小さな応援歌

集団ストーカーの被害者の方々に小さな応援の言葉と、ささやかな祈りをお届けします。

車両の嫌がらせ、敗北宣言

2017年06月24日 | 日記
車両による嫌がらせは私への嫌がらせのメインのひとつだったが、年を経るごとに車両がしょぼくなっていった。当初は、外車、ぞろ目、大排気量車、市外ナンバー、改造車など、かなりのものだったが、次第に一般的な車が増え、嫌がらせとしての意味があるのかどうかわからなくなっていった。

そのつど私はからかった。「反社会教団、○○学会、車、お笑い状態」。すると向こうは言われっぱなしは絶対に許せないのか、必ず盛り返してきた。このようなことが何十回と続きながら、次第に車種など全体的に下降線をたどっていった。

ここ数ヶ月は時間ができたおかげで外出時間も長くなり、私の外出時間に合わせて嫌がらせを続けることが困難になってきたらしい。家を出るときは勢いがよいが、次第に力尽き、最後はいつも息切れる状態が続いた。

そしてからかう。「なぜやるのか、必ず息切れるのに」「竜頭蛇尾」。

やらなければ私に笑われる。しかしやっても息切れたら私に爆笑される。そこでこう提案。「笑われるのと爆笑されるのとどちらがいいか」「ここの所、成功例なし」。
これは効いたらしい。とうとう次の日は、始めからやらなかった。それが一週間くらい続いた。

そこでほめてやる。
「賢くなった。私の言うことを聞いた。少しは成長した」
しかし同時に強打する。
「○○教団、とうとう車の敗北宣言」

これも効いたらしい。2-3度盛り返してきたが、結局今は諦めたような状態になっている。ただ全くやめたわけではなく、やっているのはやっているのだが、車種、数等、かなり落ち込んでおり、嫌がらせとしての意味は失っているように思う。


敗北宣言としては、他にもある。近くの大きな工事現場では私が通るたびにうるさい音を鳴らしていたが、記録を取り、音を鳴らし始めたらそこに居座り、長時間記録を取る、ということを続けているとさすがにやめ始めた。音は近隣にも響くので長時間鳴らせない。また多くの記録を取られるとリスクもある。
最近はこちらから「やらないのか」と言ったりする。するとむきになってやってくるが、さすがに続けられない。そこでまたからかう。

この大工事現場も敗北宣言を出したような感じだ。

もちろん彼らが「負けました」という宣言を出すはずがない。ただ、嫌がらせを諦めた、ということが明瞭になったときに「事実上の敗北宣言」と言ってやる。

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仏の名のもとに悪行三昧(ざんまい)

2017年05月02日 | 日記
「仏法は国法にまさる」と学会内では言われるが、この言葉は暗に、仏のためであれば国の法を犯してもよい、というふうに学会内では理解されて、罪や犯罪になるようなことにも適用されているようだ。
「仏の名のもとに悪行三昧」。しかし犯罪的な嫌がらせをする本人たちはまともに信じているらしい。

キリスト教ではどうか。キリストの名のもとに犯される犯罪は正当化されるか。悪い歴史もたくさんあるが。
聖書によれば答えは「否」となる。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
(マタイ7章21-23節)

この聖書の箇所によると、御名、つまりキリストの名によって奇跡を行っても、悪を行う者は神の審判のときに退けられ、地獄に落とされる。「かの日」とは、最後の審判の日のこと。「わたし」と言っているのはキリスト。「主よ、主よ」とキリストの名を唱える者が正しいわけではなく、神のみ心を行った者が正しいものとみなされる。キリスト教徒であろうとローマ教皇であろうと、悪を行うことは許されない。

仏の名によって悪を行う者はどうであろうか。仏のみ心に背いていないだろうか。人の人生を破綻させ、自殺に追い込んでいる人々は、大丈夫であろうか。

人は死ぬ、この世は過ぎ去る。人はみな神仏の裁きを受ける。

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神風(かみかぜ)

2017年02月11日 | 日記


鎌倉時代、蒙古の来襲にあった日本は神風に救われた、という経験がある。蒙古軍が海上から姿を消したのは、台風か何かの影響ではないか、という説もある。

さて第2次世界大戦末期、戦局の打開を目指して、神風特攻隊が組織された。実際にはインパクトは大きかったが効果は少なかったという。

加害団体がだんだん勢いがなくなってきているような気がする。何よりも車による嫌がらせの数が減りつつある。あるいは数があったとしても軽自動車とか小型車とかが多く、かつてと比べ物にならない。やっているのかやっていないのかよく分からないときもある。

加害参加者たちが減りつつある、というあるブログでのうわさは本当だろうか。私には本当のように見える。「論より証拠」だ。

神風を期待しているのだろうか。

神風は吹くのか。第2次世界大戦のときには吹かなかった。いや、吹いたのは原子爆弾による「爆風」であった。

彼らは神風を祈って最後の一兵にいたるまで死に物狂いで戦うだろうが、吹くのは悪行三昧の教団に落ちる原子爆弾の爆風ではなかろうか。

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人質

2017年01月31日 | 日記
善良な人でも正義感のある人でも加害に加担せざるをえない状況があるように見える。
自分ひとりが害を被ったり、自分が死ぬくらいなら構わない、と思う人はいるかもしれない。しかし従わなければ妻や子供にも害を及ぼすとか、不幸に追いやると脅されれば、従わざるを得なくなる。

