インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

スワップ婚1(中編小説)

2017-10-09 20:28:02 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
スワップ婚

                  李耶シャンカール


 一フィザとフェローズの再婚

 本来なら新婚初夜という記念すべきその一夜、フィザは熱気を重苦しく掻き回すのみの天井扇風機の鈍い旋回音が今夜に限ってやけに耳にこびりついて離れず、一睡もできずにいた。酷暑季の寝苦しさよりも何よりも、これまでの慣れた生活から一転してまったく新しい生活に投げ込まれた不安と緊張で目が冴えて眠れなかったのだ。いつも傍らにいたはずの第一夫アミールの姿はなく、たった独りであることと、一階のゲストルームで、第二夫フェローズが眠っていると思うと、落ち着かなかった。
 協定を結んであるので、よもや違反を犯すとは思えなかったが、フィザは念には念を入れて内鍵を厳重にかけて床に就いたのだが、安眠は訪れるはずもなかった。
 ぎんぎんに見開いた目で闇を見つめながら、奇しき因縁で二番目の夫の座に納まった男、必然的偶然で第二夫に祀り上げられたフェローズと、これから三ヶ月もの間寝起きを共にしなければならないと思うとぞっとして、輾転反側、まぶたが塞がらなかったのだ。
 三ヶ月はあまりに長すぎる、拷問だった。しかし、嫌疑をかけられないためにも、アリバイは完全でなければならなかった。三ヶ月後には、すべてが元の鞘に納まるのである。
 居住地D市郊外に急きょ借りた二階建ての家具付き貸家は、すぐに生活可能な日用品までそろっており、不自由はなさそうだったが、住み慣れた我が家が恋しかった。

 翌朝から、世間一般でいうところの新婚生活がスタートしたが、当然のことながら、フィザにとっては、甘さなどいささかもない、苦役のような同居生活となることは間違いなかった。二人の関係はいうまでもなく、ぎこちなかった。フィザは差し当たって、フェローズの心証を害さないように、従順な第二妻役に徹することに決めた。
「朝食は、どんなメニューがお好みでしょうか」
 おずおずとフィザは、すでに起きていたフェローズに、ミルクティーのカップを手渡しながら、訊いた。トーストとオムレツの洋風が好みだったアミールと対照的に、フェローズはお国料理を所望した。
 食卓の準備が整って促すと、フェローズは少し居心地悪げにダイニングの椅子に腰を下ろしたが、皿に揚げパンや豆スープを給仕すると、旺盛な食欲でむさぼり始めた。次々にお代わりを載せるフィザに、そこまでという風に手で制すと、盛られた分だけきれいに平らげた。
 食後、「おいしかったです」と控え目な口調でフィザの労をねぎらい、立ち上がった。おいしいなどという感想をアミールに一度も洩らされたことのなかったフィザは意表をつかれ、フェローズに対して漠と抱いていた恐れの感情が少し和らいだ。
 二十五歳のアミールよりやや年上と思われる二十代後半、銀行か役所勤めのお堅く真面目な男性、それがフィザがフェローズに抱いた初印象であった。Tシャツ&ジーンズが定番の広告会社勤務の第一夫とは性格をとっても容姿からいっても、まったく正反対だった。外向的で現代派のアミールに比して、二番目の夫は堅物の保守派、寡黙でどちらかといえば内気な自分と似通っているように見えた。容貌もアミールがくっきりした彫りの深い美形の長身なのに比して、十人並みの平凡な顔立ちで中背だった。つまりどこからとっても、陳腐の典型、あまり面白味のない男だったが、その分誠実さがにじみ出ていたことは確かだった。が、反面、厳格そうな一面も秘めているように思えて、何となく恐かったのである。
 フィザはフェローズの第一妻ディヤの顔や性格をつと思い浮かべた。水と油のようなこのカップルがどんな縁(えにし)で結ばれたのだろうと不思議に思ったものだが、しかし、水と油と言えば、そういう自分とアミールだって、そう言えなくもなかった。自分たちは見合い結婚だったが、フェローズとディヤも親の命令に否応なく従わされたものかもしれない。ディヤはフィザとさほど変わらない年頃に見えたが、容姿や性格は対照的で、派手なくっきりした顔立ちの積極的な女性だった。既婚婦人の日用着である体に巻きつけるタイプの長い布地ではなく、あでやかな真紅の民族服パンツスーツをまとい、化粧も濃く、ぱっと惹き立つような華やかさがあった。濃い紫色の布をまとって、布の切れ端で頭上を覆っていたフィザは引け目を感ぜずにはおれなかった。お互いの素性は明かせないし、紹介しあった名も偽名だったため、すべては外見上の印象からのみのものだったが、四人で額突き合わせて相談後、ほどなく合意が整ったのだ。
 入れ換え期間について、ひと月で充分とするアミールと、三月はいっしょにいないとまずい、疑われる可能性があるとする慎重派のフェローズとの間で意見が対立したが、最終的に三ヶ月ということでまとまった。それから、互いの妻を交換すると、分かれて別々の聖堂に向かい、再婚したのだった。

