インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

再帰(カムバック)3(中編小説) 

2017-04-18 17:54:51 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)

   二

 年末に照準を合わせたコンサートのパブリシティ手段として、夏にスーが本を出すことになった。「一世を風靡したグループサウンズ、アドニース物語」とのタイトルで、一九六七年のメンバー結成のいきさつから、四年後の七十一年のグループ解散後のメンバーの足取り、スー自身のその後の経緯を綴ったいわゆる自伝ともいうべきものだった。締めくくりはもちろん、アドニース再結成の公表で終わる。この編集の仕事が泰三に回ってきた。版元は大手出版社だが、スーの口利きで外注仕事を回してもらえたのだ。出版社から編集代が支払われるほか、印税の二〇%も泰三の手元に入ることになった。
 泰三は喜び、早速高槻に編集業務を託した。彼はフリーで銀行の業界紙の仕事を長年やってきたが、すでに月刊誌からは引いて、臨時増刊号のみに関わっていたので、時間があった。快よく承諾された。
 二ヶ月後に仕上がった二五〇枚の原稿はほとんど直しが不要だった。有名私大の文学部を中退していたスーは、初めて書く本にしては文章がうまく、高槻の舌を巻かせたのである。予定通り夏に刊行され、元アドニースのスーが書いたというので、大手新聞や週刊誌に採りあげられ、話題になった。たちまち重版、秋までに五万部売れてベストセラーになった。泰三の懐にも編集費と印税の手数料が転がり込んできて、潤った。高槻への給与を払っても、百万近い金が手元に残り、ほくほくだった。 

