インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

再帰(カムバック)1(中編小説) 

2017-04-18 17:53:45 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
再帰(カムバック) 

                                  李耶シャンカール


   序章

 冬の寒風が吹き抜ける公園のベンチに座りながら、藤倉泰三は俺は六十七歳にもなって何をやっているのだろうかと、わが身のだらしなさがほとほと恨めしかった。宿無しの身分に落ちぶれて三ヶ月、週三日は旧知の高槻修治の門前仲町にあるマンションに居候していたが、毎日世話になるのはやはり気が引ける。高槻は六十代半ばになる今も独身だったため、同居家族への気兼ねは要らなかったが、週末恋人が通っており、鉢合わせすると気まずかった。
 九段下に事務所があったが、預金通帳から一千万円勝手に使い込みされた内妻の愛子と借金取りの追っ手を恐れ、ほとんど近づけなかった。様子を見に、一週間に一度そうっと夜遅く忍び込むのだが、わが事務所ながらこそどろのように侵入せねばならぬことが情けなかった。
 泰三は海外赴任者向けのグッズを販売したり、現地情報を提供するネットビジネスを管轄していたが、この三ヶ月間、廃業したも同然だった。女事務員の戸部理恵子が一人いたが、迷惑を食らったのは理恵子の方で給与を払ってやれない名ばかりの雇い主になった以上、理恵子の好意にさらに頼ることもできなかった。それでも、アパートを借りていればこれ幸いとばかり転がり込んだかもしれないが、いかんせん自宅通勤だった。ただ内妻の目を結んで何度か関係を結んだ理恵子には定期的に連絡は入れていた。週三日事務所にも短時間だけ顔を出してくれ、雑用などを引き受けてくれていたのだ。
 愛子の怒りはいまだ溶けていないようで、それももっともかと、これまでなんだかんだで三千万円以上無断使い込みをしている泰三としては、愛想を尽かされてもしょうがないと思うのだった。この四十二年、よくぞ俺のようないい加減な男を支えてきてくれたと思うと、愛子に対する恨みはなく、その信頼をまたしても裏切ってしまった、おのれの自業自得だと舌打ちするばかりだった。
 この三月(みつき)間、週の半分は公園のベンチで仮寝したり、あてもなく地下道をうろついたり、時間つぶしをするのも一苦労だったが、身ひとつで追い出された境遇には、ビニールテント小屋所有の浮浪者ですらうらやましく思われた。夏の間の野宿はしのげても、師走の寒さが日増しに厳しくなる冬季に、こたつに入って暖を取れない宿無しの自分が情けなかった。ホームレスは少なくとも雨風をしのげる仮小屋、小さくともわが城を持っている、それに比べ、この俺と来たらと、途端に惨めったらしくなり、一体、俺は人生をどこで誤ったのだろうと、嘆息せずにはおれなかった。