 最初の一週間は、問題なく過ぎていった。第一夜、眠れず煩悶したのが取り越し苦労と笑われるほどだった。もちろん、依然ぎくしゃくした関係は続いていたが、フェローズは癇癪持ちのアミールと違って、温和で扱いやすい男で、フィザも半ばほっとしていた。このまま儀礼上の関係を三ヶ月保つことはさほど困難でないように思われたのだ。フェローズは礼儀正しく距離を置いたままフィザの領域に割り込んでくることはなかったし、昼間は何の仕事かわからなかったが、勤めに出払っているので、フィザも自由に過ごせた。しかし、必要以上に親密になることだけは避けねばならなかった。最低限の事務的な会話を交わすのみで、距離を保っておかねばなるまい。無論、それは向こうとて百も承知だろう。夫婦としての同居というのはあくまで表向きで、がゆえの、一軒家に住みながらの一階と二階の別居生活なのだ。ただし、家事だけは自分が引き受けなければならなかった。使用人はプライバシー保持のため、雇えなかったからである。
 フィザはときどき、この羊のように大人しい男がどのような段取りで、かの三言離婚通告を妻に下したものかと、いぶかられてならなかった。が、三行半を突きつけるにいたった内々の事情をあけすけに聞く仲でもなし、余計な会話を交わして親しみが深まるのもやっかいだと、依然最小限の言葉しか交わさないよう気をつけていた。ただ時折フェローズが向ける目色で、最低限自分に対して嫌な感触だけは抱いていないようだと察することはできた。それはフィザも同じで、いってみれば、似た者同士の共感をそこはかとなく共有していたといえるかもしれない。
 フェローズは何より、フィザの作る食事を愛した。言葉少なながら、そのうち今日はあれが食べたいとリクエストするようになり、フィザはそれによく応え、第二夫を失望させることがなかった。 
 そうして二週間が過ぎ、いつしかひと月の歳月が流れていった。

 穏やかな水のような生活で、居心地の悪さはほとんどなかった。確かに本人と立ち向かうときの気まずさは多少あったが、この調子ならあと二ヶ月何事もなく過ぎて、約束通り期限末に三言通告を勝ち得るのは間違いなさそうな気がした。フェローズが信頼を裏切るような顛末はよもや、疑えなかった。
 その日の夕食後、フェローズは銀紙に包んだ矩形の箱をフィザに差し出した。
「いつもおいしい食事をご馳走になっているお礼、せめてものぼくの気持ちです」
 フェローズは少し照れて言った。フィザはおずおず受け取ったが、開けるよう促されて包装を解くと、美しい深緑色の人絹の長布が納まっていた。縁取りは金色(こんじき)で、目が覚めるようなあでやかさの、手のこんだ刺繍入りだった。しかし、この贈り物を受け取るわけにはいかなかった。第一夫アミールのことがつと頭を過った。
「とても美しいですわ。でも、これは私にではなく、贈られる人を間違えていますわ」
 フェローズの穏やかな眉が曇った。
「あなた用に買い求めたものだが、色がお気に召さなかったかな」
 フィザは俯いてもじもじしていた。なんと答えていいものかわからなかった。しかし、この厚意は断じて受け取ることのできないものだった。
「わかりました。今度は物でなく、何か食べるものを買ってきましょう。好物のものがあったら、遠慮せずに言ってください」
 フェローズは箱を引き取ると、努めて明るさを装って投げたが、とっさに背けた背には失望が表れており、フィザも気になった。
 それにしても、アミールから一度も贈り物と称するものをもらったことがなかったフィザはその実、フェローズの気遣いが嬉しかった。フェローズらしい濃やかな気配りで、普段妻とはかしずくものと傲慢で、釣った魚に餌をやらない呈のアミールとは大いに違っていた。美しいサリーだったなと、フィザは夢見るような瞳を泳がせた。なんで、私の気に入りの色がわかったのだろうかと、不思議でならなかった。初めて、フェローズに対して温かいものが流れ出すのを感じたフィザはあわてて、その感情を塞き止めた。フェローズに情を抱くことは厳禁だった。たといそれが友情から出たものにしろ、三月後にはまた他人に戻る運命、後腐れない事務的な関係で別れたかった。