 しかし、スーはこのところ浮かない顔をしていた。年末に焦点を合わせたカムバックコンサートの件が思うように進んでいないせいらしかった。ある日、久々に事務所に顔を出したスーは、泰三相手に憂慮を打ち明けた。
「ボーカルのレオがなかなかうんと言わんのですよ。人前に車椅子の身をさらすことは恥だという感覚があるんですね。もう引退したんだから、いまさら老いさらぼえた身をさらしたくないって。そのくせ、酒を飲ませて歌えとそそのかすと、昔のメドレーを口ずさんだりするんですが、声がいささかも衰えてないんですよ。伸びやかな美声で、うっとり聞き惚れてしまう。メインのボーカル、レオは再結成メンバーにはどうしてもほしい。ファンだって、復活を待ちわびてるはずだ。なのに、頑固にうんと言わないんですよ」
「レオさんは今、どこに住んでらっしゃるんですか」
「世田谷の借家です。スター時代に貯めた金は全部浪費してしまったらしく、二年前唯一の支えだった奥さんを亡くしてからは、意気消沈して、実は今生活保護を受けているんです。市の派遣する介護人が来てくれて、なんとか日常生活はまかなっているようですが」
 泰三には、自分より二つ年下の、かつての華やかなりしスター、レオの落ちぶれようが身につまされた。
「鈴江さん、お差し支えなかったら、一度レオさんと差し向かいで話させてもらえませんか。自分に説得のようなことができるとは思わないけど、やるだけのことはやってみますよ」
 スーは泰三の申し出を喜んで、善は急げとばかり、三日後の夕刻、また事務所に現れて、泰三を伴ってレオの自宅へと引いていった。
 東急多摩川線沿いにレオの借家はあった。閑静な住宅地で、瀟洒な家々が立ち並ぶ一角をさらに行った草深い奥地に一軒、今にもかしぎそうな瓦葺き屋根の旧家があった。玄関口に車椅子の両輪を回して現れたレオは、変わり果てていた。往年の美青年だった面影はどこにもなく、白髪頭にやつれた無精ひげ顔、車椅子の上の体は萎えていた。往時はあれだけおしゃれだったのに、着古した茶色のトレパン姿だった。泰三は、ナチのハーケンクロイツ腕章をつけた黒の革ジャンの舞台衣装で物議をかもしたこともあった、レオの若かりし頃を思い出し、落差に胸が痛んだ。裸けた上半身にチェーンを巻きつけ、ぴっちりまつわりついた黒の革パン姿で、傾げたハットの下から気怠く物憂げなまなざしで歌う、セクシーなヒットソングもあったっけ。あの曲の題名はなんと言ったか。
「レオ、こちらは、ぼくの処女本その他、事務的な細々したことでお世話になっている、藤倉泰三さんだよ」
 レオは卑屈そうな目で、心持頭を下げ、
「芦田玲於です、よろしく」
 とぼそりと名乗った。明らかに歓迎されていないことは、一目瞭然だった。
「いろいろ買い込んできたから、みなで食べて飲みながら、一杯愉快にやろうや」
 スーは、人見知りするレオを奮い立たせるような言葉を吐くと、勝手に上がりこんで、振り返って泰三にも上がるよう目配せした。泰三は遠慮気味に、今にも朽ちおれそうな古い一軒家に入り込んだ。
 レオは投げやりに車椅子を翻すと、廊下を滑り、先に立って導いた。
 左の奥の間へと続く傾斜路を降りて、フロアリングになった、そこだけ唯一モダンなリビングへと招いた。中のパンヤがはみ出た古ぼけたソファがあった。キルトのクッションは亡き妻の手作りか、唯一そこだけが家庭的な彩りで温かみを添えていた。居間は雑然と散らかっていた。
 スーはガラスのテーブルに山と載っている古新聞を取り除けると、床に置いて、スーパーの袋から食物や飲み物を取り出し始めた。
「まず、缶ビールで乾杯といこうや」
 と主を活気づかせるような華やいだ声をあげて、プルトップを開けて、車椅子のレオに渡した。
 泰三にもノンアルコール飲料が渡され、二人がぷしゅっと押し開けて後、
「では、かんぱーい!」
 と陽気なひと声をあげて、泰三に目配せ、共にレオの缶まで持っていき、かち合わせた。レオは戸惑った面持ちでなるがままになり、申し訳程度に口をつけた。
 スーは刺身のパックを開けて、付設のしょうゆを垂らし、パックのわさびも搾り出し、割り箸を添えてレオに差し出す。レオはもごもごとまぐろを口に放り込み、缶ビールを飲んだ。スーは細かく気遣い、さきいかやチップスなどの乾物の袋も封を切って、折々に薦める。
 缶ビールが三個空く頃には、レオの物腰も穏やかになってきた。緊張してかたくなになっていたのが軽い酩酊で緩み、昔懐かしい音楽仲間との積もる話に笑顔も混じってきた。
 しかし、話が肝心の再結成の件に及ぶと、ほんのり紅潮した顔を引き締め、用心深くなり、それ以上受けつけようとしなかった。そして本題を避けるように、生活面の愚痴を述べ始めるのだが、スーの、カムバックすればその生活の足しにもなるのではとのさりげないほのめかしにも、頑固に無言で応じるのみだった。そして、仕舞いには、
「スー、いい加減にしてくれや。いくら言っても、その話は今の俺には到底無理、六十五歳の車椅子のボーカルなんて、茶番もいいとこや、なんで、こんな惨めったらしい姿をいまさらファンの前にさらけ出さんと、あかんのや」
 お国の関西なまりも露わに怒りまくるのだった。過去に暴力事件を起こすなど喧嘩っ早い一面もあったレオだが、痩せても枯れても硬派の意気込みだけは失われていないようだった。そのエネルギーを何で芸に活かせないのかと、泰三は残念に思った。しかし、つい最近までどん底でのた打ち回っていた泰三にはえらそうなことを言えた義理じゃなかった。
 何億と稼いでいたレオが絵や骨董に凝って身上を食いつぶしてしまったことは、スー越しに聞いて知っていた。億に近い借金を造り、五年前自己破産したということも。唯一の支えだった第二妻も自堕落な亭主に対する心労からか、二年前に心臓麻痺で他界していた。以後、市の世話になって廃人同然の生ける屍に甘んじているというわけである。

