インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

春雷5(中編小説)

2017-05-16 18:51:53 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
 
  五

 雪国・福井の凍てつく冬がまた巡ろうとしていた。渉より一足先に帰郷した香世は時を置かずして、新庄からの電話で集会に出席してくれるよう請われた。三カ月半という時間と距離を隔てたおかげで二人の間には男女間の関係を超えた友情がほのかに芽生えつつあった。男は「天狗」での醜態を詫びる丁寧な便りをよこしていたが、香世自身は、能面のように感情を表に表さずいつもク-ルに醒め切っている新庄の人間臭い一面を垣間覗かせられたような気にもなっていた。何より、新庄が日頃ない自棄酒を呷る羽目になった原因は自分にあるとの良心の呵責に駆られていた香世は、詫びなければならないのは寧ろ、自分の方だと内心密かに恥じ入ってもいた。
 今月号に香世は「娼婦B」というタイトルの掌編を発表していたが、この作品は予想以上に同人の好評を博した。男の肉を食い漁る女の本能的な生理を題材にした抽象的な作品だったが、香世は初めて他の同人に才能が注目されたのである。それはまた、渉との初体験を経て女にならなければ書けなかった作品でもあった。香世が密かなスリルを覚えたことには、今号には渉も「ガラスの檻の人魚姫」という詩を発表しており、香世の作品に優らずとも劣らず同人の賞賛を集めたことだった。渉は手紙で君に捧げる詩を今号宛てに書いたから読んでねと前もって伝えていたが、「ガラスの檻に純粋培養された儚く美しい人魚姫 誰一人手を触れることすらかなわない ガラスのうちの密閉された真空で くるくる無心に舞い続ける可憐な水中花」との冒頭で始まる詩は、渉らしい繊細な美意識に培われた官能的な詩だった。
 香世が予想だにしなかったことには、公民館を去り際、小走りに駆け寄ってきた藍が、
「今月号のあなたの作品、よかったわ」
 とお世辞ではない本心から洩らしつつ、
「あなたには散文の才能があるわ。歌と散文と形態が違っても、お互い書く道を目指していきましょうね」
 鼓舞するように放ったことだった。女二人の間にはようやく、同士としての友情が芽生えつつあった。藍の背後で、貢は多少きょとんとした表情でこれまでライバルと目されてきた二人の女性がなごやかな会話を交わすのを見守っていた。香世は、貢の口から「空色の宇宙船」の紅二点の女性は男性同人の人気を二分していると、以前からそれとなく洩らされていたのだった。
 香世はそのときほど同人会を続けていてよかったと思ったことはなかった。

