インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

聖娼婦1(2013年度銀華賞佳作作品)

2017-02-16 18:03:38 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
 聖娼婦

                                 李耶シャンカール

   一

 今日は朱実さんの誕生日である。渋谷駅の構内で薄紫の薔薇の花束を買い求めた馨は、今まさに発車せんとする桜木町行きの急行電車に慌てて飛び乗る。
 昨夜、「金壺」の客が五人も入れば一杯になってしまいそうな狭い店内で朱実さんが、女将名物の肉うどんをおいしそうに啜りながら、湯気で曇る丸ぽちゃの顔を皺くちゃに綻ばせながら、「あのねぇ、明日はうちの誕生日なんよーっ」と、上目遣いに媚びるような目で洩らしたことを思い出す。耳の下で短く切り揃えたおかっぱ頭の赤っ茶けた髪と、人懐っこい目にだんごっ鼻という愛嬌ある童顔は一見、朱実さんを年よりもずっと若く見せていたが、毛穴の開き切った肉のたるみは厚化粧の下に塗り込めてもどう隠しようもなかった。衣服の上からも崩れた体の線が露わに窺え、その種の職業にありがちの退廃ムードをそこはかとなく漂わせているのだった。
 朱実さんには一回りも年下のやくざのヒモがついているのである。その年若い情夫を食わせるために夜毎、赤や紫のネオンがけばけばしい伊勢崎町の歓楽街の裏路地に立って客を引いているのだ。
 --あんた、信じられんかもしれんけど、うち、これでも、二十年前までは真っ当なOLやってたんよーっ。朱実さんのちょっと鼻にかかった拗ねたような声が鼓膜に蘇る。昔は堅気のOLだった朱実さんが何で、春をひさぐ商売に転落したのか、詳しいいきさつはわからない。大方、惚れた男が悪い奴でころりと騙されたあたりがいいとこだろう。人のいい朱実さんにはちょっとやさしい言葉をかけられるとふらりとなびいてしまう弱さがあったし、男好きのする愛嬌のある顔立ちと豊満な肉体、何よりも天性に備わった媚は哀しいことに、OLよりもその種の職業に打ってつけだった。いってみれば、ヤクザが、朱実さんのような田舎のぽっと出の小娘を引っ掛けるのは、赤子の手をひねるよりもた易いことだったろう。

