インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

祭のない原野へ1(中編小説)

2017-04-28 17:06:16 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
祭のない原野へ

                                李耶シャンカール


   一

 バンコック経由カルカッタ行きの便が一時間遅れで、成田の滑走路から飛び発とうとしていた。機体がふわりと宙に舞った瞬間、水城馨(かおる)は動揺を押し殺すように、胴に巻いた安全ベルトを軽く握り締めた。傍らの男は、傾いた座席に身を預けて眼鏡の下の目を閉じていた。飛行機がぐんぐん上昇し、平衡状態になったとき、頭上のベルト着用のサインが消えた。
 機窓から俯瞰する東京湾が、夏の兆しを秘めた陽射しに物憂くまどろんでいた。窓外を一面に覆う雲海の眩しさに、馨はブラインドを下ろす。その刹那、能面のように無表情の寝顔を晒していた男がつと目を開けて、ベルトのバックルを外した。座席ポケットから機内誌を引き出そうとする醜顔を一瞥した途端、とうとうこの男と灼熱の大地に旅発つことになってしまったと、馨は何か取り返しのつかないことをしでかしてしまったような後悔に矢庭に襲われた。
 十七歳も年上の男とのインド旅行が今後どのような展開を見せるか憂慮しつつ、そもそもこうなるまでに至った経緯に、漠と思いを馳せずにはおれなかった。

 あれは、科学雑誌創刊の名目で中途採用されたK企画出版に編集部員の一人として勤め出して、ひと月ほど経った頃だった。六名のスタッフの中でも、一番気が合って親しくしていた相馬俊に、退社後、紹介したい人がいるからとの理由で喫茶店に誘われた。
 新宿御苑の裏路地にある、オフィス代わりのマンションの一室を出て、大通りに向かった相馬は三丁目方面に下って、本屋の地下にある喫茶店に入っていった。だだっ広い店内を見回す彼の目に、お目当ての人物は見当たらないようで、入り口に近い席へいざなわれた。
 三十分以上も待たせた挙げ句に、悠々と悪びれない様子でその人物は現れた。
 ぬうっとテーブルに立ちはだかった男に、相馬は反射的に直立になって深々とお辞儀、釣られるように中腰になって頭を下げる馨に、
「この人がぼくが、人生最大の師と崇める饗庭(あいば)栄さんだよ」
 と、最大限の賛辞をこめたそんな言い方で引き合わせた。交換した名刺の肩書きには、『M中小企業経営研究所・内報誌編集長』とあった。馨は、向かいに悠々と腰を下ろし若輩二人に坐るよう勧める四十年配の男に、内心軽い戸惑いともつかぬ思いに見舞われていた。
 凡庸なグレーの背広に中年太りの体躯を包んだ男は、穏和な雰囲気を湛えてはいたが、眼鏡の下の染みの浮いた顔は不細工窮まりなかった。一種威厳ともつかぬ、泰然とした雰囲気が容貌の醜さを救っていはいたが、二十代後半の馨の目から見れば、どこにでもいる冴えない中年男に変わりなかった。この人が本当に、若い頃文芸誌の新人賞を獲ったかいう人なのだろうか。小説を書くというから、馨はもっと痩せぎすで鋭い風貌を想像していたのだが、現実に目の当たりにした当人は茫洋として摑みどころがなかった。相馬がそんな馨の疑惑を封じるように言った。
「饗庭さんが二十五歳のとき、『文学世界』の新人賞を獲った話はしたろう。当時は、気鋭の新進作家として、文壇の注目を浴びていたんだよ」
 まるで自分のことのように誇らしげな口ぶりだった。高校卒業後出版社を転々として曲がりなりにもものを書くことをなりわいとしていた相馬にとって、一時期プロの作家として鳴らした師匠は自慢の種でもあるらしかった。
 饗庭は、得意気に目を細めて持ち上げる弟子に、
「いやいや、商業誌に書かせてもらえたのは、ほんの一年かそこらで、以後は鳴かず飛ばず、私のようなのを、作家の卵のなれの果て、というんでしょうな」
 と半ば自嘲気味に放った。初対面で感じた失意や疑念が氷解するような思いで、文学愛好者だった馨は慇懃に切り出していた。
「新人賞をお獲りになったとかいうその作品、もしよかったら、拝読させていただけませんか」
「いや、お見せするような代物じゃありませんよ。才気走っているけど、若気の至りの未熟な作品でしてね、今となっては、どうしてあんな駄作が賞を獲れたのか、まったく不思議なくらいだ」
 饗庭はあたかも過去の古傷に触れられたかのように苦い面持ちになった後、とっさに話題を転換した。
「ところで、新雑誌創刊の進み具合はどうです、順調に進行していますか」
「ええ、今相馬さんと組んで、『生命の神秘・誕生ドキュメント』という、特別企画の取材にあたっているんですけど」
 相馬がすかさず、口を挟んだ。
「苦労した甲斐あって、やっとアポがとれたんですよ。ある若夫婦が、名は伏せるという条件のもとに、謝礼百万円で特別にその瞬間を撮影させてくれることになって……」
 興奮した面持ちの上ずった声で放つ弟子に饗庭は、
「ふうむ、しかし、それは、かなり陳腐な企画という気はするな。いまさら、誕生の瞬間でもないだろう。新しい傾向の科学雑誌を狙うなら、クローン にでも、取り組んだらどうだい。ほら、韓国に人造犬を生み出したとかいう有名な科学者がいただろう」
 ぴしゃりと手厳しかった。さすがに元編集長だけのことはあると、馨はちょっと肩をすくめた。先刻待ち時間の合間に、相馬から饗庭がかつてタウン誌を発行する会社に勤めていたときの上司でもあった旨、洩らされていたのである。雑誌が廃刊になった後、饗庭はカナダに渡り、しばらく向こうに滞在していたらしい。現職場には帰国後かなり経ってから中途採用されたとかで、まだ勤務歴二年に満たないとのことだった。一方の相馬はこの間、K企画に拾われるまで、馨同様フリーライターという不安定な境遇にあったのだった。
 私淑している元部下はたじろぎながら、頭を掻き掻き、
「師匠にかかってはかなわないなぁ。巻頭企画は、うちのカメラマン兼編集長の唾がかかったもんでしてね、自ら特撮することになってるんですよ。 今度、逢わせますよ。綾行路将人などという気障なペンネームで一端のスタ-気取りだが、裏でポルノ撮ってるとの噂も飛び交ってるうさんくさい野郎で、過去三億の借金地獄から這い上がったと豪語するだけあって、なかなか抜け目ない奴ですよ。師匠とは、いい勝負だと思うな」

