わたしの心 

日々の出来事・感動などを日記にして公開したいと思います。
(管理人:Mrs.modest)

時そば

2024年01月09日 | ミニ知識

今日のオンライン講座「音読・声の表現教室」の課題は、「時そば」(落語)から。
フリーアナウンサーの久林純子先生による定例メンバー5人での講座。
この落語は知っていましたが…。
改めて、かの有名な名人柳家小さん(五代目)による「時そば」をYouTubeで見つけ、鑑賞してみました。

ある夜、客がそばの代金を1文ごまかしたのをみていた男が、同じことを試してみることに。
ところが、まずいそばを食わされたうえに勘定を4文も余計に取られてしまうというお話。

講座では、ト書き係・そば屋A・B、お客A・Bと担当を何パターンか変えて、読み合う。
それぞれがその気になって、とても盛り上がり、今年最初の講座は本当に楽しうございました。

「そばは、いくらだい?」
「へえ16文頂戴します。」
「16文。ちょいと待ってくれな。え~銭が細かいんだな。手ぇ出してくんねえか。」
「へえこちらに頂きます。」
「いくよ。ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな、やあ、そば屋さん今何時だい?」
「へえ九つで。」
「10,11,12,13,14,15,16」

お後がよろしいようで~ちゃんちゃん

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おしら様からの東北弁

2023年12月16日 | ミニ知識

12/12(火)はオンライン「音読・声の表現教室」の日でした。
題材は、私のリクエストから東北弁を使った民話から「オシラさま」(宮城県)。
予備知識としておしら様について調べてみました。

おしら様(おしらさま、お白様、オシラ様、オシラサマとも)は、日本の東北地方で信仰されている家の神であり、一般には蚕の神、農業の神、馬の神とされる
茨城県などでも伝承されるが、特に青森県・岩手県で濃厚にのこり、宮城県北部にも密に分布する
「オシンメ様」「オシンメイ様」(福島県)、「オコナイ様」(山形県)などの異称があり、他にオシラガミ、オシラホトケ、カノキジンジョウ(桑の木人形)とも称される。通常、伝承やそれに伴う儀式、信仰している各集落や町内、家族や親族間の中だけで秘密裏に執り行われることが多く、他者やメディア等へ詳細を明かすことが忌み嫌われている地域も多く存在するため、未だに解明されていない部分が多い。(Wikipedia 調べ)
 

ところが…。
『千と千尋の神隠し』に出てくるおしら様(大根の神さま)(下画像)は、紹介されているものとはちょっと違う。
一説、青森県など東北で信仰されている家の神様としての「おしら様」だそうで。
木で作られた人形のようで、蚕の神さまや農業の神様として昔から有名。
また、女性や子供に優しい神さまだと言われています。(インターネット調べ)
 

東北弁を交えての音読。
参加者は、私を入れて6名。
それぞれが個性豊かな表現方法での音読で、とっても楽しくあっという間の1時間でした。
「先生!おもしぇがった。ありがとない。」(私のふるさと福島弁)

実は、方言について色々調べている内に面白い本を見つけました。
それは、「東北おんば訳 石川啄木のうた」(編著:新井高子 未来社)
これがとっても面白い
是非一度手に取ってみてくださいな。
(例)
 ・「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」
             ↓
  「東海(ひんがす)の小島(こずま)の磯(えそ)の砂(すか)っぱで
   おらァ泣(な)ぎざぐって 蟹(がに)ど戯(ざ)れっこしたぁ」

 ・「働けど働けど なおわが生活(くらし)楽にならざり じっと手を見る」
             ↓
  「稼(か)せぇでも稼(か)せぇでもなんぼ稼(か)せぇでも楽(らく)になんねァ じィっと手(て)っこ見(み)っぺ」

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鞠とぶりきの独楽(こま)

2023年09月22日 | ミニ知識

先日(9/19)受講した音読の課題文(八木重吉詩「まり」)。
予習を兼ねて、八木重吉の詩について調べてみました。
八木重吉の未刊詩篇の中で「鞠とぶりきの独楽」は、日本近代詩の貴重な成果である傑作。
この「まり」は、「鞠とぶりきの独楽」の中の一部。(太字部分)

詩人八木重吉の詩は不朽(ふきゅう)である。このきよい、心のしたたりのような詩はいかなる時代にあっても死なない。
(中略)結局八木重吉といふ詩人の天から授かった詩的稟性が、人生の哀しみに洗われ、人生の愛にはぐくまれ、激しい内的葛藤の果てにやつと到ることの出来た彼独特の至妙な徹底境に、一切の中間的念慮を払いのけることが出来たからであろう。(「定本 八木重吉詩集」の「序」 高村光太郎著)