 関内駅裏の雑居ビルにあるK企画に顔を出すと、いつも笑顔で迎えてくれるはずの編集社員、相馬俊の姿は見当たらず、急ぎの取材が入って出ているとのことだった。編集長についたての後ろの小さな応接間へ通された馨は、依頼された四ページ物の原稿を手渡した。昨日相馬にチェックされて二、三直しの入った原稿を直前までかかって仕上げたものだったが、今度はどうやらOKサインをもらった馨は、ほっと肩の荷を下ろした。しばらく相馬の帰りを待つともなく待ちわびていたが、いっこうに戻りそうにないので、社を出た。既に辺りは薄暗くなっていた。一瞬どうしようかと迷ったが、掌中の花束に鼓舞されるように単身「金壺」へ向かった。相馬なしでこの店を訪れるのはこれが初めてのことだった。
 伊勢崎町モールを抜けて路地を折れた角にあるトタン屋根のボロっちい店は、表通りからは人目につきにくい、死角になった場所にひっそりと隠れるようにして建っていた。この界隈には食べ物屋らしい食べ物屋はなく、閑散とした裏通りにL字型の引き戸からうっすら灯りの洩れ出る店は淡いシルエットになって浮かび上がっていた。
 赤提灯が軒にぶら下がり、暖簾には申し訳程度にうどん、そばと描いてあるだけなので、客の大概は一杯飲み屋と勘違いするが、実はれっきとした手打ち麺の食堂なのである。通の間では女将手製の肉うどんがもっぱらうまいとの評判で、地元名物にもなっていた。「金壺」では、一杯飲み屋と勘違いする客が多いので、いつしか成り行きで酒も出すようになったという。
 L字型のカウンターには中のパンヤが破けて食み出したビニール革張りの丸椅子が五つ、客が五人も入れば人いきれで一杯になってしまうような小さな店はいつも満杯で、女将名物の熱い肉うどんをフーフー啜りながら、冷やで日本酒をくいっと一気に呷るむさくるしい労務者風情の客筋で溢れ返っていた。ところで、この女将自慢のうどんに冷や酒というのが実にまたよく合うのである。
 暖簾をくぐると、
「うぉーい、いらっしゃーい」
 でっぷりと肥えて貫禄満点の女将の男のようながらがら声が飛んできた。親父は対照的に痩せてひょろ長く、まさに蚤の夫婦の好一対を成していた。親父ときたら決まって、がらがら声を張り上げるやたら威勢のいい女将のそばで畏まったように小さくなっている。女将と常連客の間にポンポン飛び交うやりとりを、傍らで手際よくうどんを茹でながら、物静かな微笑とともに見守っているのである。女将のきっぷのよさよりも、この親父の菩薩のような人柄に惹かれてここへ通う常連も決して少なくない。女将に主導権を握らせておいて、その実、掌中で遊ばせているのは親父だというのが、親父ファンのもっぱらの言い分だった。
「あれ、今夜は一人かい、相馬ちゃんは?」
「急ぎの取材が入ったとかで出ていたの」
 相馬が女将の誰よりも気に入りの常連であることを承知していた馨は、申し訳なさそうに告げた。女将は見るからに落胆した顔つきになったが、気を取り直したように馨を歓迎した。
 店は既に満席だったが、何とか脇に詰めてもらって女一人が辛うじて坐れるだけの隙間を作ってくれた。男たちに挟まれるようにして腰掛けた馨は、カウンター内の厨房の隅で仕事前の腹ごなしをしている朱実さんをめざとく見つける。馨の視線に気づいた朱実さんは、うどんの湯気の中から真っ赤な丸顔を起こすと、にんまりと笑った。馨はこの機を逃さず、すかさず後ろ手に隠し持った花束を差し出していた。
「お誕生日、おめでとう!」
 湯気で赤らんだ朱実さんの顔が不意打ちをつかれたようにたじろいだ。
「これをうちに? んまぁっ」
 感激のあまり、二の句が告げないようだった。大きな目が潤み、鼻の頭が真っ赤になっている。馨はさすがに照れ臭くなった。まさか花束一つでここまで喜んでもらえるとは予想だにしなかった。朱実さんはきっともう長いこと、こんな風に他人(ひと)から親切にされることに慣れていないにちがいなかった。それでいきなり降ってきた善意に気がすっかり動転しちまっている。
「うち、うち、薔薇の花束なんて、もらったん、初めてよ。それもこんなきれいな薄紫のバラ……」
 小さな店はいつのまにか、朱実さん主役の誕生劇の舞台と化している。相席していた客が口々に祝福の言葉を述べ、朱実さんにまぁ、一杯と酒を勧める。男たちは皆朱実さんの職業を熟知しており、中には恐らく買った者もいたにちがいなかった。にもかかわらず、見下したりする者は一人もなく、対等な客として扱い、心から純粋な気持ちで祝辞を述べていた。朱実さんの目はもう真っ赤で、貰い泣きする馨のうどんも、涙が混じったせいか心なしかしょっぱかった。
「今日は、いい日だな。うちのような女にもまだこんな日が残されていたなんて、夢のようだよ。うち、子供の頃から、誕生祝いなんて、一度もしてもらったことがなかったけん」
