インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

祭のない原野へ・第二部3(中編小説)

2017-05-03 17:00:06 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
 
   三

 家々の火を焚く匂いがうっすらと森に立ち込めている。夜汽車は深海魚のように森を抜けて、小さな村落に出る。藍に塗り込まれた車窓に時折火の粉が横撲りに走り、赤い線光を弾く。
 女は唇(くち)を真っ赤に汚しながら柘榴の実に歯を当てている。透き通った朱(あけ)の粒をきゅっと吸い込むたび、口中で甘酸っぱい風味が弾け、固い種が露わになる。
 明け初めた空の向こうに、黄褐色の城塞が蜃気楼のように浮かび上がる。砂丘の窪みに金色(こんじき)の扇を広げる美しい町は、クリムズンの曙光を浴びて燦然と輝き渡っている。
 ゴールデンシティの異名で知られるジャイサルメールが今、高らかな産声をあげて明けの陽に蘇ろうとしていた。

 暑熱の名残りが闇のベールの裏側に重ったるく澱んで、女の躯を朦朧とした熱のアメーバーに搦めとろうとする。女は寝苦しさのあまり幾たりとなく、太い呻き声をあげる。
 目覚めると、隣のベッドはも抜けの空だった。カバーがきれいに撫でつけられているのを、いかにも几帳面な性格の男らしいとぼんやり思った。
 陽射しは既に高かった。ブラインドの隙間から立て続けに連射される陽の弾雨が瞼を貫き、めくるめく光が溢れる。喉がからからに乾上がっていた。
 テラスは灼熱の陽射しを避けて憩う宿泊客で溢れ、木陰に引き込んだ籐椅子にぐったり身を横たえる顔はどれも、ミイラのように干からびて生気がなかった。女は辛うじて残っていた籐椅子の一脚を抱えると、フランス人らしい女性グループの一団に割り込んだ。
「暑いわね」
 金髪のショートカットは一見若々しいが、皮膚のたるみに年相応の衰えは隠せない。女は軽く相槌を打って、背の部分が彎曲した椅子に身を落とした。木洩れ日に瞼がとろとろと弛緩し始める。どれほどのとき、そうしていたろうか。はっと目覚めると、心配げに覗き込む男の目とぶつかった。
「ビールでも呑まないか」
 珍しく機嫌のいい柔らかな声音だった。女はのろのろと重い尻を椅子から引き剥がす。