 レオがもぞもぞしだした。とっさの機転でトイレと察した泰三は介添え人として、車椅子を後ろから押して連れていった。介護人がいない間、どうしているのだろうと気になったが、しびんや紙おむつで済ましているのだろう。また居間に戻ってくると、テーブルの上には焼酎の水割りが三つ並んでいた。脇に巻き寿司やいなりのパックも開けられている。
「じゃあ、本格的に飲み始めようか」
 用を足したレオはほっとした面持ちになって、スーに焼酎を手渡されると、まんざらでもない笑みを見せた。焼酎が好きなようだった。しかも、強かった。スーはあまり飲まないようにし、泰三も飲んだ振りをするだけで、もっぱらレオに薦めていたが、つまみもほとんどとらずに酒だけぐいぐい飲んでいく本格左党タイプだった。スーが、
「空きっ腹によくないよ。早く回るから」
 と気遣い、巻き寿司をひとつつまむと、無理やり友の口元に持っていく。赤ん坊のような甘えっぷりで、レオは元仲間の給仕の世話になっていた。一口で飲み込んで口をもごもごやっていたが、食べ終えると、少し恥ずかしそうな、気後れした笑みを浮かべた。
 焼酎の瓶が三分の二ほど空いたとき、一滴も酒は入っていなかった泰三まで、その場の雰囲気に呑まれ、ついうっかり口を滑らせていた。
「レオさんの、ほら、グループサウンズを辞めてソロシンガーとしてやっていた頃、大ヒットした歌があったでしょ。上半身裸にチェーンを巻きつけてセクシーな黒の革パン、騎士がかぶるような帽子を粋に傾けて、えーっと、なんと言ったかな」
 それまで、スーと愉快にグループ結成前の若い頃の思い出談に興じていたレオの言葉がぐっと詰まったように途切れた。
 白々した沈黙が漂う。しまったと、泰三は口元を押さえ、冷や汗をかいた。ところが、意に反して、酔ったレオの口からその曲が流れ出したのである。
 そうだった、パリのジゴロ、だ。泰三は思い出した。
「怜悧な瞳で僕のハートを射抜くあなたは、マダム・フランソワーズ
白皙の肌に退廃美を漂わせ、僕を妖しく誘う
あなたは札束切って、東洋のジゴロを買うやり手マダム
鞭がしなうたびにぼくは、黒い下着のガードル姿で調教するあなたの足元に犬のようにひれ伏し、
ハイヒールを脱がせた赤いペディキュアの指を一本ずつくわえる
あなたはマダム・フランソワーズ、ジタンを悠然と吹かして、ジゴロお供にシャンゼリゼ逍遥と洒落込む」
 泰三は伸びやかな歌唱力にうっとり聞き惚れた。四十年近い歳月が流れたにもかかわらず、歌声は若々しく、まったく往時と変わっていなかった。そのことに感動し、レオはやはりすごいと感に入っていた。外見は変わったけれど、声の伸びやかさ、艶、セクシーさ、まったく変わっていない。
 レオは車椅子の上で気持ちよさそうに上体を揺り動かし拍子をとりながら、往年のヒットソングを歌っていた。
 スーは、かつての音楽仲間の変わらぬ歌声にいまさらのようにうっとりした顔で聞き入っていた。

 泰三は以後ひとりで、週末のみレオの自宅を訪問し、料理や掃除洗濯、下の世話まで、何彼となく彼の身の回りの世話を焼くようになった。なんということもなく放っておけず、スーにも内緒の、自主的なものだった。美食家で鳴らしたレオは、泰三の作る本格和食に舌鼓を打って、敵を落とすには胃袋からといわれるが、かたくなな警戒心を解かせることにも成功したのだ。
 打ち解けて話せるようになった頃、自らも何千万円と借金を背負ってほとんど再起不能、寒空の下、浮浪者の真似事を余儀なくされたことも明かした。
「どん底まで落ちた藤倉さんを、もう一度這い上がらせるきっかけっていったい、なんだったんですか」
 同じ穴の狢と共感を覚えたらしいレオがつと訊いてきた。どこか救いを求めるようなまなざしだった。泰三はそう真正面から問われて、答に詰まった。そう、何が俺を立ち直らせたのか、それは、それは……。
「いやあ、六十七歳のこの年まで俺も人様に迷惑かけっぱなしで、借金踏み倒し続けたわけだけど、このようにいい加減でだらしない俺でも、何か人のためになれることがあるんじゃないかって考えたとき、海外赴任者向けの情報をこれまで流し続けたことはなにがしかの役に立っているような気がして。ぼんやりと、それが俺の使命かなといまさらのように思い当たったわけです。つまり、命がなくなる日まで、在留邦人に役立つ情報を流し続けることが、これまで心ならずも踏みにじってきた人たちのご恩にも報いることになるんでないかと。自分の罪深さも、差し引きゼロで相殺されるんじゃないかと。虫が良すぎますかね。でも、このまま浮浪者に落ちぶれてしまったら、信頼して金を貸してくれた恩人徳人の顔にさらに泥塗り、俺は人間として完全にだめになっちまうと思ったんですよ」
 考え考え、とっかかりながら答える泰三に、レオは無言で真剣に聞き入っていた。
「じゃあ、俺の使命というようなものがあるとしたら、それはなんだろう」
 泰三は急にすべてが晴れたような明るい顔つきになって、明瞭に投げた。
「それは歌うことですよ。この間、レオさんの歌聞いて、身震いするほど感激しました。あなたの歌唱力にはまだ充分に、聴衆を感動させるだけのパワーがある。ファンのみなさんも、復帰を待ち焦がれていると思います。その長年のファンの支持に応えて、素晴らしい歌声を再度聞かせること、そしてみなを感動させること、それこそが神があなたに下した使命です。私と違って、あなたは大きい使命を持って生まれてきたんですよ。その声で一度に何万人という観衆を魅了できる、天才歌手としての才能に恵まれているんです。その使命を果たすことが、あなたが生まれてきた意味ではないですか。スーさんはじめの元音楽仲間、元ファン、みな、あなたの再起を願っている。あなたの声をもう一度聞きたがっている。等しくみなの上に四十年という歳月が流れたんですよ。そのことで、あなたの外見が変わろうとも、あなたはいまだ声という武器を持ち続けている。その変わらない美声が、人々の癒しになる、人々を喜ばせる、人々の救いになる。車椅子に乗ってたって、歌えるんです。昔と変わらぬ若々しい声で、伸びやかな声量で、その美声を葬ったまま、あなたは人生にさよならしようとしている。それは、神に選ばれた人間として、罪深いことではないですか。歌手としての天賦の才を余すところなく活かしきって、後悔なくくたばるべきです。あなたの使命とは、アドニースのボーカルとして今こそ再起して、ファンの前にその美声を披露することです。四十年たっても変わらない若々しい歌声を……」
 泰三は憑かれたようにまくし立てていた。なんだか自分の中のわけのわからない力が、思ってもみなかった悟りに近いようなことを言わせているようだった。
 黙って聞いていたレオの口から啜り泣きのようなものが洩れ、頬をしとど流れ落ちる涙のしずくを、泰三はぼんやりした驚きの中で見守っていた。