 年の瀬、一足遅れで戻ってきた渉と再会を喜び合った香世は、四カ月の期間を置いて再び甘い恋人同士の日々を堪能し始めていた。
 年が明けての新年会もかねた集会に香世は絣のアンサンブルという着物姿で出席し、同人の注目を集めた。渉とは会が退けた後新年の初デ-トを楽しむ手はずになっていた。が、この日の会は、新庄の冒頭の新年の挨拶が投げかけた波紋に予期だにせぬ大混乱に陥った。「皆さん、明けましておめでとうございます。今年も各人のご健筆のほど陰ながらお祈り申し上げます。さて、我が同人会も四年目を迎え、当初の僕の意図するところは果たせたとの感慨で一杯です。新年にあたって、今後は個人誌的傾向の強い季刊誌を発刊したいとの意向の下に、誠に勝手ながら来月号をもって『空色の宇宙船』は廃刊させていただきたいと思います」
 簡潔にして要を得た、それだけに青天の霹靂としかいいようのない廃刊宣言に室内はざわざわと波立ち始めたともなく、新庄の発言の真意をめぐって喧々ごうごうたる争論の場に変わった。主宰者であることを笠に着た勝手な独断で「空色の宇宙船」を唐突に廃刊するなどあまりに無責任すぎるという意見が貢を中心に多数を占める一方で、肝心の新庄の意志は固く頑として耳を貸す気配がなかった。同誌の制作はこれまで新庄一人の肩にかかってきたため、制作者兼主宰者の彼が止めると言っている以上どうにもならぬことだった。藍がいれば、翻すとまではいかずとも再考させるくらいのところまで説得できたかもしれないが、今日のような大事なときに限って欠席していた。
「本誌を継続する意図の下に、皆さんが力を合わせて制作を続行していくことに関しては、いささかの異議もありません。僕自身『空色の宇宙船』には未練もありますし、皆さんが後は何とか受け継いでいってくれれば願ってもないことです。在住の同人が十一名いることを考えると、それはそんなに難しいことでないと思うのですけど」
 結局、達弁家の貢はいうまでもなく誰一人として新庄を翻意させることはかなわず、閉会となった。渉が新庄は一旦言い出したら聞かないと言っていたがまさしくその通り、新庄の頑固な意志の下の廃刊を覆させることはほぼ不可能に等しかったのである。
 「樹林」で待ち合わせた渉に開口一番、今日の混乱を極めた集会のことを洩らすと、
「新庄らしいな。あいつが止めると言っている以上、どうにもならないよ。皆、今まで新庄一人に拠りかかりすぎたんだよ。これから少し自立心をもってやっていくいい機会じゃないかな。在住の誰かが中心となって制作を続けていけば、継続は可能だろう」
 渉は格別驚いているふうもなく平静な顔でのたまうのだった。
「あいつが爆弾落とすことには慣れてるからね」
 香世は一時期新庄のアパ-トでミニコミ誌作りを手伝ったことを思い出しながら、誰が引き継ぐにしろ容易な技ではないと漠然と感じ取っていた。
「ほんとは、ミッキ-辺りが引き継ぐと一番いいんだけどな」
 貢は新庄と渉の高校の後輩でもあり、新庄には特別に目をかけているような節があったのだ。
「尤も、彼は今受験勉強で大変なときだろうから。四月から地元の大学にでも入ってくれればいいけど、遠方となると、話は難しいな。須崎藍は他にも短歌クラブに入っているから、そんな余裕はないだろうし」
「藍さん、今日珍しく欠席していたのよ。こんな大事なときに限っていないんだから」
「大方、今頃恋人とお熱いデ-トの真っ最中じゃないかな」
 渉の意味する恋人を貢と早とちりした香世は、
「だって、ミッキ-はちゃんと出席してたわよ」
 異議を唱えた。
「君、須崎藍の恋人って、ほんとにミッキ-って思い込んでたの。藍はあんな坊やは相手にしないよ」
「じゃあ、一体、誰なのよ」
 香世がいぶかしげな目を向けると、渉はさも当然といった面持ちで明かした。
「短歌クラブの主宰者だよ。藍の高校時代の恩師でね、妻子ある男、つまりれっきとした不倫……」
 香世は絶句した。
「藍に愛人がいることは、同人会では半ば公然の秘密だよ」
 ミッキ-はそんなことは一言も自分に洩らさなかった。自信満々の早熟な高校生にとってはプライドを傷つけられるような事実で、屈辱心から口にできなかったのだろうか。呆気にとられたふうの香世のさらに意表をつくように渉は、
「藍って、いい女だよね。昔、僕もちょっとだけ入れ込んだことがあるんだ」
 と香世の目を剥くような秘密をこっそり暴露した。
「恐い顔して睨むなよ。あくまでプラトニック、藍は売約済みだから、こちとらの男性同人は鼻にも引っかけんという感じだったよ。新庄には多少気があったみたいだけど、あいつは藍派というより香世派だから」
 貢は新庄のかつての意中の女性が藍だったのではないかとの疑惑をそれとなく洩らしていたが、どちらが想っていたにしろ、新庄と藍という組み合わせは香世にはちっとも不自然でないように思われた。

