インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

祭のない原野へ5(中編小説)

2017-04-28 19:21:31 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)

  プロローグ

「うーむ、よく書けているよ」
 有沢陶は折原夏那が初めて書いた小説を喫茶店のテーブルの上にバタンと投げ出すと、感嘆したような呟きを洩らした。
「題がいいな。“祭のない原野へ”、か……。ヒロインがさしたる必然性もなく、若い男に抱かれてしまうこの最後の下りなんか、実に臨場感に溢れている、まるでついこの間の君自身の体験のように……」
 夏那はさすがにぎくりと身の縮む思いで、目を逸らす。名前も設定も変えてあるが、つい数ヶ月前の雑誌創刊にまつわる一連の出来事を下敷きにしていることはいうまでもなく、有沢は無論、高平数馬との関係も如実に作品に反映されていた。夏那は、男の鋭い批評眼にかかって何もかも見透かされてしまうリスクを冒してでも、この処女作をなんとしてでも彼に読んでもらいたかったのである。その無防備な賭けがどのような災いをもたらすかも無頓着に……。有沢のたっての薦めで、夏那はインドに発つ前、この作品を文芸誌に投稿してみることに決めた。
「ひょっとして、予選を通過するかもしれんぞ」
 予想外の好評に有頂天でいた夏那はうかつにも、男の異変を見逃していた。居酒屋に河岸変えし、男がむっつり不機嫌に押し黙ったまま急ピッチで冷酒をあおる段になって、ようやく只事でない気配を嗅ぎつけた。
「一体、どうしたの」
 恐る恐る伺う夏那に、男は黙したまま答えない。
「呑み過ぎよ、いい加減にして」
 声に自然と怯えが混じる。こんな有沢は初めて見る気がした。日頃温厚な男の顔が不穏に歪み、躯全体から荒んだ空気が漂っている。

 マンションに戻る途上の車中でも、有沢は腕組みし押し黙ったままだった。以前家庭的温かさを漂わせていた2LDKの部屋は男の一人所帯で散らかり放題、飼い猫の姿もどこにも見当たらなかった。男はよろよろと千鳥足でキッチンから一升瓶を取り出してくると、夏那が止めるの聞かず、らっぱ呑みし始めた。
「お願いだから、無茶な呑み方はやめて」
 夏那は涙声になりながら、無理強いに酒瓶を横取りしようとした。その拍子に、抗って取り戻そうとする男との間で揉み合いになり、猛々しい力で腕をはたかれた。それが発端となったごとく、それまで歯止めとなって持ちこたえていた男の感情のたがが外れてしまったかのようだった。
 夏那が目前に見たものは、いつもの温厚な中年男と打って変わって、嫉妬を剥き出しにした、世にも恐ろしい般若の面相だった。怒りでどす黒く膨れ上がった顔は眉間に亀裂が走り、醜悪に歪み切っていた。
「おのれーっ、よくも、よくも!」
 怨念のこもった恨み言が剥き出しの歯の隙から放たれたともなく、
「この俺様を騙そうたって、そうはいかんのだよ」
 狂おしい猛り声が喚かれ、ワンピースがびりびりに引き裂かれた。別人のように豹変した男に夏那の顔は恐怖のあまり引き攣って、神経が麻痺したように手足がびくとも動かなかった。有沢の分厚い手が情け容赦なく、自分の頬といわず、剥き出しの肩といわず、めった打ちにし、本能的に殺されるかもしれないとぞっとするような戦慄におののいた瞬間、感極まった嗚咽がほとばしり出た。身も世もなくおいおいと幼女のように泣きじゃくる夏那の声の合間から、救いを求めるように若い恋人の名が幾たりとなく放たれる。それが、男の怒りにさらなる油を注いだことはいうまでもなかった。
 隙をついて、命からがら室外に逃げ出した夏那を、男が執念じみた亡者よろしく追ってくる。路地の中途で捕えられ、またしても殴打の餌食となって身動きの叶わぬ夏那の鼓膜にその刹那、救いのようにまがまがしいサイレン音が鳴り渡った。どうやら通行人が通報したらしかった。警官二人が半狂乱になっている男を捕まえ、手錠をかけるのを夏那は泣き濡れた瞳でぼんやり見上げていた。大丈夫ですかと気遣う警官に毛布でくるまれた後、事情聴取に男とパトカーに同乗して署まで引いていかれた。
 後刻、自室まで送り帰された夏那はとっさに、裂けた衣服の上にコートを引っ掛けただけで部屋を飛び出すと、一目散に夜道を駆け出していた。動転のあまり、自分がどこをどう走っているのかもわからなかった。十分後、目と鼻の先に見慣れた安モルタルのアパートが見えてきた。
 亡霊のように青ざめた面持ちで入り口に佇んだ女を見て、数馬はいっぺんに眠気が覚めたようだった。時計は午前三時を回っていた。夏那は、若い恋人の顔を目の当たりにした途端、安堵感から一時に緊張が解けて、その場にへなへなとへたり込んでしまった。
 息を切らしている口元にすかさず、コップの水が含まされる。それから、コートを脱がせられた途端、数馬はなんとも奇妙な長い呻き声を洩らした。
「誰がやったんだ、あいつ、か」
 夏那は黙したまま答えない。数馬は怒りも露わな面持ちで、千々に引き裂かれたきれの下に内出血して膨れ上がった青黒い痣や、鮮血を滲ませている生傷を逐一点検していく。        
 畳の上に寝かせられた夏那は一糸纏わぬ素裸にされ、傷口をひとつひとつ丹念に消毒された。染み入る痛みに呻きを洩らす夏那の頭髪は、若い男の愛情に満ちた温かな掌でやさしく撫でさすられる。
「もう大丈夫だから、安心しなよ」
 夏那は依然としてショックのあまり一言も口がきけず、畳の上に傷つき打ちひしがれた小動物のように横たわり、手当てをされるがままになっていた。不思議に涙は一滴も出なかった。神経の一本がまるで、緩んでどこかに飛んでしまったかのようだった。
「元気出しなよ、ぼくが飛び切りおいしいカレー、作ってやるから……」
 その言葉に、麻痺していた神経がようやく目覚め、安心感から固く閉じ切っていた涙腺が一挙に緩み、幼な子のように号泣した。
 長い時間が経ったような気がした。外は既に白みかけていた。茶色い畳の上に男物のパジャマ姿でぐったり横たわっていた夏那の鼻孔に、かぐわしい香辛料のつんと突く刺激臭が漂い流れてきた。
 促されて起き上がると、ちゃぶ台の上に、数馬特製のカレーライスが二皿分、いい匂いを立てながら並んでいた。
「香辛料をたっぷり使った、本場のカレーだよ」
 数馬はインドという形容を微妙に避けながら、得意気に放った。痛む躯に眉を顰めながら、夏那は数馬がスプーンで掬って差し出すルーの垂れたご飯粒を子供のように頬張った。喉元に押し込んで、ぐっと込み上げるものがあった。若い恋人の思いやり、何気ない気遣いが身にしみた。
「中近東の匂いがする……」
 夏那もインドという言葉はあえて避けて、自らを奮い立たせるように茶目っ気たっぷりに返した。その刹那、身のうちに異変が生じた。腿の間を生温かい液体が伝って流れ落ちていく……。
 食後、ひとつ蒲団にくるまって眠りながら、若い恋人がもどかしげに投げた。
「二十五歳の正常な男がね、女とひとつ床に寝て何もできないって、ほんとつらいことなんだぜ」
 夏那は、若い欲求に応えられない、差し障りのある我が身をすまなく思った。

