インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

春雷2(中編小説)

2017-05-14 21:21:09 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)

  二

 米原駅で散らついていた雪が、敦賀に入ると、辺り一面の雪景色に変わった。香世はスチ-ムで曇る車窓を手で拭きとりながら、深い雪に埋もれる民家を感慨深げに眺めた。香世の膝元には先月号の「空色の宇宙船」が広げられていた。この三カ月半、新庄は毎月のミニコミ誌だけでなく、定期的に便りもくれていた。香世は新庄に鼓舞されるままに今月号宛てに「東京ダイヤリ-」というタイトルの日記風随想を送っていたが、本誌が届くのを待たず
して郷里行きの列車に飛び乗ったというわけだった。
 福井駅に降り立った香世はいつものようにコインロッカ-に荷物を預けた後、街に出た。雪と無縁の東京から一転して故郷・北陸の銀色の世界に投げ込まれた香世は、軽い眩惑を覚えた。肝心の傘をロッカ-の中にうっかり置き忘れた失態に気づいた香世は舌打ちしながら、冷たいぼたん雪の舞い降りる中剥き出しの頭のまま駆け出した。降り積もる雪道にハイヒ-ルという東京帰りの無防備な足元が滑り、向こうでは充分寒さをしのげたはずの薄手の半コ-トもしんしんと凍えるような寒さを伝えてくるのに身震いしながら、あわててひまわり書店へと飛び込む。
 前回と同じ場所に最新号の真新しい表紙を見出した香世は胸を弾ませながら、ミニコミ誌を手にとった。一番最後のペ-ジに紛れもない自分が送った手書きの原稿が載っているのを認めた香世は、狼狽して読み返しながら赤面するような恥ずかしさを覚えた。新庄や藍、貢の作品と比べると、いかにも稚拙でまだ作品と呼べるだけの完成度をもってなかった。香世は未熟な粗さのみが目立つ不出来な自分のペ-ジをぱたりと閉じると、レジで買い求めた。隣の「談話室」でゆっくり目を通すつもりだった。
 冬の「談話室」は、夏以上に深い静寂に包まれていた。香世は暖房のよく効いた温かな店内で、ゆったりと椅子に背をもたせかけながら、湯気の立つ熱いコ-ヒ-を啜りつつミニコミ誌をおもむろに繰り出した。
 寒さに縮かんでいた胃の腑が流れ込む熱い液体に一瞬きゅうっと締めつけられたともなくやんわりと膨張していく。急速にぬくまっていく体に香世は人心地つきながら、全身についた雪片が溶けて露となって滴り落ちるのにバッグからハンカチを取り出して拭った。その刹那、香世の目に飛び込む流麗な毛筆体の歌があった。
「瑠璃空に 万カラットの華 吾の八つ口に そっと手忍ばせる君は、早熟な十七歳」
 あの花火祭りの夜を詠んだ作品だとすぐにわかった。大胆な作風の歌に香世の胸はどきんと鳴った。『早熟な十七歳』とは、貢のことと女の本能的な直感でピンときたからでもあった。香世が新庄と秘密を分かち合っていたあの夜、高校生の貢は何食わぬ顔して傍らの男女以上に大胆に藍と睦み合っていたというわけであった。自分の前では年相応に幼い高校生の素顔を覗かせる貢が、藍の前では紛れもない男、狼に変わる生態に香世は男の生理の不思議さの秘密を垣間覗いたような気になっていた。藍の大胆な歌に触発されたように、香世はむしょうに新庄に逢いたくなった。この三カ月半抑えていた気持が奔るようだった。
 折よく休日だったこともあり、新庄は自室にいた。男は香世が東京から戻っており今「談話室」にいることを知ると、とるものもとりあえず駆けつけてくれた。
 それから一時間と経たぬうちに香世は、懐かしい新庄と差し向かいで対面していた。
「まさか帰ってるとは思いませんでした……」
 男は上ずった声で開口一番放ち、いつもの控えめさに似つかわしくなく感情を剥き出して喜びを露わにした。
「いきなり呼び出してすみません。迷惑ではありませんでしたか」
 香世は内心の想いとは裏腹に形式ばった固い言葉で答えた。逢う前まではあれほどにも焦がれていたその当人と面と向かって遭遇してみると、現実の男は自分が想像していた人物とは微妙にずれる印象があり、香世の一旦は流れ出した気持を塞き止めてしまった。三カ月半逢わずにいた距離を自分なりに取り戻すまでに幾許かの時間を要しそうだった。
「原稿送ってくれて有難う。初めての作品にしては、いい出来映えだったと思いますよ」
 新庄が褒めるのに香世は頬を赤らめた。男が本気でそう言っているとはとても思えず、自分の気持を傷つけないためあえて褒めているのだと勝手に解釈した香世だったが、そうはいっても、男の優しさはやはり嬉しかった。
「私の書いたものなんて、作文の域を出ないわ。それより、今月号の藍さんの短歌、大胆な作風でびっくりさせられました」
 香世は素直な感想を口にしたつもりだったが、その一言は期せずして新庄に祭りの夜の己自身の小さな冒険を思い起こさせる羽目になってしまったようだった。気づまりな沈黙が流れる。香世はきまり悪げに口を閉ざしてしまった男を気遣うようにすかさず話題を転換した。
「今後の集会の予定はどうなっているのでしょう」
 新庄は気を取り直したように答えた。
「来週の日曜、今月号の合評会もかねた今年最後の集会を公民館で催す予定になっているんです。もちろん出席してもらえますね」
 香世はとっさにうなずいていた。

