インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

祭のない原野へ4(中編小説)

2017-04-28 19:16:15 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
 
  四

 正月、妻の里帰りを口実に、饗庭は馨を自分のマンションに招待した。昼過ぎに久我山駅に辿り着き、言われた通りに電話すると、程なく、革ジャンを引っ掛けただけのセーターにジーンズという、いつも見慣れた背広とは違った若々しい軽装の男が現れた。足元は、靴下を履いた下駄履きで、そのミスマッチに馨は思わず笑いを誘われる。
 マンションは駅から十五分ほど歩いた、閑静な住宅地の一角にあった。白と焦げ茶のコントラストが瀟洒な三階建ての洋館で、夫婦の部屋は二階の一番端にあった。
 2LDKの室内は隅々まで掃除が行き届き、孤高の男のイメージと裏腹に温かな家庭的雰囲気に溢れていた。細君の心遣いが端々まで行き渡り、かりそめながらも、この四年間饗庭が連れ合いとの間に築いてきた平和で穏やかな日常がゆったりと流れていた。馨は誘われるまま、若い娘の覗き見的好奇心で泥棒猫よろしく、夫妻のプライバシーに侵入したことを早くも後悔し始めていた。
 和室になっている居間のこたつ台の上には、書きかけの原稿が乗っていた。淡いグリーンの罫線が美しい満寿屋の高級用箋には、饗庭の癖のある、桝から食み出しそうな崩し文字が踊っていた。題名を盗み読みすると、「不帰湖」とあり、数行空けた下に、「有坂暁」とのペンネームが記されていた。
「帰らずのうみ、ね」
 馨はいつか高雄で、男がモンブランでナプキンに綴った自伝大作の題名を正確に読んだ。    饗庭はおのれの分身ともいうべき剥き出しの草稿が女の目に触れたことがさすがに居たたまれなさそうにそそくさと台の上を片づけると、手伝おうと立ち上がりかけた馨を制してひとりキッチンに引っ込み、ひととき後に熱燗と朱塗りの五段のお重を運んできた。男が漆の蓋を開けると、豪勢なおせち料理が現れた。目を丸くして見とれる馨に、
「家内の手作りだよ」
 満更でもない口調で洩らした。帰郷前、不在中の夫の食事に不自由がないようにと精魂こめて作り置きしておいたものらしかった。勧められるままに栗きんとんを一つ頬張って、馨は思わず、感嘆の声をあげていた。
「おいしいっ、奥様って、お料理上手なのね」
「いやぁ、いっしょに暮らし始めた当初はそりゃぁ、ひどいもんだったよ。俺が箸ひとつ付けずに憮然とした面持ちで下げろというもんで、一念発起したんだな。それからは、明けても暮れても料理の本と睨めっこ、めきめき腕を上げていった。いつしか賄い婦として勤まるまでになって、味にうるさいこの美食家の俺様をして、うーんと唸らせるほどの料理の達人へと成長した。ま、そういう意味では、あいつはなかなかの頑張り屋さんだな。俺と暮らす前は、本一冊紐解くでなかったらしく、口を極めて無教養ぶりをけなしたところ、翌日から図書館に走り、借りてきた書物を片っ端から読破するようになったいきさつもある。俺が本代をやるようになってからというもの、これこのざま、本棚には納まり切れず、上の棚にもぎっしりだ」
 饗庭が顎をしゃくる方角に、簡素で趣味のいい室内と不釣合いにやけに仰々しく立派な飴色の扉付き書棚が、側面の壁全体を覆っていた。
「女房の実家からの結婚祝いだよ」
 ガラス戸越しにびっしり詰まった書籍や文庫が見え、そのうちの一冊に、「松本清長」の著者名を見出した馨は、
「奥さんの写真、見てみたいわ」
 好奇心をそそられ、つい口にせずにはおれなかった。饗庭は奥の寝室になっているらしい部屋に引っ込むと、小さな額入りの写真を手に戻ってきた。そこには、面長の顔に目鼻立ちがこぢんまりと納まった、これといって特徴のない平凡な顔つきの女が写っていた。
「隅田川の橋のたもとで身投げしかけていたところを、拾い上げた顛末は話したろう。妙な因縁で籍を入れる羽目になってしまったが、 実は暮らし始めた当初、関係を持っただけで、以来セックスがないんだよ」
 饗庭があけすけに打ち明けた。
「性の不一致というか、どうも肌が合わなくってね。肉体が馴染まないとわかって以来、俺の方にそうした欲求がいっこうに湧いてこなくなってしまった。同棲して一年半後、勤めていた会社が倒産したもんで、女を後に残し、ふらーっと単身カナダに渡ったんだが、八ヶ月後金が尽きて戻ってみると、とっくにマンションを引き払っていると思い込んでいた女が、同じ部屋でひっそりと俺の帰りを待ちわびていた。カナダに発つ前、いつ戻ってくるかわからないから、俺のことは忘れてここを引き払いなさいと最後通告しておいたんだが。そのときはさすがに、一途にいつ帰るともしれぬ男を待ち続けてくれた健気さが愛おしくなって、つい手を出してしまったが、以来、触れる気になれなくってね。上辺は正常な夫婦のふりをしているが、そういう意味では、俺たちは真の夫婦といえんかもしれんな。家内に残酷な仕打ちだということは重々承知しているんだが、こればかりはどうにも我慢がならなくてね」
 夫妻のプライバシーをあからさまに覗き見たようで、馨は何となく居心地悪かった。若い愛人の沈黙を錯覚した饗庭が、とっさに投げた。
「誤解しないでくれよ。あんたとのことは、決して俺の行き場のないセックスの捌け口ではないんだ。性欲を満たすだけの関係なら、これまでいくらだって女遊びできたんだから……。俺はこれまで、性のない夫婦関係にじっと耐えてる女房に操を立てて、浮気だけは断じてすまいと、固く戒めてきたんだ。それが唯一彼女に対する俺の誠意と信じて…… 。あんたのことは、恋愛だよ。浮気じゃない、本気だ」
 若い男のように歯の浮いたセリフを放ち、当然のように馨の躯に手を伸ばしてくる。カーペットの上に押し倒されてセーターを捲り上げられた途端、だしぬけにあがった猫の鳴き声が二人の行為を遮った。
「エリザベスのご帰還、か」
 饗庭は舌打ちしながら渋々といった態で起き上がり、ベランダのガラス戸を引いた。と同時に、毛並みの艶やかな黒猫が一匹、しなやかに跳躍しつつ、中に舞い込んできた。
「子猫のとき、女房が拾ってきてね、以来、うちに居着いてしまった」
 エリザベスとは、いかにも英語に堪能な饗庭らしい命名だった。敏捷な雌猫はまるで、妻代わりの監視役を務めるかのように、長い尾を撓らせ、エメラルド色の美しいが冷酷な瞳で馨を威嚇したともなく、餌を要求するように飼い主の足元に擦り寄っていった。饗庭は飼い猫をひょいと抱き上げ、喉のあたりをさすってゴロゴロ鳴らせると、キッチンに引っ込んだ。
 魚を焼く香ばしい匂いが辺りに漂い始めた。背後からこっそり覗くと、男は市販のパックから取り出したあじの干物のみりん漬けを、網の上で手際よく焼き上げていた。

