インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

撫子戦争1(短編小説)

2017-04-21 19:09:58 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
撫子戦争

                                李耶シャンカール
    
   一

 ガンジス河東岸の白み初めた下空から、日輪が薔薇色の片鱗を覗かせ、名だたる聖地ベナレスが今しも、深い闇から目覚めようとしていた。曙光の一矢を穿たれた聖なる河岸は、滴るような血の色を帯びて艶やかに燦めく。いつものように三階建ての古屋敷の屋上に昇った貴緒プラカーシュは、この十年間一度として欠かしたことのなかった儀式に神妙な面持ちで臨んだ。
 明けの太陽は次第に赤みを増した鮮やかな大円となり、眼下のたゆとう流れが金糸銀糸を編み込んだインドの婚礼衣装にも似て燦然と光り輝く。日の出を待ち構えたように、沐浴する巡礼旅行者の一団が、朝日を拝みながら、祈りの文句を唱え、ざんぶと頭(こうべ)を水中に潜らせる。間を置かずして、河を取り巻く寺院群からいっせいに、けたたましい鉦や銅鑼の響きに混じって、ヴェーダの抑揚ある吟誦が流れてきた。河岸はいつものようにあまたの観光客や巡礼者でごった返し、混沌とした喧騒に包まれていた。
 ガートと呼ばれる河岸の石段では、歯磨き・洗顔する人はじめ水浴びする子ども、洗濯する女ら、地元民による日常の営みが繰り返される傍ら、巡礼者は祈りつつ沐浴し、その脇すれすれを観光客を満載したボートが通り過ぎていく。
 ごった返す河の渦中に、貴緒はつと、自分のペンションの泊まり客である日本女性を見いだし、十五年前旅行者として初めてベナレスを訪れたときの自身に重ね合わせずにはおれなかった。着慣れぬサリーを纏ったまま、現地女性に倣って聖なる水に身を浸したときの敬虔なる感動が新たに蘇るようだった。

 一階に降りた貴緒は、キッチンに入ると、コックに宿泊客全員の朝食の指示をした。
 今日もまた、日本人専用宿「ペンション・タカオ」のあわただしい一日が始まろうとしていた。夫のアナンドは、時間になっても現れない客を起こすのに忙しかった。やっと後片づけが終わったと思ったら、息をつくまもなく昼食の準備時間で、今日は久々に冷麺にしようと思い立った貴緒は、買い置きしてあった大量の乾麺をコックの手を借りずに自ら煮立った大鍋の中で茹で始める。日本醤油は手に入らないので、つゆは中国製の醤油を用いてというあくまで和食紛いだったが、それでも、客には喜ばれた。
 昼食の給仕が終わると、もう二時半だった。三時から、同じベナレス在留者でレストランを経営する浩子ヤダブ宅で、邦人会が催される予定になっていた。
 といっても、浩子と自分、あと新市街でホテルを営むもうひとりの同業在住者、夏美シンのたった三人だけのささやかな日本人妻交歓会であったが。冷麺の残りをあたふたと掻き込んで、身仕度を整えた貴緒は、徒歩で十五分と離れていない浩子宅へ急いだ。
 ローカル客でごった返す一階のレストラン脇の狭い階段を駆け上がると、とうに夏美は到着しており、浩子と二人歓談しながら、自分の到着を待ちわびていた。
「ごめんなさい。遅くなってしまって」
 腕時計を一瞥すると、二十分の遅刻であった。
「どうしたのかと思って、浩子ちゃんをおたくのペンションまで見に行かせるつもりだったのよ」
 夏美が少し刺のある口調で放った。
「でも、よかった、貴緒さんが顔を見せないことには、始まるものも始まらなくって。夏美さんが持参してくれたとっておきの和菓子も、お預けのままだったのよ」
 とりなす浩子の言葉に悦に入ったように、夏美がもったいぶった口調で、
「これ、日本から送ってもらった海苔巻きあられ、皆で食べようと思って持ってきたのよ」 
 と小綺麗な包装紙に包まれた高価そうなあられの缶を、得意満面に差し出す。缶の上には、念の入ったことに、煎茶のパックまで載せられていた。
「うふ、じゃあ、私、早速、お茶、淹れてくるねぇ」
 浩子は目を輝かしながら、いそいそと受け取ると、バタバタと慌ただしげに階下に降りていった。
 夏美とともに残された形になった貴緒は、少し気まずい沈黙を囲ちながら、座っていた。あら捜しをするような目で浩子の家の隅々まで点検していた夏美が沈黙を破って、つと洩らした。
「浩子ちゃん、よく冷房なしで我慢できるわねぇ」
 三部屋しかない二階家はかなり老朽化しており、ペンキの色褪せた壁はところどころ漆喰が剥げかかっており、浩子が普段居間として使っているらしいこの部屋は、薄手の天井を通してインドのぎらつくような陽射しが浸透し、蒸し風呂同然の耐え難い熱気を醸していた。天井には現地特有の大型扇風機が取り付けられていたが、三枚羽は鈍い旋回音をあげて生温い熱気を掻き回すのみで、こうして座っているだけでもじわじわと汗が噴き出してくるのであった。
 室内は、粗末な木製テーブルと椅子が置かれているのみの殺風景さで、唯一それだけが財産といっていい21インチのフラットTVがやけにちぐはぐな様相でピカピカの画面を誇示していた。奥にはもうひと部屋あるようだったが、こちらの方はどうやら寝室として使われているらしかった。
 レストランになっている階下からは絶えず、ローカル客のかしましい声が響いてきて、落ち着いて座っていられないような騒然とした雰囲気に包まれていた。