 昼過ぎ、まだ寝入っている数馬を起こさないようにそうっと部屋を抜け出した夏那は、アパートへと戻る道すがら、訳のわからぬ衝動に突き動かされて公衆電話ボックスに飛び込んでいた。
 すぐさま本人が出た。無言でいる相手が誰かとっさに察したようで、
「すまなかった……」
 と開口一番、詫びた。もういつもの男に戻っていた。
「インド行きを早めよう。今月末には、日本脱出だ」
 性急に畳み掛けるように宣告される。夏那は即座に返事ができずにいた。
「付いてくるだろう」
 夏那はやはり、押し黙ったままだ。送話器口から、突如、大の男に似つかわしくなく、おいおい号泣する声が洩れ始めた。
「君とのことは、これが最後の恋とも思っている。俺は、この恋に賭けたんだ。頼むから、今回のあやまちを許し、もう一度だけ、俺にチャンスをくれないか。君を何としてでも、カナダに連れていきたいんだ」
 男が涙に詰まった、途切れ途切れの声で懇願した。声帯がようやっと、動いた。
「カナダに行くかどうかははわからない。でも、インドには連れてってほしいの。あなたじゃなきゃダメなの、あなた以外のほかの男ではダメなのよ」
 夏那は喉の奥からかろうじて振り絞る声で我知らず、憑かれたように訴えていた。男が何か言ったようだが、耳に入らなかった。夏那はゆっくりと受話器をかけた。
 目を覚まして傍らに女がいないと知ったとき、数馬はどう思うだろうか。が、彼にはわかっていたはずだ。とどのつまりは、自分が饗庭と共にインドに発ってしまうことを……。それはどんなにしても避けられない運命なのだ。待つのが数馬の宿命であるのと同時に……。数馬は待っていてくれるだろ う。蓼科の山荘で、忠実に三つ年上の恋人の帰りを。“三ヶ月、三ヶ月したら、必ずあなたの元に戻るから……”。夏那は、自らの胸のうちに何度も言い聞かせるように呟いた。


 十日後、夏那は有沢とともに機上の人となった。遙か下方に遠ざかっていく空港を見下ろしながら夏那は、今頃あの高円寺の安アパートでダンボール三箱分に納まるわずかな荷物をパックし、S観光開発保養荘宛てに住所をマジックで書き入れているだろう数馬にぼんやり思いを馳せた。今まさにこの時間、がらんとした寒々しい空き部屋の窓を開けて、上空を仰いでいるかもしれない若い恋人の顔を……。夏那を魅了したあの遠い瞳は今この瞬間(とき)にも異界へと外れ、漠と虚空を彷徨っているにちがいなかった。

                                        了

自作解説(一部)はこちら。

一部とがらりと趣を変えて主人公の男女が匿名で登場する二部インド編はこちら。
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小説
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