 代々医者という群馬の名家に育ち、金持ちの子息として何不自由なく育ったが、小中高を通して成績は中程度、三流大学の医学部を卒業後、医師の国家試験を受けたものの三年連続落第でUターン、地元の名士であった父親が院長兼理事長を務めていた私設病院に秘書として勤務することになった。お目付け役の親父が恐くて、精勤しているふりをしたが、実質的には職員任せで、保護者の目の届かないところでは椅子にのさばって好き放題やっていた。女好きを自称する泰三は看護婦寮に夜ごと押しかけ、二百人斬りとうそぶく遊蕩ぶりにふけったが、二十八歳のとき、その頼りにしていた父が呆気なく心臓麻痺で他界した。盛大な葬儀を済ませた後哀しみに浸っている間もなく、医師五十名、看護婦三百七十名ほか職員合わせて七百名という、群馬最大の民間病院の経営が若い後継者の肩にずしりとのしかかってきた。それまで秘書とは名ばかりでぶらぶらしていた泰三は、二十代後半の若さで理事長に祀り上げられる羽目になったのである。母は、内科医長兼副院長の泰三の叔父だった義弟に不信感を抱き、繰上げ就任をよしとせず、息子を後継者に推そうと画策したのであった。泰三は重責を思うと、父に急逝された衝撃も吹き飛ぶほどだったが、いったん座に納まってしまうと、実務はもっぱら叔父任せ、親不孝とは思うもの、これも怪我の功名と、親の七光りでさらに勝手放題できる身分になったことに内心ほくそ笑んだ。未亡人となった母はめっぽう気が弱くなり、ひとり息子の言いなりだった。泰三はお目付け役のいない、誰にも指図されずしたい放題できる、人もうらやむ境遇になったわけで、父を亡くしたことの哀しみも程なく癒えて、わが世の春を謳歌した。
 ちやほやされる環境下にあって、裏で女医や看護婦との糸目をつけない肉体交渉はますます烈しくなり、そうするうちにツケが回ってきて、看護婦で古株だった倫子を妊娠させてしまった。同時進行中だった薬剤師の愛子に、子どもは私が引き取るから、結婚を強要されても絶対応じないようにと戒められたが、女に弱かった泰三は年上の倫子に責められると、非がこちらにあるだけにたじたじとなってしまうのだった。二人の女はめっぽう気が強く、頭が上がらなかった。どちらかといえば、二歳年下の愛子のほうに気があり、いっしょになるならこっちだと思っていたし、愛子もそのつもりでいたため、優柔不断に押し切られたあげくのできちゃった婚にはさすがの愛子もショックを隠せないようだった。結婚しても縁が切れるわけじゃないし、俺にはお前が必要なんだと言い張って泰三は必死に女をなだめたものだった。
 押し切られるまま結婚に踏み切った泰三だったが、蜜月は長く続かなかった。息子が生まれると、育児と仕事の両立で気が立っていた倫子は事あるごとに夫をなじるようになった。愛子との縁が切れていないと薄々嗅ぎつけていたらしく、喧嘩が絶えず、勢い、口うるさい妻ののさばる自宅には帰らず、もっぱら愛子のマンションに入り浸りになった。
 子どもが五歳になったとき、離縁した。母は嫁の倫子とは不仲だったため、反対しなかったが、孫の親権だけは主張した。しかし、気の強い倫子が譲るはずもなく、法廷で争うのも面倒だと渋々折れるしかなかった。同意書で面会権のみ認めさせたが、後年はその権利さえ剥奪され、散々慰謝料をふんだくられたにしては、踏んだり蹴ったりの顛末であった。
 父子の仲は隔てられ、わが子の成長を物陰からこっそり窺うのが精一杯の、親とは名ばかりの自分が哀しかった。ぽかりと空いた心の穴を埋めるように泰三は政治の世界に顔を突っ込む。亡父が、病院設立にあたって政治力が必要と見込み、過去一度立候補しかけたいきさつがあったのだ。与党自明党の資金源として常に寄付を絶やさなかった泰三だったが、その金力と顔の広さを見込まれ、群馬第二区から衆議院議員候補として担ぎ出される成り行きになったのである。
 ちゃらんぽらんな性格だったが、地元の大病院の理事長ということで、一端の名士にも祀り上げられていた。人情味の篤いところのあった泰三は世話好きで、患者からも慕われていた。困ったことがあると一肌脱いでやる任侠があり、それが人徳と地元民には見られていたのだ。たちまち身辺はあわただしくなり、朝晩選挙運動に駆けずり回る日々が始まった。
 しかし、元々気弱なところのあった泰三はベテランの対立候補に勝つ自信がなく、選挙対策委員長だった叔父にそそのかされるまま、運動員として病院の職員を派遣し、六千万円もの大金を手渡して有権者買収の戦術に出た。おかげで選挙には勝ったものの、その過程で違反が割れ、議員の座から引き摺り下ろされたあげく逮捕を忌避しての夜逃げとなる。
 一路国外へ逃亡、泰三は差し当たって台湾に居を定めると、半年後愛子が送金してくれた資金を元手に日本食レストランを開設する。「美富士」(みふじ)と名づけた和食苑は店主の玄人はだしの料理手腕に在留邦人間に人気が高まり、繁盛したが、日本でのだらけきった生活に慣れていた泰三には根気が続くはずもなく、一年を経ずして閉業に追い込まれる。その後香港に移ってぶらぶらと半年ほど何をするでもなく遊び暮らしていたが、ほとぼりが冷めた頃合を見計らって、日本にお忍びで帰国した。二年余の潜伏期間で、在留邦人との間に特異な人脈を培っていた泰三は、うち一人の商社マンの、「海外赴任者向けのガイドブックって、ないんですよね。あったら便利と思うんだけど」との言葉をふと思い起こし、東京の京橋にあった小さなビルの一室を借りて、出版業の博打へと乗り出す。
 資金は今度も、実家が資産家の愛子がアレンジしてくれた。まもなく愛子は、出版業開設に伴って首都に定住することになった泰三を追いかけて、上京してきた。優秀な薬剤師だった愛子は都内の病院に職を見つけ、収入はもっぱら女に拠りかかった同棲生活が始まる。暮らし向きが安定すると、愛子は貯金を下ろし頭金として、神楽坂に3LDKのマンションを購入した。本格的に二人の愛の生活が再スタートしたわけである。