 翌日、スーのもとに朗報が舞い込んだ。レオが年末の再結成コンサートに承諾の意を示したのである。
「藤倉さんのおかげですよ」
 すでに週末ごとに泰三がレオの借家に通っていたことを知っていたスーは、泰三の尽力にいくら言葉を尽くしても足りないというように何度も礼を繰り返した後、感極まって思わず泰三の手をとっていた。
「本当によかったですねえ。これから、年末のコンサートに向けて、練習が忙しくなりますね」
 泰三は満面の笑みで顔を崩しながら言い、スーははっと思い当たったようにすくと頭を起こし、
「そうでした、すぐ練習開始しなくちゃ、もう時間がない」
 と急にあたふたしだした。泰三は豪快に笑い、スーの肩を鼓舞するようにぽんぽん叩いた。
「とにかく、善は急げで、明日からでもみんながレオの自宅に集まって、練習再開しなければ。レオも、藤倉さんの心のこもった食事で顔つきがふくよかになって身綺麗になってきているけど、往時のダンディぶりを蘇らせるため、スタイリスト同伴で磨かねばなりません。歌声は変わらないから、外見に少し気遣ったら、見違えるようになりますよ。元々ダンディな男だったから、勘を取り戻すのは早いはずです。四十年の歳月を経て、伝説のレオが蘇る……って、算段ですよ。ああ、わくわくするなあ。藤倉さん、ぼくらはファンに受け入れられるでしょうか」
「太鼓判です。レオさんの歌唱力という強力な武器がありますから。本も売れて恰好の宣伝になったし、関係者、ファン、みんな首を長くして、カムバックコンサートを待ちわびていますよ」
「ありがとうございます。藤倉さん、コンサートのチケット販売などはすべてお任せしますので、くれぐれもよろしくお願いします」
「任せておいてください。事務上の些事には一切煩わされずに、メンバー全員がベストコンディションで、年末のコンサートに臨んで下さい」

 十二月三十日、武道館で待ちに待ったアドニース再結成コンサートが催された。切符は一律八五〇〇円、超入り満員で立ち見まで出た盛況ぶりに、関係者席のアリーナ最前列に陣取った泰三は感無量だった。ひょんな縁で、往時の有名グループサウンズと知り合って、再起に手を貸すことになった。昨年末の公園のベンチでの惨めったらしさを思うと、泰三はこれが期せずして自らの再起とも重ね合わさっていたことを思い知るのだった。感慨深い心地で、前も後ろも横もびっしり詰まった満員の客席をぐるりと眺め回す。二階の末席の後ろには立ち見の客がずらりと取り囲んでいた。
 客層は五十代、六十代の初老女性が多いが、若い男女の姿も見える。九段下の駅構内では、童顔の女子高生が「アドニースのチケット譲ってください」というプラカードを掲げて立っていたり、帽子で顔を隠した年配女性が「アドニースのチケット、二万円で譲ります」と書いた紙切れを顔の前でひらひらさせているのにもぶつかった。構内トイレの前には長い行列ができていた。武道館までの道筋もぞろぞろ群れを成してののろのろ行進、会場について、「アドニース2013再結成コンサート」という大きなボードを仰いだとき、感迫るものがあった。理恵子は楽屋で大奮闘しているはずだった。
 そして、ついに待ちかねた舞台の幕がするすると上がったのである。