 二年前、インドの有名な聖地ベナレスをツアーで訪れた浩子は、現地ガイドのニキールと恋に陥り電撃結婚、以後、生活手段として、ガンジス河に近い入り組んだバザールの一角でレストランを営んでいるのだ。
 浩子の先達には、十年前から、河沿いの三階建ての旧館を改築し日本人旅行者向けの民宿を経営している貴緒、五年前に貴緒の向こうを張って、新市街に四階建てのホテルを新築した夏美の二人がいた。
 ふた月ほど前、一番年若い浩子の提案で親睦の場として「撫子会」なるものが結成されて以来、今日はその二回目の会合にあたるのだった。
「ここ月三千ルピーで借りているらしいけど、浩子ちゃんとしては、河沿いにいい賃貸物件さえあれば、ホテルをオープンしたい意向のようよ」
 貴緒にとっては聞き捨てならない話で、夏美の手前、努めて平静を装ってはいたものの、内心穏やかならぬ心境だった。日頃、同胞客の争奪戦に角突き合わせている二人の日本人妻宿に新たにもう一軒加わることになるわけで、三つ巴戦になる将来が憂えられたからでもあった。
「いくら有名観光地とはいえ、日本人旅行者の絶対数は少ないんだから、ねえっ?」
 貴緒の反応を窺いつつ、ほのめかす夏美の口調にも、商売敵がまた一人増えることを密かに懸念した響きがこめられていた。
 何せ、浩子の提案で会が発足するまでは、社交辞令程度の付き合いはあったものの、裏で熾烈な客争奪戦にしのぎを削っていた二人なのである。浩子が宿敵同士の橋渡し役として緩衝剤になった今も、密かに対抗意識を燃やし続けている二人だった。
 「ペンション・タカオ」と「サマー・リゾート」は河沿いと新市街と距離が離れているからまだしも、同じ立地となると、文字通り真っ向からの対抗戦となるわけで、貴緒としても、相手が邪気のない浩子だけに、鬱陶しく思われるものがあった。
 そこへ、浩子が熱々のカップを三つ、あられの入った器とともに盆に乗せて運んできた。
「お待ちどぉさまぁ」
 湯気の立った茶碗からは、香ばしい香りが漂っている。三人ほぼ同時に淹れたてのお茶を啜り、あられに手を伸ばした瞬間、ほうっと感嘆の息が誰からともなく洩れた。
「ああ、懐かしい日本の味……」
 それがきっかけとなったように、三人の間では、ひとしきり母国のことが話題にのぼった。
「私、ここに暮らすようになってから、日本のよさがしみじみわかるようになったわ。気候は四季に恵まれ温暖だし、治安はいいし、何より清潔で、物が豊かに溢れているし……」       
 夏美がやや郷愁めいた目つきになったかと思うと、実感のこもった口調でしみじみと洩らした。貴緒や浩子と違って、夫とは日本で知り合ったという夏美にとって、インドとはそれまで一度も足を踏み入れたことのなかった未知の国だったのである。ロヒットの生まれ故郷だったベナレスという有名な聖地のことは耳にしたことはあったらしいが、われとわが目で確かめるまでは果たして移住できるかどうか心配でならなかったという。
「初めてここに来たとき、汚いのと、暑いのと、あと、乞食がうようよしているのと、路上にのさばるお牛様にカルチャーショックを受けたわ。当初三ヶ月は高級ホテルの冷房完備の部屋にこもりきりで、外出するのもびびってたくらい」
 浩子がくすくす笑いながら、
「私はその前にツアーでベトナム行ってたから、それほどショックは大きくなかったけど」
 とすかさず応じる。貴緒は若い二人に、自分の思い入れのこもったベナレス体験をひけらかすのは何となく躊躇われ、押し黙っていた。
「夏美さん、ところで、帰国の予定は?」
「うーん、まだ決まってないんだけど、二年近く帰ってないし、そろそろとは思っているのよ。浩子ちゃんは近々、ご主人伴って帰る予定なんでしょう」
「ん、のつもりなんだけどさぁ、何せ結婚してから、一度も帰ってないじゃなぁい。家には事後報告したもんで、親父さん、相当怒り狂ってるらしいのね。家族と対面させることを思うと、今から頭が痛いよーっ」
「うちも、いざ結婚という段になったときは、大変だったわよー。父は潔く諦めたみたいだけど、母がヒステリックに泣き叫んで……」
 父親が会社経営という裕福な家庭に育った夏美は、東京の短大を出て商社に二年ほど勤めた後、いつからともなく名家の御曹司と見合い結婚するレールが敷かれていたという。が、どこでどう道を誤ったものか、アジアかぶれの女友だちに誘われて赤坂のインド料理店に通ううちに現地人ウェイターと親しくなり、あとは男と女のお定まりのコース、熱心な求愛に根負けした形で国際結婚に踏み切ることになったのだった。
 もっぱら夏美と浩子の間で繰り広げられる会話を、貴緒は口を挟むでもなく、終始聞き役に徹して無言で耳を傾けていた。浩子がそんな先達を気遣うように、すかさず話題を差し向ける。
「そういえば、貴緒さんはもう、七年余りも帰ってないんでしょう」
「ええ、まぁ……。お察しの通り、うちも似たような状況で反対を押し切って一緒になったもんで、帰ってもあまり歓迎されないのよ」
 貴緒は感情をこめずに、淡々とした口調で放った。
「ご主人は、デリーの政府観光局に勤めていたお役人だったんでしょう。アナンドさんて、誠実でやさしくって面倒見もよくて、亭主の鑑みたいな人よね。常々、うちのニキールにも見習うようにと言い聞かせているのよ」
 貴緒は夫のことを面と向かって褒められて照れくさく、笑って受け流すのみだった。
 