「ここは、雲の町だな。むくむくと湧き上げた入道雲に金色(こんじき)の町が照り映えている。おかげでひとつ、いい小説の構想が浮かび上がったよ」
「すっかりお気に召した様子ね」
「おかげさまで、体調も回復したよ」
「私はその反対に、完全に体調を崩したわ。この乾いた暑さがいけないのよ。躯中の水分という水分がまたたくまに干からびてしまう。砂漠は私の体質には合わないみたいだわ」        「俺とあんたとでは全く、気持ちが一致するってことがないみたいだな。あんたの心はいつだって、俺からそっぽを向いている」
「とにかく、明日サム砂丘を見たら、一刻も早くここを出たいの」
「わかったよ、あんたがそうしたいって言うんなら……」
 翌朝、女はロビーで、これからサム砂丘にジープで遠出するという件(くだん)のフランス人女性グループと行き合った。いっしょにどうかと誘われ、もっけの幸いとばかり二つ返事で頷く。
 案の定、男は行きたがらなかった。気に入った町を自由気儘に逍遙することを何よりも好み、時間に縛られたお仕着せのツアーを毛嫌いしていたせいである。
 ハズバンドは何故来ないのか、としつこく詮索されるのに女は閉口した。が、陸(おか)が途切れる彼方まで広大に起伏する金褐色の砂野を豪快に突っ切るジープに気分は次第に昂揚し、晴れやかなものになっていった。ごつごつした丘陵に群生したサボテンが砂原一帯を覆っていた。
 どこからともなく、砂粒の爆ぜる音に混じって哀切さを掻き立てる旋律が流れてくる。しゃがれた歌声は巻き上げた黄塵に乗って、ゆるやかに砂地を駆け巡る。
 黄砂が吹き払われた彼方に、鮮やかな緋の衣が舞い上がった。女たちが手を繋ぎ踊る輪の中央で、碧い腰巻きを纏った少年が軽やかに飛び跳ねている。真紅の裳裾が砂塵を孕み揺らめき上るたび、宙にぱっと広がるような炎の華が咲く。緋の花身は軽やかに笑いさざめきながら、しなやかに跳ねる中央の少年を抱き込むように縮んだともなく、弾かれたように紅蓮の飛沫を散らす。溌刺と撓う少年の手足でカスタネットと鈴が鳴る。乾いた固い響きと澄んだ音色が溶け合い柔らかな共鳴を奏でる。
 輪の外では、砂埃にまみれたターバンを巻いた初老の男が朗々と歌声を張り上げていた。白蝋化した目が哀しげに虚空を彷徨っている。
 中世の面影をそのままにとどめる砂漠に閉ざされた幻想の村を過ぎて、女の網膜に焼き付けられた炎の舞いはみるみるうちに、辺り一面ベージュの砂の海に吸い込まれていった。
 艶やかな光沢を放つ白褐色の砂丘はゆるやかにうねりながら、遮るものもなく遠い地平の涯まで流れていた。美しい風紋に象られた白砂が柔らかなウェーヴに波打ちながらたおやかに息づいている。
「ブラボー!」
 咆哮を放ちながら、女たちはサンダルを宙高く放り上げる。砂はさらさらとシルクの感触で足の甲を滑り落ち、柔らかな重みに纏いつかれた踝は自由が効かない。女たちは砂に足をとられ、尻持ちをつきながら、四つん這いになって斜面を駆け上がる。
 淡いターコイズブルーの空と煙る砂の境に今まさに、深紅の大円が燃え尽きんとする最期の射光に燦めきながらゆっくりと沈み初めようとしていた。

 豪雨が猛然と地を叩いて流れ始める。暑苦しさに寝つかれないでいた女は、生温い湿り気が頬を心持ち冷ますのにほっと吐息をつき、瞼がいつしかゆるゆると閉ざされていった。
 繊細な綾を浮き出した砂紋が雨に打たれ、無数の点に穿たれる。雨音を突いて、砂漠の音楽師たちの歌声が途切れ途切れに洩れてくる。哀切窮まりない謡いは町に出稼ぎに行った男を待ちわびる女のやるせないため息にも似て、寥々と砂地を這う。
 雨水を吸い取って膨張した砂は重みでずるずると斜面を滑り落ちていく。艶やかに濡れそぼった金砂の窪みで、少年は軽やかに舞い続けている。しなやかな跳躍が透明な雨糸を刷き、カスタネットは槌に似た乾いた響きを立て、ほっそり締まった踝に纏いついた足環が澄んだ銀鈴を鳴り渡らせる。雨はいよいよ烈しく、勢いをまして横撲りに振りつける。溶岩のようになだれ出た土砂の奔流に、少年の華奢な躯はあっというまに呑まれてしまう。
 溶けた砂泥のあわいからぽっと花梨のように浮き出た少年の耳朶の渦に金砂が噴きこぼれていた。銀のピアスが雨粒を弾いてきらりと光る。

 黎明の刻を告げるように、梢の先に止まった孔雀がナイルグリーンの尾羽を高々と誇らしげに広げた。透かし彫りの出窓がローズ色の陽を綾に切り取って、ステンドグラスのように燦めく。
 丘の上のテンプルから、敬虔なる祈りのマントラ(真言)が独特の抑揚にうねりながら流れてくる。
「さて、出発だ」
「待って、その前に……」
 男を制すと、女は衝動に突き動かされるように、高台のテンプル目掛けて駆け出していた。
 半円型の窓から伸び上がるようにして中を窺うと、壇上にまします聖者の真っ白な顎髯が目を射るように過った。信徒たちに注ぐ眼差しは深い慈愛の色に溢れ、柔和な静けさを湛えていた。全身に纏ったサフラン色の法衣が、神々しい光背に包まれてまばゆい黄金(こがね)の放射光を発している。女は打たれたように、その場に釘付けになっていた。思わず知らず、顔の前で両掌が擦り合わせられる。と、だしぬけに、信者の一人が窓辺ににじり寄り、見守る女の掌中に丸めた紙包みをねじ込んだ。聖者の凛と涼やかな眼差しがかすかに笑みを含んだような気がした。
「おい、そろそろ時間だよ」
 いつのまにか、男が二人分のザックを手に傍らに立っていた。
「神様の贈り物、よ」
 紙包みをほどくと、砂糖菓子が淡雪のように盛り上がって意表を突いた。男は荒っぽい手つきでひとかけ口中に放り込むと、先に立って歩き出した。