 フェローズとの共同生活は思ったより快適だったが、深入りしないようにと気を配るがゆえの緊張感は常にあった。そのため、二ヶ月がやっと過ぎたとき、フィザはさすがにこれまでの緊張が溶けるような、安堵感を半ば覚えた。二ヶ月半めに突入した頃からは、せかせかと逸る思いで、息を詰めたように三言通告を待ちわびるようになっていた。何もきっちり三ヶ月でなくともいいのだ、ちょっと早めに通告してくれたっていいと、じりじりした。どうしたことか、フェローズは、肝心の一言をじらすようになかなか口にしてくれなかった。まさか約束を忘れたわけでもあるまい。フィザははらはらと、第二夫の意向を疑わしげに探るばかりだった。
 フェローズはフィザが何かを言いかけそうな期待のこもった顔つきになると、すうーっと視線を逸らして、その場を立ち去ってしまうのだ。
 すでに五十日が過ぎていた。が、フィザは慎重だった。まだ十日ある。杓子定規なフェローズはきっちり三ヶ月目に通告するつもりでいるにちがいない。なにせこの男は自分たち元夫婦にとっては、神にも等しい存在なのだ。救世主をせっついて怒らせては身も蓋もない。自分とアミールが復縁できるや否やは、すべてこの男、フェローズにかかっているのだから。そのため、本物の妻のように甲斐甲斐しく奉仕し、じっと時期の来るのを待ち続けることしかできなかったこの五十日間だった。
 しかし、約束の期限まであと三日という瀬戸際になっても、フェローズはじらすようにフィザがただひたすら待ちわびる三言通告を口にしてくれなかった。

 が、五十八日目に至ってついに、朝食の席上で、荒潮のように高まる第二妻の期待に耐え兼ねたように、フェローズがその一言を発した。
「離婚」
 弱々しい言葉だったが、フィザは内心狂喜した。ああ、やっとこの嘘の生活から解放されると思うと、顔中に喜びの泉が噴き上げた。
 あにはからんや、束の間の喜悦は一転して、落胆に変わった。
 第二夫は、離婚と一言発しただけで、突如席を立つと、顔を背けて足音荒くその場を去ってしまったのだ。
 フェローズにいったい、何が起こったのか。なぜ、一思いに三言通告して、自分をこの嘘の生活から解放してくれないのだ。フィザはもどかしさでいっぱいだったが、かろうじて落胆から立ち直ると、自分を鼓舞した。
 少なくとも、離婚の一語を吐いてくれたのだ。あともう一息、明日か明後日には間違いなく一気に残りの二言通告され、自分は解放され、アミールと晴れて復縁できるのだ。確実にその日はやって来ると、フィザは信じて疑わなかったので、楽観的だった。