 泰三はガイドブック第一弾としての台湾編を出すにあたって、有能な編集者を捜していた。そんなとき、おあつらえ向きに元経済誌の敏腕記者、自分よりひとつ年下で三十五歳という高槻修治を紹介される。高槻は東洋航空の機関紙の仕事をしており、担当者に引き合わされたのだ。折よく、高槻は、仕事を兼ねての私用で毎年二回台湾を訪れている現地通でもあった。泰三は高槻を見込んで、赴任者向けのガイドブックを書いて本にまとめ編集してくれるよう依頼する。フリーランサーだった高槻はあっさり承諾し、資金折半のアジア情報センターが創立された。高槻が供出したのは五十万のみだったが、残りの二百五十万円は泰三が愛子経由でそろえ、有限会社としてスタートしたのである。
 京橋の今にも傾きそうな古いビルの一室、スチール製の机セット二つと長椅子、小型冷蔵庫を置けば一杯になってしまうような、うなぎの寝床風事務所を借りて、ドアに「アジア情報センター」のプレートを掲げたのが昭和五十八年春、折しも泰三十七歳のときだった。高槻は以後、台湾と日本を行き来しながら、狭い事務所にこもって半年弱で原稿を仕上げる。
 発売元として名義を貸してくれる出版社には、台湾時代の知人を通して紹介された川北書店が名乗り出てくれていた。禿げ頭の頑固親父といった風采の川北栄社長は、泰三が恐る恐る趣旨を打ち明けると、企画が面白いと太鼓判を押してくれたのである。案ずるより生むが易しで、とんとん拍子に運び、赴任者向けガイドブックの草分け的存在、第一号の台湾編が創刊されたのが、昭和五十九年二月のことだった。
 賭けは当たった。赴任者対象と的を絞ったことが功を奏したのだ。それまでこの手のガイドブックは発刊されていなかっただけに、大手新聞の書評に採り上げられ、たちまち重版、泰三は気をよくした。長いことほされていたが、やっと陽の目が当たったようだった。
 昼でも日が差し込まず、薄暗い事務所には仕事関係者から知人友人までひっきりなしに出入りがあった。印刷会社の営業マンから、高槻の元経済誌同僚、泰三が台湾や香港で培った人脈、元赴任者や一時帰国の現地在住者、果ては茨城在住のビルオーナーまで、ふらりと立ち寄っては、泰三とひととき雑談を交わしていくことを楽しみとしていた。泰三には愛嬌よく憎めないところがあり、気の置けない話し相手として重宝がられていたのだ。京橋の事務所は、気晴らしに寄るにはうってつけの社交場代わりともなっていたのだった。
 なかでも三日に上げず通う常連訪問者には、元大手商社マンの青柳博がいた。ふらりと立ち寄ってはとりとめのない雑談をしたあげく、最後に小金を要求していくのだ。上司と喧嘩して衝動的に辞めたという血気盛んな四十半ばの男は、一見ロマンスグレーの好紳士風だったが、常に懐がピーピーしていた。絶妙なタイミングで借金を切り出されると、泰三はまたかと内心舌打ちしながらも、渋々貸してやらざるをえなかった。見込まれたり頼まれたりすると嫌と言えない性分で、任侠肌のところがあったのである。面倒見のいい親分肌の自分は拠りかかられることが多かった。
 そのうち借金のかたに青柳を営業担当として雇用することを思いつくのだが、広告はさして取れず、踏んだり蹴ったりで、月末には前借りを申し込まれるのが常だった。疫病神に取り憑かれてしまったとほとほとうんざりしながらも、いったん面倒を引き受けた手前邪険にすることもできなかった。気は短いが馬鹿正直でいつも損をしている青柳を見限ることはできなかったのだ。 
 一方、川北書店の社長にはめっぽう可愛がられ、私設運転手のようなことまでやらされていた折でもあった。これからガイドブックを続けていくにあたってなくてはならぬ人脈で、泰三は身を挺して社長に尽くした。社長は亀の置物のコレクションをしており、洋の東西問わず、出る用事があると、泰三は亀を象った品物を土産に買って帰ることを忘れなかった。ご機嫌取り戦術は功を奏し、信頼されるようになっていた。後年出版資金を調達してもらえるようになったのも、泰三がひれ伏して社長に仕え、信頼を勝ち取ったことが大きかった。
 そのころ忠実な子飼いの事務社員として、川北書店で働いていたのが、戸部理恵子であった。泰三は愛想よく理恵子に取り入り、雷親父の社長を内心毛嫌いしていた有能女子社員を後年引き抜くことに成功する。