 貢から電話がかかってきたのはそれから一週間と経たない頃だった。切迫した声で逢いたいと告げる貢に香世は何か抜き刺しならぬ事態が起きたらしいと、とっさにうなずいていた。
 いつものように貢の気に入りの喫茶店「寛山」に入っていくと、隅の席に頭を抱えて悄然とうなだれた風情の貢が坐っていた。不精髭がうっすら浮いて頬がげっそりこけた土気色に憔悴した顔を目の当たりにした途端、香世は発作的な杞憂に駆られるまま問うていた。
「何かあったの」
 貢は生気のない目でちらりと上目遣いに香世を一瞥すると、
「藍が、駆け落ちしたんや」
 放心したようにぽつんと放った。香世が受けた衝撃はさすがに大きかった。
「駆け落ちって、あの短歌クラブの恩師と?」
 香世が上ずった声で尋ねると、貢はちょっと驚いたように目を剥いて、
「何だ、あなた、知ってたんか」
 拍子抜けしたように投げた。
「それで、どこへ?」
「与論島」
「与論島って、あの鹿児島の南の島?」
「ん」
「どうしてわかったのよ」
「二日前向こうから年賀状が届いたんや。住所は書かれてなかったけど、消印が与論になってた……」
 それにしても藍も思い切ったことをしたものだと香世が圧倒されて声を呑んでいると、香世の驚きをさらに上塗りするような衝撃的な事実を貢が暴露した。
「藍、男の子ども身ごもってるんや」
 香世は何と言って貢を慰めていいものかわからなかった。
「藍にとって、僕は単なる隠蓑でしかなかったんや。本命はあの男で、でもあいつには妻子がいるから、あたかも僕と恋人同士のように見せかけてカモフラ-ジュしてたんや」
「何とも想ってない人のこと、歌に詠んだりしないわよ」
 香世はかろうじて貢を慰めた。それから、
「藍さんとは肉体関係があったの」
 辺りをはばかるような声で問うた。貢は哀しそうに睫を伏せてゆっくりとかぶりを振った。
「僕が若すぎたということなんやろか。求めても、藍は許してくれんかった……」
 その刹那、貢の瞳からすう-っと透明な涙が一粒糸を引いてこぼれ落ちた。貢は幼い高校生の顔に戻ってくしゃくしゃに顔を歪めて泣いた。香世はすかさずハンカチを差し出しながら、姉のような存在の香世の前で安心してひとしきり涙を振り絞る貢を愛情のこもった眼差しで心配げに見守っていた。

 「空色の宇宙船」のお別れ会もかねた最後の集会が公民館で盛大に催されることになった。その日は東北方面の遠方からも同人が駆けつけ、二十名近い仲間が集まるという盛況ぶりだった。渉も今日は特別ということで出席していた。須崎藍が駆け落ちしたとの噂は既に同人間に矢のように広まっていた。奇しくも、藍は最終号となる本誌に、
「妻子捨て 一緒になろうと 言う汝(なれ)と 手に手を取って 与論道行き」
 という歌を寄せていた。香世は藍の情熱が奔るような歌に同性としての共感を覚えていた。藍はやはり、自分より一歩も二歩も先んじている才能にあふれた、しかも女としても愛らしく熱情的な天性の恋女かつ歌姫だった。
 帰京の三日前、香世は新庄に呼び出された。これが最後の会合になるだろうと漠とした予感に打たれた香世は、躊躇することなく男の誘いを受け入れた。
「今後は、僕の個人誌という形になりますけど、年四回、『北國幻夜』という季刊誌を出していこうと思っているんです。賢治にとっての北國は岩手だけど、僕にとっての北國は福井なんですね。僕は十二歳のとき茨城からこっちに引っ越してきたもんで根っからの福井人じゃないんですけど、僕にとって雪国・福井のイメ-ジはあくまで北國なんです」
 新庄はいつものように訥弁で一つ一つ言葉を噛み砕きながら述べた。新庄の出生を今始めて知った香世は、男に福井弁の訛りがなかった理由がようやく呑み込めていた。
 会話は依然滞りがちで、思うように流れなかった。が、香世は男と沈黙を保ったままでいることに以前ほどにも苦痛を覚えなくなっていた。
 男が最後に沈黙を破って放った一言は、後々までも香世の胸に克明に刻みつけられるような印象を残した。
「あなたも福井に帰ってきて、雪の下に定住すれば、きっと書くものが変わりますよ」