 そもそもは、泥酔して帰ったアミールが悪かったのだと、フィザはつと事の顛末を振り返る。酒くさい息を吐いて求めてくる夫を反射的に退けたフィザに烈火のごとく怒り狂って、亭主の要求に応えられない女など、妻じゃないと三言通告を吐き捨てた挙げ句、酔い潰れて眠りこけてしまったのだ。フィザはおろおろと大変なことになってしまったと、無論眠るどころではなかった。
 今さっき離婚通告したばかりの事の重大さも知らずに、のんきに眠りこけている夫が恨めしかった。もう、自分はアミールの妻でないのだと思うと、涙がはらはらこぼれた。
 翌日、事の次第を知らされた夫はさすがに泡を食った。しかし、いくら悔いたところで後の祭りだった。宗教法廷に出向いた夫は、聖職者に復縁するにはたった一つの手立てしかないことを示唆される。それは妻が再婚した第二夫から三言離婚宣告されること、そうして初めて第一夫との復縁が許されるという。
 しかし、いったいどうやって? ほとんど不可能に等しい解決策だった。ただ離婚通告するがために結婚してくれる男など果たしてどこにいるというのだ。そもそも、結婚歴のある女との再婚に承諾してくれる男を探すのだって、至難の業だった。なおかつ三言通告もとなったら、金で雇えとでもいうのか。それにしたって、妻の貞操の問題はどうなる。第二夫の性の餌食になってしまう可能性がないとは言い切れない。不貞を犯した妻を、自分がどうして受け入れられよう。夫は煩悶した。
 窮余の策としてネットで当たって、同じ問題で悩む夫婦がたくさんいることを知った。証人不要の夫の側からの一方的な離婚通告はその安易さから、濫用されていたのだ。アミールと似たような、泥酔の挙げ句詰られてついというケースが多かったが、中には、愛人と再婚したいがためにメールやSMSの簡易通報で済ませる浮気亭主もいるようだった。
 根気よく調べていくうちに、名案ともいうべき解決策にぶち当たった。復縁を望むカップルとの合意契約のもとの入れ換え婚である。互いが互いの問題解消の最善策、金銭を介す必要もないし、ベストの妙案だった。
 そして、交換条件に見合う夫婦が運よく、見つかったのである。偽名であることは間違いないが、フェローズ&ディヤというカップルで、互いの離婚通告を撤回するための、妻取り替え作戦の段取りが整ったというわけだった。

 翌日の夕食後、思った通り、フィザの期待のこもった上目遣いの促しに、フェローズがふらふらと椅子から立ち上がって、
「離婚」
 とかろうじて二言目の通告を発した。フィザは昨朝のぬか喜びに終わった顛末のせいですぐには反応を示さずに、息を詰めて三言目を待った。
 第二夫はなぜか苦しそうに歪めた顔つきの下から、消え入りそうな三言めをひねり出そうとしながら、間際に来て声を呑み込んでしまった。まるで嫌々ながらのおざなりのような二言めであったが、喜びの表情に沸き返ったフィザだっただけに落胆はひとしお深かった。しかし、ここでせかしては元も子もない。じっと、辛抱強く三言めが発されるのを待つしかなかった。ああ、もう少しで、第一夫のもとに戻れるのだ。フィザは緊張の頂点で、張り詰めた空気の中微動だにせず三言目をひたすら待ちわびていた。
 立ち上がったままのフェローズの唇の動きを、すがるような目で追い続ける。唇がつと動いた。フィザは息を詰めて、その瞬間を待った。ああ、ついに……。
 しかし、次の瞬間、フィザのどくどくと心臓が破裂しそうなくらい高鳴っていた動悸は、一気に凍った。
 第二夫はついに三言目を発することなく、気弱そうに口をつぐむと、背を背け、居間に去ってしまったのだ。
 フィザは愕然とした。二言目までの通告は撤回可能で、無効なのだ。きちんと三言通告しないと、離婚は成立しない。
 深い落胆からかろうじて立ち直ると、フィザは気を取り直し、明日に期待することにした。

