インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

祭のない原野へ・第二部4(中編小説)

2017-05-03 17:02:29 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
 
    四

 オリーブ色の実がたわわに成った椰子樹の葉陰に、翡翠色の海が燦めく。最南端を目と鼻の先に控えながら、二人は旅の疲れが一度にどっと噴き出たようにアラビア湾岸沿いの保養地、コヴァラムビーチから動けなくなってしまった。実際、ここは美しいところだった。             時節外れの浜には観光客の姿は殆どなく、浜辺に打ち上げられた茶色い椰子の殻が数個転がるのみで、閑散とした様相を呈していた。物売りの子供たちがしつこく女に纏いつき、やれ偽珊瑚のネックレスはどうだの、貝殻細工はどうだのと売りつけてくる。
 女は、ひと連なりの青いココナッツをぶら下げてやってきた行商を呼び止めると、鉈が勢いよく振り下ろされて豊潤な汁が滴り落ちる切り口からストローで啜りあげて、ほのかに甘いこくある果汁が舌を滑る感触に目を細める。汀に累々と繋がれた木舟の一艘では、ひと仕事終えた漁師が塩の噴いた木肌に背を凭せかけ、うとうとと気持ちよさそうにまどろんでいた。
 女は浜が尽きるまであてもなくぶらぶらと、時に波と戯れ、貝殻を拾い、そぞろ歩いていった。行き止まりに断崖がそそり立ち、てっぺんに白い灯台が陽を跳ねていた。坂道が螺旋を描きながら、岬の上まで伸びていた。
 行けども行けども、灯台は現れなかった。女は急に不安になった。辺りは鬱蒼とした椰子林に覆われ、視界がまるで効かない。出口の見えない迷路にはまり込んだかのようだった。海風に煽られた椰子の葉が巨大なひとでの触手のように蠢いて、葉先に女を搦めとろうとする。爪先がおぼつかなげに宙に浮いて落下すると、足下に小さな石段が降りていた。濃い磯の匂いが鼻を突いた。
 めくるめく陽光が溢れ、不意に躯が伸びやかな領域に放たれた。遮るものもなく広大に波打つ砂浜の中程に奇岩が吃立し、浅瀬に張り出した岩礁を起点に弧状の海岸線が二つ、両翼にゆるやかなカーブを描きながら開けていた。水平線は地球の外周そのものを思わせて、鶸(ひわ)色の海を縁取るようになだらかに彎曲している。
「ここは大変なところね。向こう側、をようやく見つけたわ。予期しない光景、とはああいうのを言うのかしら」
 女の息は弾んでいた。
「岬の上に灯台が光っていたの。ところが、昇っても昇っても、灯台は現れないのよ。椰子の葉が私を彼岸へと運んだのかしら。気がついたら、岩礁を起点に開ける荘厳な両の浜を前にひれ伏していた……」
 机にかじりついていた男の肩のリズムが崩れた。女の瞳は男の顔の上を擦り抜けて、遠い異次元の虚空へと彷徨い出している。