 一夜限りの戯れのはずが、航との関係はその後も、年下の若い男に呼び出される形でずるずる続いた。共通の勤務先はなくなってしまったものの、互いのアパートが歩十五分と離れていない至近距離にある物理的条件が、二人の関係の進展に大いに寄与していた。
 もっぱら航の部屋が逢引きに使われたが、そんなある日のこと、航はやりきれない嘆息とともに洩らした。
「こんな関係、一体、いつまで続くんだろう」
 その切羽詰った絶望的な響きには、終わりを予感した悲哀がこめられていた。
「あなたが今現在、付き合ってる男のことさ。いつ話が出るかと、待ってたんだけど。最初から、承知の上だったよ。あなたには、彼氏がいるってこと……。だから、あのとき、ほら、あなたが深夜、ぼくがプレーヤーをかけてるそばにふらりと現れたとき、邪険に追い払ったんだ。衝動のままにあな たを抱き寄せてしまいそうで恐かった。この女(ひと)には恋人がいるんだからダメ、絶対抱いてはいけないと、自らに戒めるように幾度となく言い聞かせて……」
「後悔しているの」
「ううん。なるようになったまでのことさ。ぼくたちは、こうなる運命だったんだと思うよ」
「私が交際している男のこと、知りたい?」
 航の焦点の定まらぬ不安げな瞳に一瞬、強い光がこもった。馨は意を決したように口を割った。
「K企画出版でフリーの編集顧問として勤めていた男性のこと、覚えてる?」
「ああ、うろ覚えだけど……。あの男が、そうなの?」
 航の目がさすがに、大きく見開かれる。
「びっくりした? 私より十七歳も年上の、離婚歴が二度もあるならず者……」
「いや、あなたってファザーコンプレックスだから、あのぐらいの年代の男性がちょうどいいんじゃない」
 航は生意気にも、放った。が、馨の次の告白が、脳天に爆弾を直撃されるにも似た衝撃をもたらしたことはいうまでもなかった。
「もうすぐ、彼と、インドに行くの」
 年下の恋人は絶句した。ほうけたような表情の、腕はだらりと両脇に萎えたままだった。 
 ややあって、精一杯の虚勢を取り繕ったように、シニカルな口調で投げた。
「それはそれは。ぼくたちの関係にピリオッドを打つ、絶好の口実になるね」
「私と別れたいの」
「そうするしかないだろう。他にどんな手だてがあるってんだい。あなたもそれを心のどこかで望んでるくせにして」
 航が苛立たしげな声で喚き散らした。
「饗庭さんのことは、尊敬しているわ。でも、恋愛感情とは違うのよ。饗庭さんてね、若い頃文芸誌の新人賞獲って、一時期商業雑誌で新進作家として持て囃された前歴があるのよ。インドはあくまで旅慣らし、向こうから戻った後は、私を伴ってカナダに移住する覚悟でいるの。私はカナダで、唯書いていればいい、五年で作家にしてやると言われたわ」                 
「恐れ入ったね、あなたも作家志願、あなたの男も作家の成れの果て、とは……」
 自嘲気味に航が呻いた。
「カナダに付いていくかどうかはまだ決めてないけど、とりあえず、インドには行ってみようと思うの。あの男(ひと)とうまくやっていけるかどうかは、この旅で決まると思う」
「立つ瀬がないとは、このことだね。あなたはぼくのこと、うまくいかなかった場合の後釜ぐらいにしか考えてないんだろう」
 航が皮肉たっぷりに投げた。
「インドには、行かせてほしいの。自分勝手な願いとわかっているけど、私が帰ってくるまで、待っていてほしいの。必ずあなたの元に戻ってくるから……」
 馨はいつしか、自分でもはっきりと意識していなかった恋愛感情の目覚めに突き動かされて、涙ぐみながら思いがけないことを口走っていた。航の方から別れ話が出て初めて、二人の関係がもはや、引き返しのできない地点まで来ているのに気づいたのだった。
「あなたの気持ちがわからない。ぼくのこと、本当に好きなら、なんで愛してもいない男と、インドなんかに行くの」
 航の女の矛盾をついた問いかけは、彼の立場に置かれた男性なら誰しもが抱いていい当然の疑問だった。
「私の文学に、必要だからよ」
 馨のその言葉がすべて、だった。それは、航を黙らせるに絶大な威力を発揮した。饗庭とのインド行きは結局、暗黙の了解となった。
「こうなったら覚悟を決めて、大人しく待っているしかなさそうだな」
 航は観念したように洩らした。