 饗庭が、新宿御苑のマンションの一室にひょっこり顔を見せたのは、それから一週間後のことだった。表向きは徹夜続きの相馬への慰問だったが、ついでに綾行路将人にも一面識あずかりたいと構えているような節が窺えた。
 饗庭は足の踏み場もないくらい乱雑な2LDのオフィスに、勝手知ったる顔で闖入すると、偵察するような視線を鋭く部屋全体に這わせた。馨と目が合うと、眼鏡の奥の小さく落ちくぼんだ瞳にかすかに笑みが点った。綾小路は折悪しく、スタジオ代わりになっている隣のビルのマンションの一室に引きこもっていた。師匠の突然の訪問の目的を敏感に察知した弟子は、彼を隣のビルへと引いていった。
 一時間後、心持ち紅潮した面持ちの相馬と、泰然自若とした取り澄ました顔つきの饗庭が戻ってきた。
「いやぁ、二人の対話と来たら、まるで禅問答だったよ」
 相馬はこっそり馨に耳打ちした。それから、原稿と格闘しているスタッフ全員に向かって、大声で呼びかけた。
「みんなちょっと仕事の手を休めて、聞いてほしい。この人は、饗庭さんと言って、明日から、うちでフリーの編集顧問として勤めて頂くことになったお方だ。週二回、月曜と金曜の午後六時から八時までの時間出向いてもらって、主に原稿の校閲をして頂くことになっている。みな遠慮せず、どんどん原稿を回して指示を仰いでもらいたい」
 短い対面で二人の間に交わされた予想外の取り決めが、馨を驚かせたことはいうまでもなかった。饗庭はたった一時間ほどで、綾小路ほどの抜け目のない男まで自分の陣地に引き込んでしまったらしかった。

 饗庭が週二回、K企画出版に顔を出すようになって以来、金曜の夜は、相馬も含めた三人で、仕事帰りに一杯やるのがいつとはなしに習わしとなった。饗庭の第一印象は馨にとってあまり好ましいものといえなかったが、その後の付き合いで馨は彼が人に一目置かしめるとてつもない魅力に溢れた人物で、一時期プロとして鳴らしただけに文章を書くことに関しては一家言持っていることもわかった。
 実際、饗庭の校閲は的確で理に適っていた。酷評されるのは毎度のことなのだが、指摘箇所に説得力があり、饗庭が赤字を入れると、それまで冴えなかった原稿が不思議なことに、生き生きと精彩を帯びてくるのだった。馨はいつしか、この魔術のような校閲力の虜となってしまった。
 饗庭の文章は良質の叙情を湛え、洗練された香気に満ちていた。饗庭は折に触れて、馨に文章作法の極意ともいうべきものを授け、相馬が師匠と崇める男はいつしか馨自身にとっても、欠かさざるべき存在となっていた。