 約束の最終日、息を詰めて待ちわびるフィザにフェローズは終始避け通し、食卓でも目を合わすのをかわしてとうとう三言通告せず仕舞いだった。翌日、さすがにたまりかねたように、
「あのう、お約束の期限を過ぎているのですが、まさかお忘れになったわけではないでしょうね」
 とそれとなくせつくと、フェローズは顔を真っ赤にし、口をもごもご動かし、
「ぼくはフィザさんの作る食事の大ファンになってしまったのです。もうあと一日だけ、ぼくの妻としてのあなたの手作り料理を楽しませていただけませんか」
 フィザは折れた。多分、フェローズの元妻ディヤはアミールから既に三言通告を勝ち取っているはずだと思うと焦ったが、一日くらいは大目に見るしかない。アリバイを完璧にするため、アミール・ディヤ組とは三ヶ月間音信不通、六十五日後に、さる海辺の町で再会の約束を交わしてあった。
 ところが、翌日になっても、フェローズはまた同じ言い訳で通告を避けようとするので、「三日後のS町での四人の再会をお忘れになったわけでないでしょう。あなたの第一妻のディヤさんはこの日をどんなにか待ちわびていることでしょう」
 とやむをえず、タブーの相手の妻の話題を持ち出すと、
「ディヤの手料理というのを、ぼくは一度も食べたことがないのです。食事だけでない、あいつの体にも満足していなかった」
 と日頃のフェローズに似つかわしくなく、あからさまに内々の事情を暴露する。
 フィザは聞こえなかった振りをして、
「私の側の用意は出来ています。どうぞ即刻通告してください」
 と引導を渡した。そのとき、
「あなたのお望み通りに。ただし、ひとつ条件があります」
 とフェローズが交換条件を持ち出してきた。
「もしぼくの三言通告が欲しいなら、一晩だけぼくの相手をしてください、お願いします」 
 耳にするもおぞましい要求に、さすがのフィザも裏切られたような思いを禁じえなかった。この顛末をすぐにアミールに告げなければと思ったが、契約婚が聖典と唯一絶対主への冒涜罪になることを懸念して、三日先のS町での四人の再会までは連絡不能なのだ。いわば鉄壁のアリバイ作りにも似ていた。がために、アミールとディヤがD市のどこで三ヶ月間の同居生活を送っているものかも知らなかった。一瞬勤め先に電話しようかと俊巡したが、かろうじて思いとどまった。そんなことをしたら、事態がいっそうもつれるだけで、結局のところ、復縁のチャンスを逸してしまうだけだと悟ったからだ。
「卑怯だわ」
 フィザはさすがに腹に据えかねたように、語気荒く投げた。
「なんと言われても、ぼくはあなたとの短い再婚生活の想い出に、一夜の記念を持って帰りたいのです。それがあれば、悪妻ディヤとの今後の復縁生活も続けられそうな気がするんです」
「それはあなたの側の事情でしょう。私の気持ちはどうなりますの」
「胸のうちに秘めて黙っていれば済むことですよ。あなたなら、できるはずだ。それとも、このままぼくと暮らし続けますか。永劫に三言通告をもらえずに。願わくば、ぼくにはそのほうが都合がよいんだが。ぼくたちは、真の夫婦になれるのだから」
 フィザはあわてた。
「何をおっしゃるの。私は必ず、アミールのもとに戻ります。このまま、あなたとここで暮らし続けるわけにはいかないわ」
「それなら、たった一度の不貞です、一夜をぼくにください。並の夫にはできない熱く燃える夜をあなたに提供します」
 よくもいけしゃあしゃあと図々しくと、フィザは怒りが納まらなかった。控え目で優しいどころでない、とんだ食わせものだった。ぎりぎり最後の局面で、体を求めてくるとは。フィザは憤然と背を翻すと、二階に駆け上がった。