 赤いミリタリールックに盛装したアドニースメンバーが盛大な拍手の嵐の中、一人また一人と顔を出す。スー、ジロー、トシ、ミッキーの四名が揃った。が、最後の五人目に登場するはずの肝心のレオは、期待に胸を高まらせる観客の前にいっこうに姿を現わさなかった。まさか、土壇場の心変わりか? 泰三はひやりとし、肝をつぶす思いだった。
 はらはらする泰三の眼前に依然メインボーカル、往年の花形スター、レオの登場はなく、四人そろったところで、スーの司会で始まる。
「みなさん、アドニースが四十二年の長い長い年月の果てについに戻ってきました。本当に長い間お待たせしました、本日、アドニースは正式に再結成し、カムバックコンサートの火蓋が切って落とされます。今夜は往年のヒットメドレーを、たっぷり聞かせます。どうぞ最後まで、ご声援のほどくれぐれもよろしくお願い申し上げます」
 見切り発車かと泰三は司会の口火を切ってしまったスーに一瞬目を瞑り、不吉な予感が当たったことに、がっくりする思いだった。そのとき、客席から、
「レオはどうしたあ、レオを出せえ!」
 の甲高い野次が上がった。前列に陣取ったおばさん親衛隊だった。万事休す。泰三がまたしても瞑目し腕組みしていると、
「みなさあん、レオの歌を聞きたいですかあ」
 とスーがマイクでがなり立てた。客席が途端にざわついた、レオ、レオの散発的な嬌声が飛び交い始める。
「ちょっと呼び声が小さいようですね。それではレオに届かないと思うなあ。もう少し、みなさん、大きな声で真剣に呼んでくださいませんか」
 スーの促しに、客席はレオコールの激流の渦になった。まるで怒涛が轟くような客席がひとつになっての渦巻きコールだった。泰三も目を開けて、レオーと声を限りに叫んでいた。
 手拍子も混じって、ミュージック開始前からものすごい興奮だ。そのとき、舞台がふっと暗くなった。照明が消えて右往左往する人影の後ろから、一瞬後スポットライトを浴びて華麗に登場したのは、一人だけ黒マントを羽織り、シルクハットを粋に傾けた、まさにあのレオ自身だった。往年のアイドルが車椅子姿であることに客席に瞬時衝撃が走ったのもつかの間、怒号のような歓声があがった。
 そして、残りのメンバーも舞台に戻ってきて、赤や緑、紫のスポットライトが点滅する中、バックグラウンドのバンドメンバーが楽器を奏でだし、演奏が始まった。沸いていた客席は途端に、静寂に包まれた。
 中央でマイクを持ったレオの声帯から、伸びやかな歌声がひとつ絞り出される。
「あなたに会って、恋に落ち、いっしょになった」
 客席は水を打ったように静まり返っている。立って踊れないけど、上体だけで体の拍子をとって、不如意さをかばうようにインカムマイクに声を大きく張り上げる。
「同じ日は二度と巡ってこない。だから、今このときを精一杯生きたい。人生は二度とないのだから」
 音程に狂いのない、若々しく艶のある素晴らしい歌声だった。みな、四十二年の歳月を忘れて、ひしと聞き入っていた。
 幕開けの一曲め「青春の日に」が終わったあと、惜しみない拍手と歓声が送られた。観客は圧倒的な感動に浸っており、泰三も手が痛くなるほど拍手した。
 それから三十曲のヒットメドレーは、ただただ素晴らしいの一言に尽きた。みな、酔っていた。レオのアルトのボーカルと、スーの高音のサポートとリードギター、サイドギターのトシ、ベースのジロー、ドラムのミッキーと五人組の、四十二年前と変わらぬ演奏の素晴らしさに。
 みな白髪交じりで六十代半ばのじいさんだが、演奏は若い頃と変わらぬパワフルさにみなぎっていた。茶目っ気あるスーが、演奏の合間にお笑いの真似事をし、舞台を袖から袖まで走り回ってはジョークを連発し、客席に幸福な笑いが弾ける。
 泰三はもう一度、広大な武道館を見回し、下から上までびっしり埋め尽くされた観衆、立ち見含め二万余名の観客がひとつになって、ステージを盛り上げる様に感動した。
 トリは、レオのソロ、「ニンジャ」だった。黒い覆面と忍者衣装を脱ぎ捨てた下から、刺青デザインの紗のシャツが現れ、上から降ってくる革ジャンをナイスキャッチしたレオは右肩に羽織るようにかけた後、ポケットから取り出した手裏剣を回転させて投げ上げる。
 前列に陣取った観客たちは、レオの投げた手裏剣をとろうと、どよめいた。手裏剣は紙製で無害なものだったが、一人の女性ファンががっちりつかみ、「いただーきー」と歓びの奇声を張り上げた。
 最後の演出が粋に決まってファンの嬌声は絶好調に達した。レオはオーラに輝き渡っていた。とても、ついこの間までしょぼくれていた生活保護者とは思えぬ変わり方だった。しわの亀裂は深かったが、それさえも人生経験を重ねたことの勲章で、味わいある風貌だった。ファンの大歓声に自信が蘇ったレオはラストナンバーを歌い終わったあとも、六十半ばと思われぬ精力さで次から次へと、ソロシンガー時のヒットメドレーのサビのサービス、声を限りに絶唱して観客を酔わせた。
 今、天才歌手が三十五年の歳月を経て、蘇ったのである。
 車椅子であることも忘れさせてしまうほどの、極上の歌唱力、セクシーで艶っぽい表現、ダンディさ、ファンは酔いしれ、涙を流していた。アンコールの声は止まなかった。
 