 試用期間の三ヶ月はあっというまに過ぎていった。
 その朝、出勤すると、ボードに辞令が貼り出されていた。
「相馬俊、水城馨、以下の二名を本日、昭和五十七年○月×日付けをもって、正式の編集社員に任命する」
 中田千尋が机の上に突っ伏して、人目も構わず泣きじゃくっていた。この九十日間、新雑誌の表紙を担当し、東奔西走していた千尋にしてみれば、ボードに貼り出された結果は納得行かないものだったろう。馨自身も、何で自分が採用されて、千尋は駄目だったのか、腑に落ちなかった。とにもかくにも、新雑誌創刊の名目で掻き集められた都合六名の仮所帯は三ヶ月後、綾行路の容赦ないふるいにかけられた結果、若干二名に減ってしまったわけだった。
 夕刻、隣のビルからお呼びがかかった。相馬に伴われて顔を出すと、綾小路が待ちかねたかのような顔でソファにでんとふんぞり返っていた。ガラス製のテーブルには、シーバスリーガルと呑みかけのグラスが乗っていた。馨が綾小路のスタジオに足を踏み入れるのはこれで二度目だったが、相馬は夜鍋仕事の合間にしょっちゅう編集長に誘われては酒を振舞われているらしく、勝手知ったる顔で闖入、
「ご苦労さんだったね。まぁ、君たちも一杯やりなさい」
 の声がかかるかかからないかのうちに、厚かましくサイドボードからグラスを二つ取り出してきていた。
「水城君は、いける口なんだろう」
 猫撫で声で綾小路が尋ねる。女形を思わせる白くのっぺりした顔の、蛇のように絡みつく目つきに馨はかすかに虫酸が走る。さりげなく肩に置かれた綾小路の手がじっとり纏わりつく感触に、上半身が熱を帯びるような重苦しい感触に見舞われる。
「この三ヶ月間、君たち二人はほんとよく頑張ってくれたね。今後も、他誌にないような斬新な企画をどんどん提案してくれたまえ。君たちの実戦力に期待しているよ」
 相馬が、綾小路の空になったグラスにストレートにウィスキーを注ぎ入れ、新たに水割りのグラスを二つ作って、ようやく綾小路の手が馨の肩から外れた。
「さぁ、それじゃ乾杯しようか、二人の正式採用を祝って……」
 編集長自らが音頭をとった。これが綾小路流の祝福の仕方なのであった。相馬はくいっと小気味よく空けると、
「それにしても、ぼくと水城さんだけが残るとは、予想だにしなかったなぁ」
 しみじみと実感のこもった呟きを洩らした。言葉尻に幾分得意気な調子がこめられていた。週の半分はオフィスに寝泊まりして取材に精魂注いだ努力は認められて当然との傲慢な響きを感じ取り、馨はあまりいい気がしなかった。
「千尋のやつ、目を真っ赤に泣き腫してましたよ」
「まぁ、あいつにはちょっと可哀想なことしたけどな。離婚して子ども一人抱えてるって言うから、フリーで雇ってやることにしたよ」
「他の部員補充は?」
「心配するな。もう手は打ってある。一週間後には、新体制発足だ。君たち二人は、今後もその調子で頑張ってくれたまえ」
 綾小路のスタジオ兼仮寝所になっている2LDKの室内はカメラの機材が所狭しと置かれ、奥の黒いカーテンで仕切られた小部屋が暗室代わりに使われているようだった。暗室に特有のつんと鼻をつく饐えた匂いが、リビングまでに漂い流れてくる。綾小路がここで密かに、ビニ本の撮影をしているらしいことは、社員間でまことしやかに囁かれている噂だった。スタジオにはその筋の怪しげなモデルがしょっちゅう、出入りしていたのである。裏の資金源というか、雑誌創刊に要する資金の一部はどうもここから回されていたようで、そこには、まっとうな科学誌編集長を気取る表向きの顔と違って、 綾小路の別の一面、裏の顔があった。