 小倉生まれという朱実さんの語尾にお国訛りが混じる。馨は子供の頃、大勢の家族や友人に囲まれた誕生パーティーでちょっぴり恥ずかしく得意げな気分で蝋燭の火を吹き消したことを思い出しながら、子供の誕生祝いをしない家庭とはどんなものだろうと、漠然と思いを馳せずにはいられなかった。
 朱実さんはやがて空席になった馨の隣に豊満な腰をどかりと下ろすと、酔って呂律の回らなくなった舌で、ポツリポツリと独りごちるように身の上話を始めた。
「うちは、貧しい左官屋の子だくさんの家庭に育ったけん。父ちゃんは酒乱で、ろくに稼ぎもないくせに毎晩大酒食らって、母ちゃんを撲った。母ちゃんも気ぃ強かったからね、そりゃあ、あんた、負けてえんよ。夫婦喧嘩の一夜明けた後は、まるで嵐が一過した後のような惨々たる有様。一度なんか、あんた、かっと頭に血が昇った母ちゃんが父ちゃんの脳天めがけて裁縫挟み振り下ろし、十針も縫う大怪我させたこともあったけん。十歳かそこらの少女だった私や弟がぎゃあぎゃあ泣き喚いてる面前でよ、あんた。父ちゃんの頭からどーっと真っ赤な血が噴き上げ、そりゃあ、もう修羅場もいいとこ。毎晩毎晩、そんな地獄を見せつけられているうちに、神経が麻痺しちまったというか、なぁんにも感じなくなっちまってね。とにかく、私の頭は、一刻も早くこの家庭の泥沼から抜け出すことしかなかった」
 いつしか店中の客がしーんと水を打ったように静まり返り、朱実さんの語る身の上話に耳を傾けている。
「中学を卒業すると同時に、すぐ上京したんよ。パチンコ屋や喫茶店やら、住み込みのバイト雇ってるとこ転々としてるうちに、不動産屋の事務員として働かないかとの甘い男の口車に乗せられて……。深夜喫茶で暇を持て余したようにたむろしてるごろつきの常連だったんよ。甘ったるい言葉かけられて、これまで男の人にそんな風にやさしくしてもらったことは一度もなかったけん、ついころりと騙されちまって。けだもののように荒れ狂う父ちゃん見てて、男ってのは恐いもんだってのが頭の芯まで染みついてたから、男ってこんなにやさしいもんだったのかって、目を見開かされるような思い……。ところが、一旦うちの体をものにしてしまうや、男は次第に本性を露わにし始めた。ヒモ同然にたかり、稼ぎが少ないと言っては、撲る、蹴るの乱暴を働く。挙げ句の果てに、うちに売春まで強要して。ヤクザの下っ端だったんよ。不動産屋も兄貴分が経営してるもんだった」
 朱実さんはそこで、隣客が自前のボトルから注いでくれた焼酎のコップを見事な飲みっぷりで一気に乾すと、さらに続けた。
「何度も逃げようとしたけど、薬漬けにされ男の体なしではいられんようにされ……。覚醒剤打ってあれやると、精力的にも長続きするし興奮が高ぶって普段の何倍も気持ちいいんよ。ヤクと男を欲しがって肉の隅々まで疼いてね。あの当時はほんと、ヤク漬けの体で毎晩何人もの客をとらされ、ピンハネされ、逃げようとしてはまた連れ戻され、見せしめにヤクをストップされ禁断症状にもがき苦しむという、悪夢のような日々の繰り返しだった」
 朱実さんの目が据わり、ぞっとするような凄惨な色合いを帯びている。
「不幸中の幸いというか、うちにぞっこん惚れ込んだお客さんの一人が、そんな状況を見かねて救いの手を差し伸べてくれてね。身請けというのか、組に大枚払ってうちの身柄を引き受けてくれたんよ。彼のおかげで、うちはようやっと薬漬けの売春地獄から這い上がることができたってわけ。結婚しようって、言ってくれてさ、うちにも、ああ、これでやっと平凡な主婦としての幸福が味わえるかと小踊りしたのも束の間、幸せはそう長く続かなかった。長年の不節操が祟って、うちの体は既に子供が産めんようになってたんよ。最初彼の子供を身籠もったと知ったときは、天にも昇る心地だったけど、結果は無惨にも、死産だった。次もその次も流れちまって……。過去に何度も中絶した報いで子宮がズタズタになってたんよ。夫は、子供一人すら満足に産めぬ元売春婦の体を汚らわしい目で退けると、夜の生活を拒絶するようになった。そのうち憂さを晴らすように外泊を繰り返すようになり、よそに作った女が身籠もったのをいいことに、うちは体よくぼろきれ同然に捨てられたってわけさ。その後は……総てが元の木阿弥だよ」
 小さな店の中にどうにもやり切れぬ重苦しい沈黙が流れる。朱実さんの胸の淵に澱(おり)のように澱んだ哀しみの堆積を思うと、馨にはどんな生半可な慰めの言葉も口にするのがためらわれた。
「うちね、この頃よく考えるんだけど、小説の主人公のように、何が起ころうとも決して動ぜず、冷静に一部始終を観察していられるようになれたらってしみじみ思うんだ」
 うらびれた場末の飲み屋で街娼が怪しげに舌を縺れさせながら締めくくった最後の一言は心底、馨の胸を打った。その言葉には紛れもなく、人生の真言ともいうべき意味が籠められていたからである。

につづく)


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