 夏に愛子に追い出され、季節ははや冬を迎えようとしていた。ぼんやり来し方を振り返っていた泰三はその現実にうそ寒くなる思いだった。俺はこのまま、いったいどうなってしまうんだろう、再起は可能なのか、金も家も女もない、年の瀬をひとりで過ごすわびしさを思うと、やるせなさを禁じえなかった。人肌恋しい季節だけに、ひしひしと心細さが募ってくる。まったく六十七年も生きてこのざまとは、いい加減な自分が我ながら恨めしかった。深く考えずにそのつどそのつど対処、大雑把な世渡り術で、自転車操業のツケが今になって回ってきていた。いついつまでも愛子がサポートしてくれるような気がして、すっかり甘え切っていたのだ。どこかで神経が麻痺していた。何をしても愛子が許してくれると、高をくくっていた。こんなちゃらんぼらんな野郎、愛想尽かしされて当然だ、女が黙認してくれるのをいいことに、図に乗って境界線を越えてしまった。おかげで、この正月は愛子の作る心のこもったおせち料理にもあずかれない。惨めったらしさが余計に募ってくる。
 反動のようにこれまでの贅沢三昧を偲び、せめてもの慰めとした。過去の愛子との豪遊を思い出すことで、今の貧窮がいっときでも消し去られそうだった。そう、あれは四十代前半の頃だっけ、年越しの香港旅行で、ファイブスターホテルの百万ドルの夜景を見下ろす高級レストランで、三十万円もの超高級赤ワインに散財したのは。理事長時代の贅沢が身についた自分は、美食に浪費することはなかでも惜しまなかったのだ。しかし、ここまでおちぶれてしまうと、それも遠い過去の栄華だ。四・五十代は浴びるように酒を飲んだものだったが、おかげで肝臓を壊し、還暦を過ぎた頃から禁酒を余儀なくされる身上になった。しかし、あのとき酒をやめていなければ、とっくにくたばっていただろう。アル中の一歩手前までいっていたのだから。

