小さな応援歌

集団ストーカーの被害者の方々に小さな応援の言葉と、ささやかな祈りをお届けします。

神風(かみかぜ)

2017年02月11日 | 日記


鎌倉時代、蒙古の来襲にあった日本は神風に救われた、という経験がある。蒙古軍が海上から姿を消したのは、台風か何かの影響ではないか、という説もある。

さて第2次世界大戦末期、戦局の打開を目指して、神風特攻隊が組織された。実際にはインパクトは大きかったが効果は少なかったという。

加害団体がだんだん勢いがなくなってきているような気がする。何よりも車による嫌がらせの数が減りつつある。あるいは数があったとしても軽自動車とか小型車とかが多く、かつてと比べ物にならない。やっているのかやっていないのかよく分からないときもある。

加害参加者たちが減りつつある、というあるブログでのうわさは本当だろうか。私には本当のように見える。「論より証拠」だ。

神風を期待しているのだろうか。

神風は吹くのか。第2次世界大戦のときには吹かなかった。いや、吹いたのは原子爆弾による「爆風」であった。

彼らは神風を祈って最後の一兵にいたるまで死に物狂いで戦うだろうが、吹くのは悪行三昧の教団に落ちる原子爆弾の爆風ではなかろうか。

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人質

2017年01月31日 | 日記
善良な人でも正義感のある人でも加害に加担せざるをえない状況があるように見える。
自分ひとりが害を被ったり、自分が死ぬくらいなら構わない、と思う人はいるかもしれない。しかし従わなければ妻や子供にも害を及ぼすとか、不幸に追いやると脅されれば、従わざるを得なくなる。

戦国時代や江戸時代には裏切りを防ぐ目的で人質を取った。だから武士たるものの妻や子供はいつでも死ぬ用意ができていなければならなかった。藩や主君のためには家族の命を犠牲にしなければならない状況があった。

立派に死ぬ、という覚悟は必要だと思う。妻子の命を思って嫌がらせに参加するなら、それによって苦しむ人が増えるのだ。そんなことを避けたければ、自分も妻子も死を覚悟するしかない。そこまでやるべきか。

高い志を持つ者、正義感を持つ者なら現代でもそのくらいの覚悟があっても良いと思う。家族で悪いことをして悪行の報いを受けるよりも、この世では苦しんだり不遇な目に会っても皆で天の国に行ったほうがましだ。

人は死ぬ。この世は過ぎ去る。

武士たちの志を持つ者たちがいなければこの社会は救われないことになる。



聖書にはひとり子を捧げる親の姿がいくつか見られる。

ひとつは旧約聖書のアブラハム。彼は独り子であるイサクをいけにえとして捧げるようにと神に命じられた。そしてイサクを連れて行き、手を縛ってナイフを振りかざそうとしたところ、神はそれを止め、アブラハムの信仰を認め、祝福を与えた。

新約聖書では独り子イエスが十字架上で息絶えるのを見る聖母マリアがいる。わが子の命乞いをしてもよかったのだが、キリストは人々の救いのために命を捧げるために来た、と語っている。そのために、母は独り子の十字架のもとで共に苦しむ道を選んだ。

また聖書によれば、神はこの世を愛してご自分の独り子(イエス・キリスト)を与えた、とある。与えた、という言葉の中に、命をも捧げた、という意味も入っている。

子供が死ぬのを見るよりは自分が死ぬ方がまだましだ、と普通は思う。子供を捧げなければならないつらさは、自分が死ぬ辛さよりもつらいのではないかと思う。

だから妻子の命を脅しながら、嫌がらせの加害に加担するようにとの要求に屈する人が多いのだろう。


嫌がらせに参加し、人を苦しめながら生きることだってつらいだろう。たとえお金をもらったとしても。

こんな世の中は早くおさらばして、妻子と共に早く神のみもとに行ったほうが良い、そんな考え方もある。

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偽りの改心

2017年01月21日 | 日記
人は死ぬ。この世は過ぎ去る。

嫌がらせをしている者たちは良心の呵責を感じないのだろうか。あるいは正義と信じているのだろうか。中には、悪いこととは知りながら、死ぬ間際に改心すればいい、と高をくくっている者もいるかもしれない。これは偽りの改心だ。

キリスト教では洗礼で罪が許されると説く。しかしそんな教義を利用して、悪いことをして、最後に洗礼を受ければいい、というずる賢いことを考えている人もいるに違いない。そうすればこの世をおさらばして神の前に行ったときには大丈夫、というわけだ。

これは神の恵みの悪用だ。
人が改心して悪いことから離れ、良い生き方をするためにこそ洗礼はある。しかし、悪いことをすべて洗い流してくれるありがたい方便として利用するものは、神の恵みにより頼む者ではなく、悪用するものだ。そんな人は許されないだろうと私は思う。善いことをするより、悪いことをするために洗礼があることになってしまう。神は自動販売機ではない。洗礼を受ければ救われる、というだけではなく、人の心の中の動機なども見るだろう。小賢しい計算はしないほうが良い。

またカトリックにはゆるしの秘跡というものがあり、かつては懺悔(ざんげ)として知られていた。司祭に罪を告白することで許される、とするものだ。
しかしこれに関しても同様に、悪用する者がありえる。悪いことをしても許しの秘跡を受ければ許されることをいいことに、悪いことを続ける。こうなると、ゆるしの秘跡は人が立ち直って新たに生きるというものではなく、安心して悪いことができるようになるための道具になってしまう。ゆるしの秘跡を知らない人よりも、安心してもっと悪いことができるのであれば、これは神の意思に反している。
こんな人は秘跡を受けても罪は許されないと私は思う。そもそもゆるしの条件として「まことの痛悔」というものがある。秘跡を悪用している人にはまことの痛悔はないのだから許されない。