 煩悶の夜が続いた。一睡もできず、寝返りを打っては、思い悩み続けた。いったい、どうすればよいのだろう。絶体絶命の危機だった。部屋から一歩も出ずに何か名案はないかと頭を捻ったが、何一つ思い浮かばなかった。これまで甘い顔をして、付け入る隙与えたことが真に悔やまれた。家事はいっさい放棄していた。思えば、料理を褒められるうれしさにせっせと丹精込めた食事を作り続けたのが間違いの元だった。最初から、そういう意図の作戦に、ナイーヴな自分はまんまと引っかかったのだ。口惜しくて、涙が振り絞っても振り絞ってもあふれた。そうするうちにも、いたずらに時は過ぎていくばかりで、なんの解決案も見つからなかった。 
 いよいよS町での約束の期日が明日に迫った夜、寝室のドアが控え目にノックされた。無視し続けたが、ノックはきつつきが木に穴を掘るように根気よく鳴り通し、観念したようによろよろと起き上がると、震える手で錠を解いた。
 フェローズは盆に食事を運んできていた。
「食欲はありません」
 やつれた顔でフィザは盆を押し退けた。
「さっさと私をものにしたらいいじゃないの」
「あなたが苦しんでいるのを見るのはつらいのです。お願いだから、少しでも食べてください」
 とパンを千切って、ルーに浸してフィザの口に運ぼうとする。フィザは顔を背けた。その拍子に涙がつーっと目の縁から頬の脇にこぼれ落ちた。しばらく放心したように泣き続けたが、嗚咽を止めると、言った。
「もう一度確認させてください。私があなたのひと晩のお相手をすれば、必ず三言通告はもらえるのですね」
「間違いなくお約束します。あなたの貞節の明け渡しの代償として」
「承知しました。どうぞなんなりとお好きなようになさってください。今宵、私はあなたのものになります」
 フィザはその瞬間、長い布をくるくると剥ぐと、ブラウスと腰巻き姿になってベッドに横たわった。

 嫌々ながらの譲歩のはずだったが、フィザの体はフェローズの巧みな愛撫に火照り始めた。そんな自分の反応にあわてて抑えようとしても、ほとばしり出すものをこらえ切れず、うめきが洩れそうになるのを唇を噛んで必死に封じた。夫との交渉では一度も感じたことのない肉の喜びが奥深くから湧き上げてきて、いつしか我知らず細かく痙攣し始めていた。 
箍が外れたように、あえぎが洩れ出た。それから先は、自分がどうなったのかわからない、一度禁制を解かれた体は奔放に燃え上がった。気がつくと自分から男の体にしがみつき、あられもない声を挙げていた。フェローズは一夜しかない時間を無駄にすまいと、飽くことない性欲で責め果ててきた。
 いつしか夜が白みかけ、汗みどろになって髪を振り乱した情婦に変わり果てた自分がしわくちゃのシーツの波間に埋もれていた。

 フェローズはすでに目覚めていた。
 昨夜の烈しい情交のせいで、二人の関係は一夜にして変わってしまっていた。均衡が破れ、男と女になった今、羞恥と気まずさでフィザはフェローズに対する。体の奥に消えやらぬ澳が名残り、官能のうずきにまだ肌は火照っていた。
「三言めの通告が今、欲しいかね」
 フェローズが言った。
 フィザは今しばらく、夢見心地で熱い夜の名残りに浸っていたかったため、
「いえ、朝食後で結構よ」
 と物憂げに答えた。その拍子にフェローズの腕が伸びてきた。一夜だけのはずが、求めに応じてフィザはあっけなく体を開いていた。
 朝食を急いで作り、食卓に座るフェローズの前に給仕した。これが最後のご奉仕だ。もうまもなく、仮の第二夫との別れが訪れる。フェローズはわざともたもたしたそぶりで食べていたが、食べ終わると、洗面に立った。
 戻ってきた彼にタオルを渡す。目の合図で促され、食卓に向かい合って座る。
三言目が発されるまで、数分沈黙が漂った。二人の間に張られた緊張は弓弦をぎりぎり一杯絞ったように膨れていた。
「離婚」
 聞き取れるか取れないくらいの弱々しい小声だったが、ついに音が外気に乗った。フェローズはそのまま顔を上げなかった。その瞬間、フィザは涙をこぼしていた。その涙は果たして、喜びからなのか哀しみからなのか、フィザ自身にもわからなかった。三言目を下されることはもしかして、自分の中に目覚めた女は望んでいなかったのではあるまいか。
 とにもかくにも、フェローズに抱かれる選択を未来永劫に我が手で封じてしまったことになるのだ。
 そして、何食わぬ顔で自分は、第一夫のもとに戻っていく。無味乾燥な夫婦の毎日がまた始まる。性欲の捌け口の便所でしかない家政婦代わりの妻とは名ばかりの日々、子宮が初めて知った女の喜びにきゅうっと収縮し、うずきを伝えるのを静かに泣きながら、フィザは感じていた。

につづく)
ジャンル:
小説
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