 未明、女は不思議な夢を見た。最南端をいよいよ目前に控えたある日、
 ――ねぇ、この浜の向こうに、ひなびた漁村があると、土地の子供が言っていたわ。行ってみましょうよ。
 と、男を誘い出している。
 浜に沿って黙々と歩き出した二人は、尽きたところで岬の上の灯台へと通じる螺旋階段を昇り詰めてゆく。が、迷宮に紛れ込んだかのように、二人の前にいつまでたっても肝心の灯台は現れない。風に煽られた椰子の葉が触手のように蠢いて二人の足を掬い、入り江へと揺り戻す。岩礁が波にやさしく洗われ、亜麻色の海草がゆらゆらと靡いている。入り江が尽きる岩肌に石段が急角度で迫り上がっていた。
 駆け上がると、不意に伸びやかな一本道に出た。椰子の葉葺きの家屋が軒を並べ、道端では健やかに海焼けした子どもたちが無邪気に飛び跳ねていた。軒下では、赤子をおぶった女が地べたにうずくまってのんびりと籠を編んでいる。
 ――まだ行くのかい。
 いつもの男の口癖である。
 ――せっかくここまで来たんですもの。尽きるところまで行ってみたいわ。
 ――おまえにはわからないだろうな、どこまで行っても同じということが……。
 道が途切れる崖の突端に忽然と、青い瓦屋根の瀟洒な洋館が現れた。色とりどりの花が咲き乱れる庭園は自然の恩寵、海そのものを真下に抱え、垂直に切り立った絶壁に怒濤が砕け散って白蓮に似た飛沫を弾けさせる。
 ――この家はまるで、宙に浮いているようね。一歩足を踏み出せば、踊り狂う海の底よ。     背後のヒンドゥテンプルから静寂を揺さぶるように、甲高い鐘の音が鳴り響く。朱(あけ)に染まった尖塔が男の眉間に血の慈雨を滴らせる。男の背は、黒い奈落を覗かせるアーチに吸い込まれていく。女は聖なる日没のひとしずくを押し戴いたともなく、後を追うようにアーチを潜った。
 薄暗い堂内には、ほのかに甘い香の匂いが立ち込めていた。落陽を折り込んだステンドグラスが七色に燦めく。急旋回しながら天井に伸びる階段に男の影が揺らめいた。が、追えども、追えども、男はついに正面きって姿を現わすことはなかった。いびつな後ろ姿が女の追跡を永遠に遠ざける。
 それはまたなんと思いがけない、予期しうべくもない光景だったろう。女は、男の姿を見失った場所で、紛れもない彼岸へと導かれていたのだった。
 彎曲した入り江の端から端まで、セピア色の木舟が累々と折り重なって、ゆるやかな放物線を描いている。それはあたかも、木彫りのネックレスのように浜に架かっていた。背後に控えた漁村から、夕餉のひととき、ゆるゆると淡い煙が流れ出し、上空にアイボリー色の靄を刷いている。住人はちょろちょろと蟻のように這い出し、家屋と家屋の合間を縫うように行き来している。
 集落は、椰子林がこんもりと生い茂る陸(おか)まで層を成して連なっていた。あの森の向こうには果たしてどのようにまた、予知すべくもない啓示に満ちた光景が隠されているのだろうか。女はわくわくした期待に胸逸らせながら、森に立ち込めた闇が徐々に漁村を暗紫色に浸していく情景に見とれていた。