 今はさること十五年前、女の独り身で初めてインドに渡った二十六歳の貴緒は北の主な観光地を周ったあげく、首都に戻る。下界はちょうど酷暑の盛りで、ヒマラヤ方面の避暑地に逃れようと考えた貴緒は、危険区域カシミール地方の情報が知りたくて、観光局に相談に行く。そこでアナンドと名乗る三十代前半のオフィサーから親身になっていろいろ面倒を見てもらったのがきっかけで、以後渡印のたびに訪れるようになる。徐々に親しくなっていく過程で、彼の生まれ故郷が奇しくも自分が惹かれていたベナレスと知って、宿命的な因縁を覚えずにはいられない。アナンドはいずれ、愛する自分の生地で祖父から受け継いだガンジス河岸の旧屋敷を改築し、宿を営みたがっていた。その意図に賛同した貴緒は、熱意にほだされるまま国際結婚へと踏切り、役所を退いた後夫が念願通りオープンしたペンションは、奥さんが日本人という評判が同胞旅行者の間に広がり、もっぱら自国人向けの民宿となったのだった。
「でもさぁ……」
 不意に話を蒸し返した夏美が、
「時たま、むしょうに帰りたくなるってことなぁい」
 痛いところを突いてくる。
「そこをまぁ、帰巣本能をなだめすかして、何とかあやし、あやし、やってるわけですよ」
「強いなぁ、貴緒さんて、心身ともにインド人になり切っているのだもの」
 浩子が感嘆したような呟きを洩らす。インド人になり切っているというのとはちょっと違うと思ったが、貴緒はあえて反論しなかった。
「夫はさておき、私はどうも、いまだにインド人て、信用できないんだけどね」
 夏美がだしぬけに、冷ややかな声音で投げる。
「天性のペテン師じゃなくって? 日本人旅行者もよく騙されているみたいだし」
 浩子が苦笑いしながら、すかさず相槌を打つ。
「私も実は、そのさんざんぼられた口なんだけどさ」
「ほんと一筋縄ではいかないわよねぇ。使用人には散々頭を悩まされているのよ。怠けるし、すぐ辞めるし、下手すると、盗癖はあるわで」
「あ、うちも、コックに相次いで辞められ、今ので五人目。ニキールもぼやいてるわ」
「ホテルを建てるにも、ほんと大変だったわ。何事につけのろくって、非能率きわまりない。人夫の尻を叩いて二年半後にようやく完成したときには、ぐったり。これが日本だったら、一年とかからない工程なのに、散々引き延ばされ、往生したわ」
 地元民を弁護する思いはさらさらなかったものの、貴緒はさすがにここで一言口を挟まずにはおれないような気持ちになり、
「亜熱帯という苛酷な風土だから、住民に多少のずるけ癖が出てくるのはしょうがないと思うわ。あまり日本式に潔癖にならずに、鷹揚に構えることが大切と思うけど」
 と、滞印生活十年の体験から来るアドバイスを垂れた。年長者の助言には、さすがに若輩二人とも黙り込まざるをえなかったようだった。