 クリスマスを目前に控えた街は、活気と喧騒に漲っていた。香世はサンタクロ-スやクリスマスツリ-できらびやかに装飾されたデパ-トの前を擦り抜けて、中央公園へと向かった。
 公民館の前で、香世は勇み足で中へ駆け込もうとする一人の青年とすれ違った。青年のオリ-ブ色のトレンチコ-トのポケットから見覚えのある表紙が覗いているのを目ざとく見つけた香世は一瞬立ち止まり、コ-トの下の足元がこの真冬の寒空の下、裸足の下駄履きなことに不意打ちをつかれるような強い驚きを覚えた。香世の足元は三日前買い求めたスウェ-ドの温かいブ-ツに包まれていた。見知らぬ女の視線が己の剥き出しの足元に注がれてい
ることを意識した青年はちらりと上目遣いに香世を見やった。いぶかしげな揶揄のこもった澄んだ茶色の瞳。香世はその刹那、何ということもなく自分が気に入りの黒のハイヒ-ルを履いてこなかったことを悔やんだ。
 小気味いい下駄の音を鳴らして階段を駆け上がる青年の後ろ姿を呆然と見送りながら、香世は我に返ったように自分も一歩遅れて集会室のドアを開けた。
 合評会は始まったばかりのようだった。香世は既に一面識のある同人たちの温かい歓迎の目に迎えられながら、机の隅の空いている席に腰掛けた。斜め向かいに坐っていたミッキ-がパチパチ睫を弾いて懐かしそうな目配せを送ってくる。中ほどの席に藍の顔も見えた。今日の藍の出で立ちはざっくり編んだ手編みの白のセ-タ-に赤のチェックのパンツという粋な装いだった。香世はやおら黒の半コ-トを脱いで同人の目が一斉に自分の服装に注がれるのを意識して身が固くなった。紫色のニット地のツ-ピ-スは香世自身が見ても、ぱっと目を惹くようなあでやかさに輝き渡っていた。母が成人祝いに買ってくれた本真珠のネックレスが胸元を飾り、今日の装いを一段と引き立ててくれているように思えた。
 香世は中央の席に坐った新庄が二人だけにわかる温かいシグナルを送るのに笑みで応えながら、もう一方の目の端では、真冬に裸足の下駄履きという一風変わった青年がかすかに驚きに見開かれた目でこちらをそれとなく窺うのを意識していた。
 合評会では案の定、藍の短歌が物議を醸した。藍の取り巻きの一人である男性同人は、
「いつにない大胆な作風に圧倒されました。ところで、藍ファンの一人としては、この早熟な十七歳の正体が気になってしかたないのですが……」
 同人の目が一斉にそれとなく、貢へと向けられる。貢は度胸満点というか、臆することなくけろりとしていた。藍がおもむろに立って、
「ご期待に添えなくて申し訳ありません。彼は実在の人物ではなく、あくまで私の想像上の少年です」
 とク-ルに答え、この場はけりがついた。