 程なくそろって舞台に再登場、今度はメンバー全員で歌った。それでも、ファンは満足しない。もっともっとの呼び声極まる。
 三度目の登場。
 レオが目が覚めるようなターコイズブルーのスーツ姿で登場、そしてその背後から、まだ三十代前半と思えるグリーンのセーターにジーンズ姿の美男子が一人現れた。レオが男性を前に出させ、マイク片手に紹介する。
「最後に、みなさんにご紹介させていただきます。ぼくの息子の、久幸です。幕間に二十五年ぶりに楽屋に訪ねてくれました。先妻の歌手だった河合ユリの最期のメッセージを携えて。ぼくの二番目の妻映子は二年前心臓麻痺で他界しましたが、河合ユリも、つい一週間前癌で急逝しました。ご存知のように、河合ユリは往時人気絶頂の演歌歌手でした。ぼくとの結婚で引退、その後みなさまの前に最期まで姿を現すことはありませんでしたが、どうか、元夫のぼくと共にユリの冥福を祈ってやってください。
 これから久幸と一番最初の曲、『青春の日に』をデュエットし、最後の幕引きにしたいと思います。どうか、ご静聴ください。アルバムの片隅に納められたあまり知られていない地味な歌ですが、僕の一番好きな曲、想い出の歌です。息子も、ぼくの曲の中では一番好きだそうです」
 父からマイクを引き渡された息子の久幸が挨拶した。
「みなさん、初めまして、芦田久幸です。本日のアドニースの再結成コンサートを舞台の袖から観察していて、親父は本当にすごいと思いました。こうして、亡き母ユリも好きだった『青春の日に』を親子でデュエットすることに、天国の母も幸福な思いで見守ってくれていると思います。父と母はいろいろあって別れましたが、母は最期まで芦田の姓を名乗っていました。死ぬまで父のことを愛し続けたと思います。ぼくたちの歌声がレクイエムとなって、天国の母に届くことを祈るばかりです」
 客席のそこかしこから、忍び泣きが洩れてきていた。泰三も目頭が熱くなっていた。自分自身、五歳のとき別れて以来会っていなかったわが子のことがしきりに重ね合わせられたのだ。
 伴奏なしで始まった、父子の合奏は、しっとりした哀愁のこもった美しいバラード調の曲だけに、神妙に聞き入らせるものがあった。さすがに血を引いているというか、久幸の声は父にマッチしていた。素晴らしい親子の合唱に客席のそこかしこからすすり泣きが洩れていた。
 泰三も目頭をぬぐいながら、またしても遠い昔別れた息子にふと思いを馳せていた。今どこでどうしているのやら、三十八歳になるはずだ。なんとか捜し出して、会いに行こうか、一度会って詫びを言っておきたい、レオに勇気をもらった感じだった。

につづく)

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