 饗庭は着々と、来たる旅の準備を進めていた。現職場には、置き手紙だけ残して無言で立ち去る覚悟でいるらしく、編集長の自分が抜けても当面困らないようにと、三号先までの取材原稿のストックをすべく、休日返上で精勤していた。
 旅発ちを十日後に控えたその夜、高雄で待ち合わせると、どうしたことか、日頃の饗庭に似つかわしくなく、浮かない顔色で会話にもいっこうに身が入らなかった。紹興酒のガラスの盃を無言で啜りながら、悄然とうなだれた肩には馨の想像もつかぬ重い哀しみがのしかかっているようだった。
「どうしたの、何かあったの」
 思い余って尋ねると、
「昨夜、女房が家を出ていったんだよ」
 憮然とした口調で投げた。
「最後通告したのさ。あいつ、ここ数日の俺の態度から敏感に察知して既に腹をくくっていたらしく、唯一言、“長くいっしょに居すぎましたね”と涙ぐむと、荷物をさっさとまとめ、お世話になりましたと挨拶し、出ていった……」
 かりそめとはいいながらも、四年もの間築いてきた平和な日常を自らの手で壊すのはさぞかし勇気が要ったろうと、馨は思いやらずにはおれなかった。饗庭の第三妻が憐れだった。そして、その原因の一端は、自分にもある。いつかカナダへ渡る日が来たら、事前に夫婦の縁は切るつもりでいたようだが、かといって、馨の気持ちが救われるわけでもなかった。いいようのない後ろめたさが募り、良心の疼きを覚えた。あの居心地のいい日溜まりのような家庭的和やかさを漂わせていた部屋、加寿子が四年間で紡いだ穏やかな生活が事もあろうに、主(あるじ)の一言で木端微塵に打ち砕かれてしまった。一見平和と見えながら常に、一触即発のカタストロフの芽を孕んでいた夫婦の危うい日常、妻はその日がいつか必ず来ることを予感しながら、あえて目をつぶり、哀しい女のさがで見せかけの家庭的温かさに溺れた……。なろうことなら、名ばかりの夫も、このぬるま湯が居心地よくなって抜け出せなくなりますようにと。が、饗庭はともすれば、後ろ髪を引かれそうになる未練を振り切って、非情な手でハンマーを振り下ろした。そのことで、彼は今、二重の傷手を被っている。
「思えば、憐れな奴だよ。俺みたいに厄介な男に拾われたばっかりに……。あのとき、命を落としていた方がまだしも、ましだったかもしれんな。無用な哀しみを与えてしまった、まったく俺は罪作りな男だよ」