戦国時代や江戸時代には裏切りを防ぐ目的で人質を取った。だから武士たるものの妻や子供はいつでも死ぬ用意ができていなければならなかった。藩や主君のためには家族の命を犠牲にしなければならない状況があった。

立派に死ぬ、という覚悟は必要だと思う。妻子の命を思って嫌がらせに参加するなら、それによって苦しむ人が増えるのだ。そんなことを避けたければ、自分も妻子も死を覚悟するしかない。そこまでやるべきか。

高い志を持つ者、正義感を持つ者なら現代でもそのくらいの覚悟があっても良いと思う。家族で悪いことをして悪行の報いを受けるよりも、この世では苦しんだり不遇な目に会っても皆で天の国に行ったほうがましだ。

人は死ぬ。この世は過ぎ去る。

武士たちの志を持つ者たちがいなければこの社会は救われないことになる。



聖書にはひとり子を捧げる親の姿がいくつか見られる。

ひとつは旧約聖書のアブラハム。彼は独り子であるイサクをいけにえとして捧げるようにと神に命じられた。そしてイサクを連れて行き、手を縛ってナイフを振りかざそうとしたところ、神はそれを止め、アブラハムの信仰を認め、祝福を与えた。

新約聖書では独り子イエスが十字架上で息絶えるのを見る聖母マリアがいる。わが子の命乞いをしてもよかったのだが、キリストは人々の救いのために命を捧げるために来た、と語っている。そのために、母は独り子の十字架のもとで共に苦しむ道を選んだ。

また聖書によれば、神はこの世を愛してご自分の独り子(イエス・キリスト)を与えた、とある。与えた、という言葉の中に、命をも捧げた、という意味も入っている。

子供が死ぬのを見るよりは自分が死ぬ方がまだましだ、と普通は思う。子供を捧げなければならないつらさは、自分が死ぬ辛さよりもつらいのではないかと思う。

だから妻子の命を脅しながら、嫌がらせの加害に加担するようにとの要求に屈する人が多いのだろう。


嫌がらせに参加し、人を苦しめながら生きることだってつらいだろう。たとえお金をもらったとしても。

こんな世の中は早くおさらばして、妻子と共に早く神のみもとに行ったほうが良い、そんな考え方もある。

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偽りの改心

2017年01月21日 | 日記
人は死ぬ。この世は過ぎ去る。

嫌がらせをしている者たちは良心の呵責を感じないのだろうか。あるいは正義と信じているのだろうか。中には、悪いこととは知りながら、死ぬ間際に改心すればいい、と高をくくっている者もいるかもしれない。これは偽りの改心だ。

キリスト教では洗礼で罪が許されると説く。しかしそんな教義を利用して、悪いことをして、最後に洗礼を受ければいい、というずる賢いことを考えている人もいるに違いない。そうすればこの世をおさらばして神の前に行ったときには大丈夫、というわけだ。

これは神の恵みの悪用だ。
人が改心して悪いことから離れ、良い生き方をするためにこそ洗礼はある。しかし、悪いことをすべて洗い流してくれるありがたい方便として利用するものは、神の恵みにより頼む者ではなく、悪用するものだ。そんな人は許されないだろうと私は思う。善いことをするより、悪いことをするために洗礼があることになってしまう。神は自動販売機ではない。洗礼を受ければ救われる、というだけではなく、人の心の中の動機なども見るだろう。小賢しい計算はしないほうが良い。

またカトリックにはゆるしの秘跡というものがあり、かつては懺悔(ざんげ)として知られていた。司祭に罪を告白することで許される、とするものだ。
しかしこれに関しても同様に、悪用する者がありえる。悪いことをしても許しの秘跡を受ければ許されることをいいことに、悪いことを続ける。こうなると、ゆるしの秘跡は人が立ち直って新たに生きるというものではなく、安心して悪いことができるようになるための道具になってしまう。ゆるしの秘跡を知らない人よりも、安心してもっと悪いことができるのであれば、これは神の意思に反している。
こんな人は秘跡を受けても罪は許されないと私は思う。そもそもゆるしの条件として「まことの痛悔」というものがある。秘跡を悪用している人にはまことの痛悔はないのだから許されない。

こんな話を教会でしていると、上空にヘリコプター数機が飛来して、爆音を鳴らしながら威嚇した。

キリスト教徒の中にも嫌がらせに参加している人はいるようである。偽信者、成りすまし信者、信仰を失った信者、あるいは本当の信者であっても加害団体に脅しを受けたりだまされたりして加担させられている人などがいるように思える。

しかし神の恵みを悪用するなら、さらに重い罪になることを知らなければならない。

まことのキリスト教信者であろうとするなら、命や生活を脅されて加害に加担するのではなく、加害を拒み、死や苦しみを覚悟すべきだ。殉教だ。迫害や拷問を覚悟すべきだ。被害者たちは迫害を受け、広い意味での拷問を受けている。
覚悟する者に、神の助けはあるだろう。

さんざん悪いことをして最後に改心すればよいと考えている者は、改心ではなく計算であり、神の恵みを悪用するものだ。

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