 編集部員が一挙に二名に減ったせいか、2LDKのオフィスは急に広くなったように感ぜられた。奥の小部屋では、生え抜きの社員であるバイオ関連雑誌の担当者で五十年配の男性、宇野仁と、その部下である松井太郎、女事務員の和田栄子が従来通り、何事もなかったような顔で業務をこなし、各々の仕事に打ち込んでいた。宇野は若かりし頃、映画雑誌の記者として活躍した前歴があり、馨から見れば、裏で何をしているのかわからないうさんくさい連中にあって唯一、信頼の置けるまともな人物だった。穏和で人望があり、三十年近く雑誌畑一筋で来た貫禄のようなものが自ずと、恰幅のいい躯に滲み出ていた。
 ところが、この宇野の口癖というのが意外にも、「綾小路を男にしてやりたい」というのであった。それは、正面切って堂々と日のあたる街道を歩いていける、表の世界のチケットを渡してやるという意味でもあった。男として綾小路に惚れ込んでいた宇野は、彼が新雑誌で成功し、真っ当な世界のチケットを手に入れることを誰よりも望んでいた。綾行路には何故か、宇野のようなまともな人物すらも、抱き込んでしまういわく言いがたい魅力が備わっていた。男なら誰しもが隠し持つやくざ的一面を綾小路にそそられた形で、宇野は、水物といわれる出版界への賭け、代理戦争に挑もうとしていたのかもしれなかった。
 馨は先程から、原稿用紙に鉛筆を走らせながらいっこうに集中できず、いささかうんざり持て余し気味だった。相馬は取材で出ており、 編集室には自分一人しかいなかった。昨日まで共に原稿と格闘していた同士の机はどれも主を失って、がらんと寒々しい様相を呈していた。
 飽き飽きしたようにあくびをひとつ洩らし、コーヒーでも呑もうと思い立って、 奥の小部屋を横切ってキッチンへと向かった。その拍子に視野の隅に、栄子の机の端に山と積まれた履歴書の束が過った。
「それ、ひょっとして、新しい編集部員の……」
「そう、見ますか」
 栄子は事もなげに放った。馨は退屈しのぎに手にとってパラパラとめくり出したが、中途まで来たとき指先がぴたりと止まってしまった。一枚の履歴書の住所欄に釘付けになったまま目が離れない。――わぁ、高円寺……やばいなぁ、十五分と離れてないところに住んでる――。右肩に貼られた写真には、髪が長めで髭面の男が写っていた。――二十五歳、三つ年下か――。紙の端をぴんと人差し指で弾きながら、この人、受からなきゃいいな、馨は何故かとっさにそう思った。
 午後のオフィスの静寂を突如掻き裂くように、バタバタとあわただしげな足音がしたともなく、黒のレオタードにジャケットを引っかけただけの千尋がカメラマンを従えて入ってきた。途端に、オフィスは賑々しい活気に包まれる。
「今日、エアロビクスの取材だっけ」
「そうなのよ、どう、このレオタード姿?」
 千尋はこれ見よがしに、ジャケットを脱ぎ捨てると、両腕を広げてバランスをとり、片足でくるくると一回転してみせた。子供一人を生んだとはとても思えぬほど若々しく整った体つきをしていた。ぴたりとフィットした布地からは形のいい胸がくっきりと浮き出し、胴から腰にかけてのくびれといい、尻がきゅっと持ち上がって足が長いモデルといっても通用するような体型だった。
 松井が、デスクトップの陰から、そうっと物欲しげな目つきで覗き見ている。宇野はさすがにその点紳士で、じろじろ見入るような無作法な真似はしなかったが、睫をぱちぱちしばたたかせつつ、千尋の発散するお色気に当てられっぱなしのようだった。
「千尋さん、かっこいい! 決まってるぅ」
 栄子の手放しの賞賛にすっかり気をよくした本人はひととき、ダンスの真似事をして、男性諸君の目を楽しませた後、またやってきたとき同様、ばたばた足音をさせてあわただしく立ち去っていった。入れ替わりに、相馬が戻ってきた。
「今、そこの道のところで、千尋に逢ったよ。恐れ入ったことには、レオタードにジャケット引っかけただけの恰好なんだ。通行人がじろじろ見入って、恥ずかしいったらありゃしない。スラックスくらい履けよーと注意したら、どこ吹く風ですたこらさっさ行っちゃった。ったく、ノーテンキな野郎だな。あんな調子だから、いつまでたっても取材先に舐められて、成功しないんだよ」
「でも、レオタード、よく似合っていたわね」
 馨が混ぜっ返すと、
「まぁな」
 相馬は急にあわてた素振りになって、目を逸らした。馨はいつだったか、相馬が夜を徹しての仕事で偶々千尋といっしょに寝泊まりする羽目に陥らされたとき、大胆にも夜中に彼女が迫ってきて閉口したと満更でもない口調で洩らしたエピソードを思い起こし、くすりと短い笑いを洩らさずにはおれなかった。

につづく)
ジャンル:
小説
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