 集会が退ける頃には冬の早い日はとっぷり暮れかけていた。香世は、今年最後の集会ということもあってこれから駅前の居酒屋でささやかな忘年会を催す予定になっているのだが、出席してもらえないかと新庄から半ば強引に誘いかけられた。帰りの足が確保されているとの暗黙の了解の下に遠慮がちに同意した香世は、少し離れたところにぽつねんと立った下駄履きの青年の素足が寒さに青白くかじかんでいるのに気づき、何故か胸がつかれるような
痛みを覚えずにはいられなかった。
 店へ向かう途上、香世は新庄自身の口から、気になっていた青年の正体を明かされた。
「こちら、僕の高校時代の無二の親友で現在京都の大学に在学中の日向渉君。創刊当時からの同人なんだけど、夏は向こうでのバイトが忙しいとかで 帰ってこなかったんだ」
 香世は、無造作に羽織ったコ-トの下にモスグリ-ンのセ-タ-と下肢にぴっちり纏わりついた黒のジ-ンズという垢抜けた装いを覗かせる渉と初対面の挨拶を交わしながら、親友同士とはいうものの、二人の男の性格が対照的なほど違っていることに意外な感じにとらわれないでもなかった。
 全国にチェ-ン店のある安居酒屋「天狗」は休日にもかかわらず、この時期にありがちのほぼ満席の人いきれに埋まっていた。十四名の席を確保することは無理で、藍を中心とした取り巻き一派は「後で顔出してや」と言い置きながら、順化にある行きつけのパブへと流れていった。香世は相席になる一番端のテ-ブルに窮屈に身を縮こませながら、新庄と渉に挟まれるようにして腰掛けた。中ほどのテ-ブルに陣取った残りのグル-プの顔ぶれの中に、当然藍を追いかけて向こうに行ったものとばかり思い込んでいた貢が紛れ込んでいるのを見つけた香世は、意外な感に打たれた。
 香世の視線の行方を目ざとく読み取った渉が、
「あいつ、今日あっちに行ったら、他の取り巻き連中に袋叩きにされるよ」
 面白そうに洩らした。香世はなるほどと納得した。それから横目で未成年者の貢が板についたしぐさで盃を傾けるのに舌を巻きながら、あいつ補導されたらどうするつもりなんだろうと他人(ひと)事ながら気を揉んだ。が、貢はどこから見ても大学生にしか見えず、香世も取り越し苦労はやめて新庄につがれるまま郷土の銘酒を堪能することにした。
「野島さんて、いける口なんですね」
 渉が急ピッチで盃を運ぶ香世に感嘆したような声を洩らした。香世はいくら飲んでも酔いが顔に出ない質だった。対照的に新庄はとっくり一本開けただけで、真っ赤になっていた。空になった盃を満たそうとした渉に新庄は、
「いや、僕はこの辺にしとくよ。野島さんを自宅まで送っていかなきゃならないから」
 と辞退し、後はもっぱら二人に酌をするのに余念がなかった。
 香世は同じ学生ということもあって、渉とは話が弾んだ。渉は高校卒業後、東京のM大学文学部に入学したものの二年で中退、京都のR大学政治学部に入り直したという異色の経歴をもっていた。
「よくある文学から政治の転向ってやつなんですけどね、大学やめたいって言ったら親にはブ-ブ-言われましたよ。母親には泣きつかれちゃって大変でした。で、その後仕送りストップされちゃって、半年ほどは土方して暮らしてたんです。そのときの体験からわかったことだけど、大学行くのも働くのも結局は同じことだって……妙に悟っちゃったんです。結局、最終的には親の理解得て仕送り再開、予備校通って猛勉して何とか希望のR大学に入れたわけですけど……」
 一時期東京で暮らした経験をもつことから渉は中央の地の利に詳しく、自然共通の話題で盛り上がった。香世は、酒が切れて素面同然の新庄を差し置いた形で、渉との会話を楽しんだ。元々寡黙な質の新庄はさして気にするでもなく、無二の親友と意中の女性がうまが合って会話が弾んでいるふうなのを微笑ましげに見守りながら、もっぱら聞き役に回っていた。
「僕はどうしてかな、親鸞上人にものすごく惹かれるんです。今の僕の課題は、解脱するや否やってこと、と言いつつ世俗の波に揉まれて生きてる僕は通俗だなぁ」
 やや酔っ払って呂律が怪しくなった風体の渉が最後に吐露した真情は、何故か香世の胸をついた。二十二歳という年齢で解脱などと口にする早熟な若者の内心は測り知れず、香世は何ということもなく圧倒されていた。
 店を出たときには、九時を回っていた。気がつくと、貢の姿はいつのまにか消え失せていた。おそらく順化のパブの方に流れていったのだろう。渉の家は運動公園という遠郊らしかったが、今夜は一年ぶりに再会した新庄と、新庄が武生の親元から離れて市内に借りているアパ-トで夜を徹して語り合う腹積もりらしかった。
 助手席に渉、後部座席に香世を乗せると、新庄のワゴン車は道の両側に寄せられた小高い雪の合間を縫うようにして濡れて滑りやすくなった冬の夜道を慎重に走り出した。
「まず僕のアパ-トで日向を先に降ろしますから……」
 新庄の住処は駅から車で十五分といかない手寄にあった。殺風景なプレハブ仕様の二階建てのアパ-トの駐車場に車を止めた新庄は、
「よかったら、上に上がってちょっとお茶を飲んでいきませんか」
 と香世の意表をつくように誘いかけた。香世は一瞬躊躇したが、渉も一緒という安心感から図々しく独身男性の一人住まいに上がり込んでいた。
 六畳一間の室内は、几帳面な新庄の性格を反映して小綺麗に片づいていた。家具類はベッドと机、本棚だけのシンプルさで、ぎっしり蔵書の詰まった本棚が唯一の財産でもあるかのように部屋の隅を占拠していた。机の上に載っている小型のコピ-機と束になった手書きの原稿に目に止めた香世は、
「空色の宇宙船」の台所ともいうべき作業現場を束の間覗いたような気になっていた。
 一畳ほどの小さなキッチンに引っ込んだ男は、インスタントコ-ヒ-を入れて戻ってきた。
「インスタントでごめん。今度時間のあるときにじっくり豆を挽いた本格的なコ-ヒ-、飲ませてあげますから」
 香世は男の気遣いに微笑みつつカップを受け取った。渉はと見ると、キッチンの棚から勝手知ったる顔で日本酒の一升瓶を取り出してきて、湯飲みで 豪快に飲み始めていた。
 コ-ヒ-を飲み終わった香世はやおら中腰になった。これから自宅に向かうと、着くのは十時近くになるだろう。香世の内心の杞憂を察したかのように新庄がタイミングよく促した。
「さてと、あまり遅くなってご家族を心配させるといけないから、そろそろ行きましょうか。日向、僕が帰るまで悪いけど酒飲んで時間つぶしててくれ」
「了解」
 いとまを告げる香世に、渉はほんの一瞬意味深ありげな眼差しを絡みつかせた。香世の心に後々までも引っかかるような含みのこもった目の色だった。香世はあえてそれを振り切るように背を向けた。