                 
 ウダイプールの元藩王の迎賓館だったという由緒あるホテルが、男は殊のほか気に入ったようだった。蒼穹に白亜の円蓋を揺らめかせる豪奢な王宮ホテルは、湖を俯瞰する見晴らしのいい高台にあり、絶好のロケーションだった。
 艶めかな緋のハイビスカスや濃桃のブーゲンビリア、亜熱帯の色鮮やかな花々が咲き乱れる広大な庭園には、白塗りの籐椅子とガラス製のテーブルセットがしつらえられ、石段を降りた一等低地には、円形プールがなみなみとオパール色の水を湛えていた。
 眼下に見渡す、深いサファイヤ色の潤沢を秘めた湖は凪いだように静まり返り、湖上の中程に椰子樹に覆われた浮上庭園が小島のように浮き上がっていた。
 高い天井の広大な客室は二間続きで、バスルームだけでも十畳近い広さがあり、ゴージャス窮まりなかった。手前はリビングスペースになっており、よく磨き上げられた黒の大理石張りのフロアには年代物のシルクの円形絨毯が敷きつめられ、優雅なロココ調のソファセットがしつらえられていた。四囲の壁には細密画や異国情緒たっぷりのタピストリーが飾られ、いにしえの格調高い調度品が艶やかな飴色の光沢を放っている。
 奥は寝室になっており、純白のレースの天蓋付きダブルベッドがでんと据えられ、念の入ったことには足台まで備えられていた。
「まるで別世界ね」
 女は目を丸くして、ほーっと大きく感嘆の息を洩らす。
「この国の金持ちは、ケタが違うってことさ。少なくとも、日本のようにちゃちなものじゃない」
 杏色の天鵞絨のカーテンが湖上の涼風を孕み、重たげに揺れている。
「ここなら、あなたの書き物も捗りそうね」
「うむ。心なしか、殺伐とした都会に比べると、人々までおっとりしているように見えないかい。水が豊かだと、こうも違うものだろうか」
 男は艶やかな光沢を放っている紫檀の机を点検するように拳でこつこつ叩くと、ソファに身を投げ出した。
「これだけ広いと、イマージネーションが伸びやかに解き放たれ、地の涯までも羽ばたいていきそうだよ」
「街に出てみましょうよ。そろそろ昼食時よ」