 大晦日、泰三はなんとか金をアレンジして、デパートの地下でおせち料理の重箱を買った。高槻の帰りを待ちわびて、日ごろ世話になっている礼に進呈し、いっしょに食べることを楽しみにしていたが、高槻は戻らなかった。恋人のマンションにでも行ったのだろう。高槻とは最初の二冊、台湾と香港のガイドブックを制作してもらっただけで、仕事上は離れていたが、黙っていてもツーカーのところがあるうまの合う同士ともいえ、現在大手銀行の会報誌を編集している彼ははぶりがよく、週三日厄介になり続けていることにとくにいやな顔はされなかった。が、高槻の一回り以上年若い恋人はさすがに邪魔者扱い、入り口脇の四畳半に身を潜めていても、二人きりで誰にも気兼ねの要らない週末を過ごしたいにちがいなく、泰三はそんなとき居たたまれず、わざと大声で奥に声をかけて外出するのが常だった。深夜、頃合を見計らってそうっと帰り、合鍵でこっそり開けて脇の小部屋にしけ込むのだが、居候の身とはしみじみ辛いものであった。
 時計は真夜中十二時を指していた。おなかがグーグー鳴った。高槻は今夜はもう戻らないだろう。泰三は重箱をやおら開けて、冷たくなった栗きんとんや煮しめを頬張った。涙がほろほろ流れてきた。このように惨めな年越しは一回だけで充分だと、しみじみ思った。愛子の怒りは溶けなくても、俺は何とかしなくてはならない。次の年の瀬にはこのように惨めったらしい思いをすることがないように。泰三は自分にきつく誓った。涙にむせて、きんとんが胸につかえそうになった。正月餅を喉に詰まらせ窒息死する老人の話をふと思い起こし、きんとんに詰まって死んだじゃ、しゃれにもならねえ、俺は這い上がらなくてはならないと、胸を拳でどんどん叩きながら、水道の水で満たしたグラスを一気に飲み込んだ。
 まず、あの九段下の事務所をなんとかしなきゃならんなと、胸のつかえをおろしながら、泰三は思った。八十万と家賃が超高値なだけに、借金はかさむばかりだったのである。奥に会議室がついたゴージャスな仕様で別の起業者と共同で借りたのだが、その男はすでに閉業し去っており、全額負担が両肩に重くのしかかっていた。引き上げるチャンスを窺っていたわけだが、愛子に使い込みがばれて急転直下、路頭の身に落ちぶれ、事業が回らなくなった。オフィスを変えるどころの騒ぎでなく、一時停止に追い込まれてしまったのだ。それに愛子の怒りが溶けない今、下手に動けば、起訴されそうで恐かった。借金取りにも追われていた。京橋時代はまだしも、事務所を移転してから、招からざる客も増えていた。サラ金に借金がかさんでいるせいで、サラ金対策用にもう一つケータイをレンタルし、催促に邪魔されずに元のケータイは仕事用に使っていたが、仲間内では「借金王」というあまりありがたくない風評まで買っていた。親族知人・友人への借金、川北社長への踏み倒した借金、サラ金の積もり重なる負債、愛子の口座の使い込み、この三十年で降り積もった金額は五千万円近くにも膨れ上がっていたのだから、首が回らなくなって当然だった。
 お袋には愛想を尽かされた挙句、十五年前逝かれた。なんという親不孝者だったことだろう。甲斐性ある親父と違ってどら息子、孫の顔を拝ませてやれたのは一時期だけで、お袋が息子の放蕩ぶりに深く落胆していたのは知っていただけに、群馬の実家には捕まりそうになって以来、寄り付けなかった。気が向くとたまに安否を知らせる手紙を送っていたが、実質は金の無心で、そのうちいよいよ愛想を尽かされたものか、所望しても送金してこなくなった。お袋が脳溢血で死んだと聞いたのはその三年後のことだった。男泣きに泣いたが、いまさらどの面さげて葬儀に顔を出せる身分じゃなかった。たったひとりの身内の死後、病院や遺産を叔父にいいようにされているのが癪に障ったが、どうすることもできなかった。
 自分には血縁はないと決めて、日本に帰ってからは、東京を住処と定め、愛子一人をよりどころに、ヤクザな出版業を渡り歩いてきたのである。三十八歳からの十五年で、泰三は七冊ガイドブックを刊行し、最終的には販売権を川北書店に売却していた。社長への借金が五百万に膨れ上がったとき、当時雇っていた女子社員の奈美子が銀行から彼女名義で借りてくれなんとか返済にこぎつけ、信用を取り戻したが、いったん信用を取り付けると金が借りやすくなり、またすぐ同じ額に膨れ上がっていき、二度目は返せず、首が回らなくなって、長年培った社長の信用まで落としたのだった。
 ひと回り年下の奈美子ともそのころはいちゃついたものだったが、愛想を尽かしたように離れていった。東京でも懲りもせず、愛子の目を盗んでは若い女をつまみ食いしていたものだったが、みんな去っていった。今頃さぞかし、貧乏神との縁が切れてよかったと思われていることだろう。
 そして今、六十七歳にもなって、精力の抜けたじじいと化した枯れ果てた自分がいる。ひとつ年下の高槻は相変わらずお盛んなようで、うらやましい限りだった。高槻が帰ってきたら、回春の秘訣でも教えてもらおうと思いながら、泰三のまぶたは酒を一滴も入れていないにもかかわらず、待ち疲れで塞がってきていた。四畳半のベッドにもぐり込んだが、眠りが浅く、切れ切れで目覚めてしまう。肝臓をやられ生死の境をさまよったとき以来断酒を決意し、この五年間アルコールはひとしずくも喉に通していなかったが、今は安らかに眠れる手段としての酒が恋しかった。

につづく)
ジャンル:
小説
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