 自宅まで三十分の道のりは、案の定会話が滞りがちで思うように流れなかった。新庄は気づまりな沈黙をカモフラ-ジュするようにカセットを入れた。アイドル歌手の安っぽいメロディが途端に流れ出し香世は鼻白んだが、とりあえず気まずさだけは救われたとほっと助手席のクッションに背を埋めた。香世の自宅まで後数分という十字路で男は何を思ったか、急に車を止めた。香世は思わず、傍らの男を仰いだ。
「今日はどうも有難う」
 男が掠れるような声で囁いた。と思うまもなく、香世は不意打ちに被さってくる男の上体の下敷きになっていた。香世は思いのほか強い男の腕力を押し除けんと必死に手足をもがいて抗った。唇が異質の感触で塞がれた刹那、香世の体からあらゆる抵抗が失せた。香世は自分が思ってもいなかった形でキスの初体験をすることになったことに放心したようなショックを抑え切れないでいた。
「ごめん」
 香世から体を離した男はとっさに誤った。香世は助手席の扉を衝動的に開けると、外に飛び出した。踏み固められた雪道を私邸目指してやみくもに駆けた。冷たいぼたん雪が剥き出しの体に容赦なく降りかかる。体は凍えるように冷たいのに、新庄に奪われた唇だけが今尚かっかと火照っていた。