 整然と区画整理の行き届いた緑豊かな街並みは美しい秩序を醸し、他の都市と違って、乞食や浮浪者の姿がほとんど見当たらなかった。途中でタンガー(馬車)を拾い、目抜き通りの広場まで揺られていくと、十字路の一角に他州の比較的大きな街でよく見かける観光客向けのレストランチェーン店があった。ローカル料理のほか、コンチネンタル・中華も給仕しているため、カレーが苦手な男には恰好で、二人はタンガーから降りた。
 久々に肉がメインの西洋料理を注文し、皿が運ばれてくるのを待ちながら、女はゆったりと寛いだ気分を楽しんでいた。
「躯中に精気が漲るようよ。やはり、人間にとって、水は大切なのね。砂漠では、水分という水分を抜き取られ、干からびたミイラのようだった」
「ここはいいところだよ。なるたけ長期に滞在したいものだ」
「そうはいかないわ。最南端まで、まだ日程の半分もこなしていないのよ」
 九十日でインド亜大陸横断を目指していた女はやんわり、異議を唱える。
「やれやれ……。こうもあわただしく移動させられようとは思ってもみなかったよ。あと何都市、通過すればいいんだ」
「あなたは唯黙って、書いていればいいのよ。旅の段取りは私がすべて運ぶから……」
 女はぴしゃりと放つ。
「まぁ、いい。心残りのないようにやるんだな。俺はやっと、躯がこの風土に慣れてきたという感じだよ」
 観念したように男が柔らかな声音で投げる。
「あなたが、インドを好きになるとは、最初から期待していなかったわ」
 女は相変わらずやりこめる調子を変えず、皮肉っぽい口ぶりで放つ。そこへ、鉄板の上で肉汁を弾いているハンバーグそっくりの、熱々のチキンステーキが運ばれてきた。
「この灼熱の大地を旅するには、若くて体力のあり余っているときじゃなければ、きついわ」
 男のフォークとナイフを持つ手がその瞬間、ぴたりと止まった。
「それは、俺へのあてこすりかい。確かに、若い頃は山で慣らしたこの俺様も、寄る年波には勝てんということらしい。何しろ、あんたとは一回り半も年の開きがあるんだからな」
 男は声を荒げると、分厚い肉の塊を口中に放り込んだ。たるんだ頬の肉が醜く蠕動している。女は思わず、目を背けた。男に対する言い知れぬ嫌悪感が募った。
 マナーを心得たはずの男がせっかちに平らげて、乱暴にフォークとナイフを放り出す。フォークは裏返されたままだった。彎曲した先端がブラウンソースの膜に悪意のように突き刺さっている。女はつと手を伸ばすと、フォークをフィニッシュのサインを示す正しい形に翻した。それが、男の燻り続けていた怒りに火をつけたことは間違いなかった。
「あんたは一体、何が気に入らないんだい。俺は、あんたの言うことはなんだって、聞いてやったじゃないか。それをあんたは、日本を離れてこの方、一度だって俺の方をまともに見ようとしない。この二ヶ月、一体、俺がどんな思いをしてきたと思ってるんだ」
 こめかみが青筋を立ててぴりぴり震えている。万事休す、だった。女は、下手に男を刺激したことを後悔した。この六十日間、実に当たり障りのないやり方で巧妙に危機を切り抜けてきたというのに。
「いいか、俺がその気になれば、いつでも、今すぐこの場で、お前なんざ放り出せるということを忘れるな。俺様は、それくらい冷酷な人間だってことだよ」
 荒々しく立ち上がったテーブルの下で、椅子が仰々しい音を立てて転倒した。