 失職してしばらくブラブラしていた航は、知人の伝を介して蓼科にあるS観光開発保養荘の管理人として働くことが決まった。奇しくも、あの饗庭に伴われての初の旅行で偶然見かけた美しい山荘だった。ベアハットとは、車で三十分と離れていなかった。航は、これを機に東京を引き上げ、二度と戻ってくるつもりはないらしかった。
「一年のうち八ヶ月はオフシ-ズン、小説を書くには願ってもない環境だよ。山中にこもって、じっくり原稿に取り組むよ。もちろん、売れ筋、のやつをね」
 茶目っ気たっぷりに年下の恋人は告げた。航は航で、誰に指図されたわけでもなく、自らの道を歩もうとしているのだった。
 と、だしぬけに、航が改まった口調で切り出した。
「ぼくが以前付き合ってた彼女のこと、まだ話してなかったっけね。スナックのマスターをしていたときの常連でね、彼氏がいるのを強引に横取りしたんだ。何せ、当時ぼくはひげの若マスターとして、女の子にはモテモテだったからね。スナックのバイトを辞めた後は、小説に専念する僕を、精神的にも経済的にも支えてくれたんだ。あなたは、唯書いていればいいと、献身的に尽くしてくれてたもんさ」
 今初めて洩らされる航の過去に、馨はかすかな嫉妬を覚える。
「信州の教会で式を挙げるはずだったんだ。ぼくが彼女が大事に蓄えていた結婚資金を無断で使い込みさえしなければね。さすがの彼女も愛想を尽かしたんだろうな。ぼくは、真っ白いウェディングドレスを着て嫁ぐ彼女の夢を滅茶苦茶にぶち壊してしまったわけだから。甘えすぎていたんだよ、彼女の好意に。それで何をしても許されるといい気になってた……」
「今も愛してるのね、彼女のこと……」
「永久にぼくの元には戻ってこないよ」
 新宿の高層ビルのガラス張りのエレベーターの中は、二人きりだった。360度パノラマ夜景が、宝石箱のとりどりの珠玉をまき散らしたように眼下に開けていた。東京タワーがオレンジ色にライトアップされて、闇の彼方にひときわ壮麗に浮かび上がっている。
「灯りにも境界線があるんだね。ご覧、街の灯はすべて、地平線上で途切れて、闇に埋没しているよ」
 航が何気なく洩らした言葉に、馨はつと饗庭の口癖である“向こう側”を重ね合わせる。――作家には、向こう側が見えていなければ駄目なんだよ。本物のもの書きには皆、彼岸が見えているもんだ――。
 航もやはり、ものを書く男だった。光が一直線に途切れる彼方に瞳を凝らしながら、 “彼岸”を見ているらしい。
「子供の頃、雨上がりの日が好きだったわ。通学途上、水たまりに映った入道雲を覗き込みながら、この向こうにはどんな世界が開けているんだろうとわくわく胸を踊らせたものよ。青い水底にすーっと吸い込まれるように入っていけば、雲の彼方に開ける別世界に辿り着けるんだって、幼な心にも信じてた……。空想好きの少女だったのよ」
「水たまりの向こうの世界、か。あなたはそれを探しにインドに行くんだね」
 航の握る掌に力がこもる。異界に浮遊していた箱は急降下し、現実に引き戻された。航は待っていてくれるだろう。自分の帰る日を。馨は、三日後に迫った旅発ち、灼熱の大地に熱く逸る思いを馳せた。網膜に今尚名残る、喧騒の坩堝に渦巻く街の陰画が不協和音を奏でながら、蘇った。


                                 *   *   *


へつづく)
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