   *   *   *

 早いものであれから一年以上の歳月が流れようとしていた。晴れて卒業証書を手にし、社会人として巣立つ春を期待と不安こもごも待ちわびていた某日、香世は思いがけない訪問者の到来を受けた。新庄篤史だった。男は香世の東京の住所を頼りに番地をあたって現地までたどり着いたものらしかった。香世は半ば唖然と、渉が以前言った「あいつが爆弾落とすことには慣れてるから」との言葉を思い出さずにはいられなかった。全く自分の意表をつくような青天の霹靂の来訪だった。
 せっかく訪ねてくれた男を無下に追い返すわけにもいかず、香世はとるものもとりあえず中に招待した。
 六畳一間の部屋でお茶の載ったテ-ブルを挟んで二人は向かい合った。
「仕事で上京する機会があったもんですから。迷惑かなと思ったんだけど、あなたの暮らすアパ-トを覗いてみたくなって……」
 男は吃りがちの緊張した口調で弁解した。
「『北國幻夜』、受け取りました。有難う」
 香世はこの機を逃さずすかさず礼を述べた。この一年ほど新庄はこまめに個人誌を送ってくれており、その数は既に三冊に達していた。香世は新庄が創刊した「北國幻夜」が以前とは内容も装丁も変わってしまったことに軽い戸惑いを覚えながら、賢治色のより濃くなった中味に目を止め、新庄の折々の季節感にあふれた詩を堪能していた。添えられた便りから、貢が近県のS大学に受かり彦根に移動したことや、藍が元気な男の子を出産したことなど、同人が各自の道を歩み始めていることも報されていた。
 きまりの悪い沈黙がひととき二人の間に漂う。男は一年という歳月を隔てて向かい合ったぎこちなさを取り繕うように室内にぐるりと視線を回して、香世の部屋の隅を占拠している本棚に目を止めた。
「私の部屋って、本の他は何もないでしょう」
 めざとく男の視線の行方を読み取った香世ははにかみながら言った。
「いえ、あなたらしい部屋です」
 それから、香世は改まった口調で報告した。
「私、四月から、タウン誌を出してる小さな出版社なんですけど、就職することになりました」
 男は軽い驚きに目を見張りつつとっさに祝辞を述べた。
「そうですか。それはよかった。おめでとう」
 しばしの間を置いた後で、男が口ごもりながら添えた。
「僕はまたてっきり、あなたが卒業と同時に結婚するものとばかり思い込んでいました」
 再び沈黙が流れる。だしぬけに静寂を覆すような明るい声で男が放った。
「日向はいい奴です……」
 不意打ちをつかれた香世は、息を呑むばかりだった。昨冬以来渉は「どうもあいつ、薄々勘づいているんじゃないかと思うんだ」との危惧を密かに洩らし続けていたが、その杞憂は当たっていたわけだった。新庄は全て察していた。全て承知の上であえて道化役を演じていたのである。
「日向の『ガラスの檻の人魚姫』という詩を読んだとき、あいつがいかにあなたを理解しているか、そして、僕に優るとも劣らない強い愛情をあなたに抱いているかを否応なく悟りました」
 固唾を飲んでいる香世に男は、
「ガラスの檻に純粋培養された儚く美しい人魚姫、誰一人手を触れることすらかなわない ガラスのうちに密閉された真空で くるくる無心に舞い続ける可憐な水中花」
 渉の詩の冒頭を暗唱するように静かな声でたどった後、
「あなたの脆さ、壊れやすさ、繊細なガラスのような神経……日向はよく理解していると思いました。あいつならあなたを守っていける。僕は、あなたの相手が東京の男でなかったことに感謝すらしてるんです。東京の男に奪られたと思うと悔しくて眠れなかったけど、日向なら、日向なら辛いけど許せる」
 香世の瞳からその拍子にぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「ごめんなさい、私……」
 後は声にならなかった。男がこれだけのことを面と向かって香世に冷静に言えるようになるまでには内心深い葛藤があったに相違なく、一年以上の歳月を要したことは容易に察せられた。信頼していた親友によりにもよって自分の想い女(びと)を略奪されたと知ったとき、どのように深い衝撃と懊悩が男の脳裏を走ったろう。そして今試練を乗り越えて、堂々と香世と視線を逸らすことなく直面している。香世は男の勇気に改めて深い敬意を覚えた。男への敬意の気持ちには今も変わることなく、常に人より一歩先んじている新庄の先見の明には一目置くような敬慕の念を抱き続けてきた香世でもあった。が、その敬慕を恋とはき違えた自分の幼さが皮肉にも、男を傷つけてしまったこともまたこれ嘘偽りのない事実だった。
 その刹那、雷鳴が窓の外に威嚇するように轟き渡った。稲妻の閃く雷天からざ-っと地を鞭打って驟雨がなだれ落ち始めていた。
 湯飲み茶碗はとうに空になっていた。新たにお茶を沸かそうとキッチンに立った香世を制すように、
「もう構わないでください。僕、そろそろ行きますから」
 男が立ち上がった。雨はまだ降り続いていた。香世は無防備に剥き出しの頭のまま雨中に駆け出そうとする男に赤い傘を差し出した。
「どうぞ持っていってください。まだ予備はありますから」
 返却不要を暗黙の了解の下に香世は押しつけるように渡した。
「有難う」
 男は香世の好意を素直に受けて赤い傘を差すと、背を向けて歩き出した。その刹那、また雷鳴が轟いた。香世はそれを春の到来を告げる谺のように聞いていた。地を打って昇る雨の蒸れた匂いに紛れもない春の気配が立ち込めているように感ぜられた。
 赤い傘を差した男の背が豆粒のように小さくなって消えてしまうまで、香世はその場に立ち尽くして男を見送り続けた。

                                       了


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