                
 早朝一番のバスで浜を後にすると、昼過ぎにはもう最南端のカニャクマリに突入していた。
 バスから降りると、南国らしい一等明るい陽射しが降りかかり、ベンガル湾とアラビア海とインド洋の三海洋が合流する聖地は、のどかな港町のたたずまいを呈していた。オランダ領コロニーであった頃の名残りである赤い瓦屋根の洋館とコバルトブルーの海が鮮やかな対象を織りなして、ひなびた漁港らしからぬ洒落た情趣を醸している。
 二人とも、最南端に足を着けたという実感はとんとなかった。肩に食い込むザックをしょい直し、おぼつかなげな足取りで宿捜しを始める。安ホテルは駅の周辺に密集していたが、意に反して、当たるところはどこも満室で、すげなく追い返されてしまった。こんなことは長い旅程で、初めてだった。
「一体、どうなってんだ、この町は……」
「そういえば、バスの中はヒンドゥ教徒の信者で溢れ返っていたわね」
 膝の間にリュックを抱えるようにして行き暮れていると、痩せこけた貧相ななりをした少年がにっと人懐っこい笑みを浮かべながらにじり寄ってきた。安いホテルを斡旋するという。この手の客引きはあまり信用できないのだが、思い余った二人は、少年を信用して後に従ってみることにした。
 少年が案内したのは、バス停からさほど離れていない裏路地にひっそりと隠れるようにして建つ、二階建ての古ぼけたロッジだった。客室は鉄パイプのベッドを二つ並べたのみの簡素さだったが、シャワー室の水は問題なく出るようで、宿探しに食傷していた二人はここで妥協することにした。
 少年にチップを握らせていると、ホテル関係者と称する得体の知れない男が突然現れて、やれ観光はどうだの、土産を買わないかだの、口うるさいばかりである。退けて、客室係にビールを二本、オーダーする。
 内鍵をかけて邪魔者を閉め出した後、二人はたった一脚のみのペンキの剥げかかった木椅子をテーブル代わりに瓶を据え、ベッドの端に並んで腰掛けた。女が早速栓を抜くと、冷えの足りないビールは空け口から盛り上がってしゅうっと噴きこぼれた。
「おっと」
 思わず声をあげながら、男がすかさずグラスを瓶にくっつけて溢れ出した茶色い液体を掬い取る。女の口から笑いがこぼれる。男はそのまま瓶を引き摑むと、二つのグラスに慎重に注いだ。
「乾杯!」
 ほぼ日程通り三ヶ月弱にして最南端までこぎつけたハードな旅程を互いに労いながら、グラスを掛け合わせる。なみなみとつがれたグラスの縁から、泡が盛り上がって噴きこぼれそうになる。啜り上げて、女はようやく、最南端に足を着けたのだという実感が改めて、ひしひしと湧き上げてきた。
「信じられないわ、私たち、ついにやったのね」
「ああ。俺様にしちゃ、上出来だったとは思わないかい。何度もくじけそうになったけど、頑張った甲斐があったというもんだ。若い頃山で鳴らした体力、満更鈍ってもなかったらしい。あんたの足手まといになるんじゃないかと、密かに憂えてたんだが」
 途上幾度となく病気を患い、女を手こずらせた年長の相棒だったが、今となってはそれも懐かしい思い出だった。女は実際、やり遂げた男に対して賞賛を惜しまない気持ちだった。       「ほんとご苦労様でございました」
 照れから慇懃な口調で男を労いつつ、半分以上空けられたコップになみなみとビールを継ぎ足す。
 二人は晴れ晴れとした顔つきでグラスを乾し、椰子の葉にくるまれたカレー味のポテトフライをつまんだ。たちまち二本は空になり、室内ブザーを押して、さらに二本追加する。今度は、ようく冷えたやつと念を押して……。
 ビールが来るまでの間を利用して、男が急に改まった顔つきになると、告白めいた口調で切り出した。
「実は未明、不思議な夢を見てね。見遙かす限り銀色の雪野原を、俺とあんた、二人ぽっちが互いの躯を抱きかかえるようにしてよろよろと掻き分けていくという……ときどき、あんたのブーツがうず高く降り積もった雪の嵩にすぽりと埋まり、抜けなくなる。俺はそれを懸命に引っこ抜いてやりながら、二人してまた黙々と歩き始める。猛吹雪でまるで視界の効かない世界、をな」
 女はふっと、ちょうど同じ時間帯見ていた自分の夢を思い起こさずにはいられなかった。あの森の向こうに開けていたのはひょっとして、ブリザードの荒れ狂う原野、でもあったろうか。
「カナダのどこかに、そんな大雪原があるのかもしれんな」
 カナダ、我に返った女は喉元まで出かかった言葉を呑み込む。そうと意識せずして心のどこかで故意に避け通してきた話題を最終の目的地であからさまにされたようで、軽い戸惑いがあった。男の手が当然のように女の躯に伸びてくる。女は身をよじって、邪険に払いのけた。
「おまえ、このまま最後まで……」
 低く掠れるような呻きは、沈黙の奈落に呑まれてしまう。女は頑なに身を閉じたまま答えない。どれほどのときが過ぎたろうか。男はぎりぎりいっぱいに絞られた弓弦を解き放つように、意外に明るい突き抜けた声で言った。
「まぁ、いいさ。日本でやるのがしんどくなったら、いつでも来るがいい。カナダへは、あんたをゲストとして迎えよう。とっておきのゲスト、だ。あんたが好きになりそうなスコッチもある。氷河のかけらでオン・ザ・ロック、この醍醐味を一度でいいからあんたに味わわせてやりたいもんだよ」
 それは果たして、男の最大限の譲歩、でもあったろうか。珍しく気弱な笑みを浮かべている男に女はざわざわと心が揺れ動かないでもない。カナダは、女が男に体を開けなくなってこの方、とうに放棄した夢、であった。が、このように思いがけない言葉をかけられると、気持ちが烈しく揺れ動き、別天地の夢、がそろそろ頭を擡げてこないでもない。女は、そんな自分のあさましい、男を血の通った一個の人間、女を抱ける異性とも見ない、あえてそのことには目をつぶってでも意志を押し通そうとするおのれの我執に我ながら呆れ返るばかりである。
 要は、どこでもよいのである。国境を越えた向こう側、そこに何かがあるように思い、ひとえに焦がれているだけのことである。

につづく)
ジャンル:
小説
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