 浩子がお茶の代わりを淹れに立って、空になった器に再度満たされたあられも尽きる頃、三人の会話も跡絶えがちになった。
「子どももおなかを空かしている頃と思うし、私、そろそろ帰るわぁ」
 四歳の男児の母親でもある夏美が、一番最初に腰を上げた。徒歩で帰れる貴緒と違って、夏美の住まいは新市街と離れていることもあって、日が落ちると、この辺りは物騒になるのだった。待たせてあったお抱えの運転手付きの車であわただしげに夏美が立ち去った後も、貴緒と浩子はそのまま座って、しばらくとりとめもない雑談を交わしていた。
「夏美さんちって、いつも行くたびに、新しいものが増えているのよ」
 つと、浩子が嫉妬とも羨望ともつかぬ口調で洩らした。次回の会場になる予定の夏美の私邸に貴緒はまだ一度も招待されたことはなかったが、浩子はちょくちょく遊びに行っているらしかった。
「物に異常なこだわりを持っているというか、見栄っ張りなのよね」
 記念すべき初会合は、滞印歴十年を越す先達ということで、貴緒自身の私邸があてられたのだが、ペンションの一階をプライベート用に改築した住まいは、冷房完備、ソファと一応居間の体裁は整っていたものの、華美を避けた比較的シンプルなものだった。
「うちの旦那、ロヒットのこと、毛嫌いしてるのよ。ベナレスにいたときは職にあぶれたごろつきだったくせして、日本でたかだか四年働き、大和撫子を娶ったことで鼻高々、逆玉の輿に乗ったもんで、あいつ、態度がころりと変わっちまったって。あそこんちの旦那ときたら、いつ行っても、ロビーのソファに威張りくさって、ふんぞり返っているんだから。醜く出っ張ったおなか、突き出してさ……」
 浩子の口調には明らかな悪意がこめられていた。年長の自分に比べると、夏美とは年齢的にも五歳しか離れておらず、日頃親しく交わっているかに見えた浩子の口からこれほどにもあからさまな批判が飛び出るのは初めてのことで、貴緒は意外に思うあまり、どう答えてよいものかわからなかった。浩子は、貴緒が内心、商売敵である夏美を快く思ってないことを承知の上で、さりげなく同意を求めているのだ。かといって、今本人のいないこの場で、浩子に同調して陰口を叩くことはフェアじゃない、会の意義にも反すると、貴緒は慎重に押し黙っていた。
 浩子は貴緒の無反応にがっかりしたようだった。貴緒はこの際だからと、さりげなく話題を転換すると、
「そういえば、浩子ちゃん、近々、河沿いにホテルをオープンするつもりなんだって?」
 思い切って、心に引っかかっていたことを問い質してみた。
「あらやだ、どうせまた夏美さんがいいように、言い触らしたんでしょう。そうなればいいなぁというあくまで仮定の話で、近々なんて、とんでもない。貴緒さん、安心して、私は夏美さんのように、貴緒さんの向こうを張って日本人客を奪おうなんて、金輪際考えてないから。地元の観光客向けに、小さな宿を開けたらと思っているだけのことで……」
 貴緒は自分の懸念を若い浩子に見透かされたようで恥ずかしかったが、浩子の明白な意図を知ってほっと胸を撫で下ろさざるをえなかったことも確かだった。
 いつのまにか日はすっかり落ちていた。貴緒には九歳になる息子が一人いたが、寄宿舎に送っていたせいで、子育てからは解放されていた。が、そろそろ泊まり客の夕食時間帯が迫っていた。
「長居しちゃったけど、私もおいとまするわ」
 腰を上げかけた貴緒に、浩子は夏美が持参したあられの缶の残りをお裾分けすると、名残惜しそうに送り出した。

につづく)
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小説
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