 それから二日後、香世は思いがけない男性の電話を受けた。日向渉だった。渉は渡したいものがあると簡略に用件だけ告げると、「樹林」という香世も一、二度入ったことのある駅前の喫茶店を指定してきた。
 夕暮れの喫茶店で、香世はカ-キ色のセ-タ-に黒のスリムジーンズ、足元は相変わらず裸足の下駄履きという渉と向かい合っていた。渉は二人分のコ-ヒ-をオ-ダ-すると、
「いきなり呼び出してすみません」
 と開口一番詫びたともなく、おもむろに脱ぎ捨てたコ-トのポケットを探って、
「これ……」
 と、テ-ブルの上に真珠のネックレスを差し出した。それは、香世が一昨日の集会のときに付けていったものだった。うっかりしてこれまで紛失したことに気づかないでいたが、渉は一体、どこで見つけたのだろう。
「有難う」
 香世が礼を言って手にするともなく、
「新庄の車の助手席に落っこちていたんです」
 と、渉が意表をつくように投げた。その途端に香世はかっと全身が火照るような羞恥を覚えた。赤面して俯いている香世に渉は、
「新庄に渡すべきかどうか迷ったんだけど、君が紫色のドレスにこのネックレスつけてる印象がひときわ鮮やかに僕の胸に残っていたもんで、どうしても僕自身の手から返却したくなって君に電話したってわけです」
 香世は恥ずかしさのあまり顔を上げられなかった。渉があの夜、二人に起こったことを薄々嗅ぎつけていることは疑いの余地もなかった。項で繋ぎ留めたネックレスが何もせずに落ちる偶然などまず考えられない、何かもがれるような強い衝動が加わってこそのことで、渉も密かに想像するように、あの夜、男にいきなりのしかかられた際に抗った衝動で首筋からもがれ落ちたものであることはいうまでもなかった。
「誤解しないでもらいたいんだけど、僕に新庄と君の関係をとやかく言う筋合いはないですよ」
 無言で俯いたままの香世の目から、どうしたことかその拍子にぽろりと涙がこぼれ落ちた。渉はさすがにびっくりしたようだった。
「新庄のこと、好きなんでしょう」
 渉があやすような優しい声で尋ねる。
「わからない」
 香世は涙につまった声でぽつんと呟いた。
「あいつは、時折相手の感情を考えないで突っ走ってしまうところがあるけど、誠実でいい奴ですよ」
 香世は、赤い目でうなずいた。
「ライブハウスに行きましょうか。ハードロックをガンガン鳴らしてる渋い店があるんですよ」

 「未完成」という名のその店は、裏通りの人目につきにくい場所にあった。中に一歩入ると、感傷など一遍に吹き飛ばしてしまうような疳高いロックミュ-ジックが耳をつんざくようなボリュ-ムで漲っていた。ふかふかのクッションが敷きつめられたロッキングチェアにゆったり背をもたせかけて音楽だけに全身で浸る趣向の店で、会話は不要の空間に坐ってスピ-カ-から奔る咆吼に身を任せていると、体の深奥から突き上げてくるような魂の揺さ
ぶりを体感することができた。傍らの渉も目をつむって魂を突き動かすロックに全身で酔いしれていた。
 たっぷり二時間余り音楽を堪能して、店を出る頃には、香世の気持ちはすっかり軽くなっていた。
「未完成の定番のディ-プパ-プルとかピンクフロイドもいいけど、僕が今一番いかれてるのはやっぱり、ロ-リングスト-ンズのミック・ジャガ-かな。僕の家にはLPレコ-ドのコレクションが何十枚とあるんだけど、今度機会があったら、聞かせますよ。ストーンズの『アンジー』や、ジャニス・ジョップリンの『サマ-タイム』、泣かせるリズムですよ」
 香世は渉と連れ立って繁華街を歩きながら、誘われるままに裏通りにあった渉ご推薦の食事処、「室町」に入り越前産の新鮮な海老の天ぷらに舌鼓を打った。
 店を出ると、一面に雪塵の舞う真っ白な冬の夕空からぼってりと重い雪片が切れ目なく降り注ぎ始めていた。
「自宅まで送りますよ。今日はちょいと親父の車を拝借してきたもんで」
 香世は駐車場に止めてあった白の乗用車の助手席に促されるまま乗り込んだ。渉がすかさず入れたカセットに、しっとり哀愁のこもったサクソホンの胸に染み入る響きが洩れ出し、車内を程よいボリュ-ムで満たした。渉が突然、言った。
「僕、急だけど、明日京都に戻るんです。年越しは向こうでします」
 香世は予期しなかった不意の別れに声を呑んだ。今渉と別れたら、今度逢えるのは一体、いつのことになるのだろう。
「夏休みにはまた、逢えると思うけど」
 沈黙が流れた。新庄への密かな思慕を募らせる一方で、香世はまだ逢って二度目という、よりにもよって新庄の親友というこの男にぐいぐい惹きつけられていく自分をどうすることもできなかった。二人の男に同時に惹かれるなんて、自分は多情なのだろうか。目覚め始めた女の性に引き裂かれる香世を根底から揺さぶるような言葉を、渉が乱暴に投げてよこした。
「新庄にあなたを抱けるとは思わない。あいつにはそれだけの度胸がない」
 自信たっぷりなくらい毅然とした口調だった。自宅が目と鼻の先の地点に迫っていた。
「あ、そこで止めてください」
 思わず声を挙げた香世は、渉の意味するところを尋ねるまもなく、
「じゃまた」
 男が素っ気なく開けたドアの外に弾き出されていた。車窓越しに互いの瞳が一瞬絡み合ったのも束の間、渉は呆気なく香世の手の届かない世界へと消え失せた。