 日はとっぷり昏れて、湖岸の舟着き場にはランプの灯に照らし出された屋台が二軒、夜店の郷愁を醸し出していた。湖上の孤島が、夜に紛れるおぼろなシルエットを描いて浮かび上がる。
 女は衝動に駆られるようにつと、舟頭の手招く遊覧ボートに身を踊らせる。舟底に忍び込んだ闇が半身を藍に浸す。舟は黒い湖水を滑るように伝い、岸辺に腹を着けた。
 闇に溶けて、甘くしめやかな芳香が漂い流れてくる。女の胸は不意に塞がれて、奇妙に懐かしい感傷に揺さぶられる。
 あのときの匂い、雨に溶けたくちなしの甘くかぐわしい香り、あれは果たして、若い男のつけるコロンでもあったろうか。瑞々しい唇から滴る豊潤な液を余すところなく吸い尽くしたあの一瞬、ほのかに流れてきた芳香。
 なのに、何故、今、ここに男と在るのだろう。
 私は間違った、間違ったのだ……。
 旅がとどこおりなく終わるまでは、決して口にしてはならなかった言葉をつと唇に乗せてみる。辛うじて平衡を保っていた気持ちがいっときに堰を切ってなだれ出し、女はいつしか時化の海にさすらう木の葉さながら、我と我身を荒れ狂う暴風のただ中に揉みしだかれるままに任せている。
「とにかく、俺は日本に戻るよ。あんたは、ここに残るなり、どうとなり、好きにするがいい。今日の今日まで我慢に我慢を重ねてきたが、もうこれが限界だ。どうすることもできない。あんたもしくじったかもしれないが、俺もしくじったんだ、しょうがないよ」
 男の声音は、精一杯平静を取り繕おうとしながら、どうしても一オクターヴ高いものになってしまう。女にどうすることができたろう。男にせっつかれるまま、エアラインオフィスにすごすご引き立てられていく以外は。
 幸か不幸か、チケットは二週間先まで満杯だった。
 渋々とって返した男は今度は、鉄道駅まで女を引っ張っていった。が、生憎、列車も一週間先まで満席だった。
「一体、どうなっちまってんだ、この国は」
 男はぎりぎり歯噛みした。
「参ったな。かといって、こんなところでうろうろしていてもいても埒が明かないし。とりあえず、どこかで休憩して対策でも練るとするか」
 駅裏の茶屋に腰を下ろす頃には、男の顔から怒りが瓦解し、和解の印へと踏み出すまろやかな兆しすら窺えた。
「飛行機もない、汽車もない、お前、これは、この先、旅を続けろということではないかい。まだ別れるには時期尚早、ってことだよ。こうなったらとことん、行くとこまで行くんだな、それしかないよ」
 喉越しに甘ったるくミルクティーが絡みつく。女は無言で自らの心のうちの動きを推し測っている。男の言葉にほっと胸を撫で下ろしている自分がいる一方で、この先地獄巡りのような旅をさらに続けるなんて、ぞっと虫酸が走る思いの自分もいる。が、こんな異郷の見知らぬ土地で裸同然にぽんと放り出されたら、どうしていいかわからないというひしひしとした心細さの方がやや優っていた。多少不本意でも、日本に無事辿り着くまでは、男に付いていくしかないだろう。
「フローティング・ガーデンに行ってみましょうよ」
 女は和解のシグナルをキャッチしたサインに、そんなふうにやんわり男を誘い出してみる。
 昨夜、あれほど幻想的に光り輝いていた湖上の楽園は、昼の白々した陽の下では夾雑物が剥き出しになり、打って変わった様相を呈していた。女は興醒めた面持ちで、安っぽい装飾の園内を巡りながら、二人の行く末にはいつまでも、期待外れのこんな寂しさがついて回るようだと恨めしく思わずにはいられなかった。  
                

 男たちの頭上に載せた籐籠から山と積まれたマリーゴールドがこぼれ、点々と地を鮮やかに彩る。肩に担いだ麻の荷袋ははち切れんばかりに膨れ返り、今にもその口からジャスミンの数輪がこぼれ落ちそうになっている。
 男たちは地べたに荷を下ろすと、手際よくむしろを翻し一気に籠の中身をひっくり返した。堰を切ってなだれ出した白と黄の花群がせめぎ合って溢れ、混ざり合った芳香が盛り上がった山のあわいからむうんと立ち昇る。人々は、薔薇、ダリア、ハイビスカスなど、色鮮やかな花の山々を縫うように入り乱れて行き交い、花売り行商は威勢よく声を張り上げる。
 花市場の混雑を抜けて新市街に出ると、街の様相は一変し、ウェスタナイズされた高級店が大通りの両側に軒を並べ、Tシャツ・ジーンズ姿の洗練された若者が意気揚々と闊歩していた。デカンの台地に臨む高原都市・バンガロールは、この国切っての西洋化された都会でもあるのである。
 大都市以外滅多に見かけぬ外資のハンバーガーチェーン店で、女は肉が固めのマトンバーガーを頬張り、久々に都会の自由と解放感を味わう。店内は、今流行りの洋楽がかかり、このモダンな街には確かに進取の気風が息づいているようだった。
 男は明日で、四十八歳の誕生日を迎える。女はテーブルの下でこっそり、内緒で買い求めたキャッツアイのカフスとネクタイピンのセットの小箱を覗き見る。こんなものが果たして、これから先の男の人生で役立つことがあるのだろうか。男は、インドに発つ前、背広は捨てたのだ。あるいはカナダ で……そう、二度と表向きの社会生活には戻ることがなくても、作家として成功した暁には。
 ハンバーガーが苦手の中年男は、ガラス張りの扉の外に気後れしたように佇んでいる。

につづく)
ジャンル:
小説
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