こんな話を教会でしていると、上空にヘリコプター数機が飛来して、爆音を鳴らしながら威嚇した。

キリスト教徒の中にも嫌がらせに参加している人はいるようである。偽信者、成りすまし信者、信仰を失った信者、あるいは本当の信者であっても加害団体に脅しを受けたりだまされたりして加担させられている人などがいるように思える。

しかし神の恵みを悪用するなら、さらに重い罪になることを知らなければならない。

まことのキリスト教信者であろうとするなら、命や生活を脅されて加害に加担するのではなく、加害を拒み、死や苦しみを覚悟すべきだ。殉教だ。迫害や拷問を覚悟すべきだ。被害者たちは迫害を受け、広い意味での拷問を受けている。
覚悟する者に、神の助けはあるだろう。

さんざん悪いことをして最後に改心すればよいと考えている者は、改心ではなく計算であり、神の恵みを悪用するものだ。

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喜コンブ禁止令

2017年01月14日 | 日記
熱心だった元学会員のブログ『対話を求めて』に、2017年の新年勤行会の様子がいろいろコメントされていた。
面白いのは、毎年恒例だった「昆布」と「紅茶」のおみやげが今年はなかった、ということだ。ずいぶんケチな話だなとはじめは思った。財政的に苦しいのだろうか。

何よりも、なぜ「コンブ」なのだろうか。おそらく、縁起をかついで喜ばしい新年を祝って「喜こんぶ」のコンブではないか。

おせち料理も、一つ一つの品に意味があるらしい。たとえば黒豆は「まめに働く」とか、数の子も「子だくさん」とか何か意味があるらしい。昆布は「喜ぶ」の言葉にかけて正月の鏡飾りにも用いられる。無理やりに意味づけただけかもしれないが。

しかしなぜ正月の勤行会に昆布なのかというと、やはり日本人らしくこんな縁起を担いだのではないか。

さて、ではなぜ今年はコンブと紅茶がなくなったのか。会館はどんどん増えているのに、とコメントする人たちは愚痴をこぼしていた。

もしかして、「喜ん」ではいけないような事情でもできたのだろうか。

たとえば、何か不幸があって来年は年賀状を遠慮したいというようなときは「喪中はがき」を出すのだが、これは「新年おめでとう」と言えない心境だからだ。

昆布を出さなかったのは、もしかして「喜ばしい」と言えない何らかの事情があるからか。「喜コンブ禁止令」か。

誰かが亡くなったとか、危篤だとか、あるいは会として喜んではいられないような何らかの事柄が生じたからか。


あるいは単にお金がないからなのだろうか。

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地獄は存在する

2016年12月27日 | 日記
他の宗教もそうだと思うが、キリスト教では地獄が存在することははっきりとした教義となっている。何よりもキリストが何度もそれに触れている。

死んだあと人はどうなるのか、それを知ることによって、この世での生き方を考える上で大切となる。

とりわけ、ばれなければ違法なことでも犯罪的なことでもやってよい、と思っている者たちは、死後の裁きを考えることで、思い直すことがあるだろう。

神はすべてお見通しだ。人や社会にばれなくても、神は細かい所まで、また人の心まで全部お見通しだ。

人は死ぬ。この世は過ぎ去る。人はみな神の裁きを受ける。善を行ったものはその報いを受け、悪を行ったものはその報いを受ける。天国と地獄だ。最近はそんなことを教える親も教師も少なくなったから、そんなものはないと多くの人が思っているかもしれないが、死後どうなるかは誰も知らない。

そもそもなぜ人はこの世に存在するのだろうか。そのような人類共通の根源的な問いに直面して、人は、人を超える存在について考え、宗教心が生まれる。

私はキリスト教徒だから、その教えにそったことを一つの考え方を書きたい。

地獄は存在する。それは永遠だと聖書は教える。永遠の苦しみ、責苦。加害者たちが人に対してやってきたように、自身がやられる。

生と死の境は紙一重。
先日、建設現場の足場作業員が、電線に触れて感電死したニュースがあった。若者だ。足場作業員による嫌がらせはよく見られる。
またロープウェイ作業員が挟まれて死んだ。これも20代の若者だ。
若死にもある。死はまだ先の話だと侮ってはならない。いつ来るか分からない。

嫌がらせをしていると、自分の方が死んだ、ということにならないよう注意しなければ、そのまま地獄に直行ということになるかもしれない。天災も天罰もいつ来るか分からない。

いつ死んでも神の裁きに耐えうるような生き方をした方がよい。

もし急死して、そのまま裁きを受け、地獄に行くとしたら大変だ。

このように考えるとき、ばれなければ人に嫌がらせをし、金をもらい、違法なことや犯罪に加担するというような生き方はできないだろう。

死んでからのことはわからない。しかし死んでから分かったでは遅い、ということにならないようにしなければならない。

これらの嫌がらせは我らの正義なのだ、最高の真理のために仏敵退治をしているのだ、と言ったって、本当に相手は仏敵なのか、こんなやり方はおかしくないのか、これでお金をもらうということは変でないのか、など考えなければならないだろう。

このようなことを最終的に命じておられるお方は今どこにいるのか。どうなってしまっているのか。本当に正しいのか。なぜ数年間も姿を見せず、お得意の顔相を会員たちに見せて安心させようとしないのか。恐怖で顔が引きつって、お得意の特殊メイクでも効かないというようなことでもあるのだろうか。教団を犯罪団体、詐欺集団に仕立て上げた先生に対し、仏さまは憤っていらっしゃるのではないか。

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