 年が明けてまもなく、香世は新庄から「空色の宇宙船」の製本作りを手伝ってくれないかと頼まれた。渉が去った後の空白感を埋めるように香世の気持ちは次第に新庄へと傾斜していき、日曜の午後自然と男のアパ-トで過ごす時間が多くなっていた。
 八十部コピ-した用紙を中折りして一冊の本に綴じる作業は思った以上に大変だった。香世は、新庄がこれまで勤務の合間の余暇を利用して一人でこんなに根を詰める作業に従事していたのかと思うと、ひたすら頭が下がるような思いだった。
 三週めの日曜、晴れて製本作業が終わり、後は同人への発送とひまわり書店への納本だけになってひと息ついた夕刻、男は約束通り丁寧に豆を挽いておいしいコ-ヒ-を入れてくれた。香世はちゃぶ台に向かい合って男手作りの心のこもったコ-ヒ-を啜りながら、新庄を労った。
「『空色の宇宙船』がこんなしんどい手作業を経て出来上がってるとは思ってもみませんでした。在住の同人たちの手を借りることはできないんでしょうか」
「いや、みんな、それぞれ忙しいから。いいんですよ、僕にとってはこれが生き甲斐で結構楽しんでやってるんですから」
 二人の会話はいまだに他人行儀な丁寧口調の域から抜け出ていなかった。男の頑なな態度にはどこか馴れ合いめいたものを許さない姿勢があり、既に何度か抱擁されキスを交わしている間柄であるにもかかわらず、香世は素直に甘えていけない自分を感じていた。肉体的な繋がりでは初歩の段階に突入していたものの、香世は新庄の唇をそっと軽く触れ合わせるだけの接吻に女の本能の奥深いところでは物足りなさも感じていた。ミッキ-がキスって全く
どうってことないよと言ってた意味が今、ようやっとわかりかけていた。そのくせ、男の手が少しでも自分の胸元の膨らみに触れると、生娘らしい潔癖さから頑なに拒絶する香世だった。香世はそうした折にふと渉が最後に洩らした『新庄にあなたを抱けるとは思わない。あいつにはそれだけの度胸がない』という言葉が悪夢のように蘇ってくるのを抑えられなかった。あれから既にひと月近い歳月が流れていた。
 香世は漠然と、渉の暮らす京都に思いを馳せた。京都……。
 行けない距離ではなかった。それどころか、特急に乗れば二時間とかからない近さだった。香世はこのまま新庄との関係を続けて、容易に抜け出しがたい深みにはまってしまう前に今一度どうしても渉と逢っておきたかった。渉は一体どういう意味で、「新庄にあなたは抱けない」と言ったのか、その真意のほどを面と向かって問いただしてみたかった。

につづく)

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