然に絵が出来てくる。
かといって、私は受動的な存在というわけでもない。
絵とのやりとりは、受動と能動の混じり合ったその中間だと思う。

よく、何かが自分に降りてきて「自分ではない何者か(神?)に描かされているのだ!」とか言う人いるけど
その場面に出くわすたびに、違うんだよなぁ~(ずるい!)って思う。

そんなふうに言葉にする方が神秘的に思えるし
素直な人はひっかかるのかもしれませんが
そもそもこの世界は、言葉にするなら受動と能動が混じり合い
分かつことのできない状態じゃんか!と思う。

人は言葉に惑わされて、
私は受動なのか、能動なのか、
凡庸なのか、非凡なのか、…などと自分を定義したがるが
よくよく日常を観察すればそんな定義は普遍になり得ず
それを考えているその瞬間にも自分は自分をすり抜けて
すでに流動していることに気づく方が有意義だ。

だから「あの人はああいう人だ」「これこれはこういうモノだ」と定義するのも
ある意味無駄なことだし、視野を狭くする。
会話だったらおそらく不毛。逃げる方が良い。

言葉の定義づけから自由になるのは
「訓練」と呼びたいくらい難しいことかもしれないが
その事に気づいている人を見つけたら、互いにツッコミを入れながら会話を楽しみたい。
(ただし、いろんな人の集う場でこれをやると
単なる”地雷踏むKY”で終わるので気をつけたい)



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