以下、「鞠とぶりきの独楽」の一部

** 憶 え 書 **

鞠とぶりきの独楽 及びそれよりうえにとじてあるのは、皆 今夜-(6月18日の夜)の作 なり。
これ等は童謡ではない。むねふるえる日の全をもてうたえる大人の詩である。
まことの童謡のせかいにすむものは こども か 神さまである。
真理のほかに
まだほかの真理がある
みないで
それをしんじうるものはさいわいである

いろいろな
世界があることはたしかだ
ひとつのもの 鉄でさえそうだ
くされた鉄があり
やくにたつかたい鉄があり
とけてぷるぷるふるえる
「鉄よりも鉄」の鉄がある

じごくがあり
てんごくがあり
にんげんの世もある
みえたりみえなかったりする

てくてくと
こどものほうへもどってゆこう

こどもがよくて
おとながわるいことは
まりをつけばよくわかる

あかんぼが
あん あん
あん あん
ないているのと

まりが
ぽく ぽく ぽくつかれているのと

火がもえてるのと
川がながれてるのと
木がはえてるのと
あんまりちがわないとおもうよ

ぽくぽくひとりでついていた

わたしのまりを
ひょいと
あなたになげたくなるように
ひょいと
あなたがかえしてくれるように
そんなふうになんでもいったらなあ

ぽくぽく
ぽくぽく
まりを ついてると
にがい にがい いままでのことが
ぽくぽく
ぽくぽく
むすびめが ほぐされて
花がさいたようにみえてくる

かんしんしょうったって
なかなか
ゆう焼けのうつくしさは
わかりきらない
わかったっていいきれない
ぽく ぽく
ぽく ぽく
まりをついてるとよくわかる

まりを
ぽくぽくつくきもちで
ごはんを たべたい

ぽく ぽく
ぽく ぽく
まりつきをやるきもちで
あのひとたちにものをいいたい

まりと
あかんぼと
どっちもくりくりしてる
つかまえ どこも ないようだ
はじめも おわりも ないようだ
どっちも
ぷくぷく だ

ひいとおよ
ふうた
ふうたあよ
み いい
ぽこ ぽこ ぽこ ぽこ
ぽこ ぽこ ぽこ ぽこ
まりをついてると
いったい
数というものが どうして できたか
なぜ 数というものは あったほうがいいんだか
そんなわけがらが
ほんのりと わかってくる

色は
なぜ
あるんだろうか
むかし
神さまわ
にこにこしながら色をおぬりなされた
児どもが
おもちゃの色をみるようなきもちで

川をかんがえると
きっと きもちがよくなる
みるより
かんがえたほうがいい
いまに
かんがえるように
みることができてこよう
そうなれば ありがたい

おもちゃに
むちゅうになってたら
なにも かも
おもちゃに みえてきたぞ
おかしいことには
なにも かも ちいさくみえて
おもちゃばっかり 巨きい

ひとりでんに
できたものといえば
おそらく
まりだろう

こまというものは
鞠の うえしたが とんがったんだ
まりの しんるいだ
すこし
かんじはするどい
やっぱり こまのほうが
神さまにちかいかな

いいもの
みつけた
あった あった
まりがあった

まりは
ぽこ ぽこ ぽこ ぽこ ぽこ ぽこ
わたしも ぽこ ぽこ
ぽこ ぽこ ぽこ ぽこ

まりに
あきたら
独楽と ゆこう
こまにあきたら
まりと ゆこう

だあれも
人のみてないところで
おもいきり人のためになることをしていれぬものか

きりすとを おもいたい
いっぽんの木のようにおもいたい
ながれのようにおもいたい

柿の花が
柿の木のまわりに落ちていた
ぱらぱらとちらばっていた
その日は
桃子にきつくほほずりしてねむりについた

いても
たってもいられない
はなしてもだめ
ひとりぽっちでもだめ 
なにかにあぐんとくわれてしまいそうだ

森へはいりこむと
いまさらながら
ものというものが
みいんな
そらをさし
そらをさしてるのにおどろいた

おおきな河のうえを
夜の汽車でとおる
むこうのほうにも
橋があるらしく
いちれつの灯がかわにうつって
ひとつびとつ
ながい ながいひかりにたっている

たかい たかいところからみていたい
おこるどころか
じぶんは
とろっとろと
熔けてしずかにふるえながら
なにもかも美しいみたいものだ

ひるひなか
ひろい庭のまんなかに
からからになって
しかもまるくつるつるした
いっぴきの蛙がひっくりかえってた

ゆうぐれ
まっ青なはらっぱで
狂人がすわりこんで
たばこをふかしていた
空気までまっさおなはらっぱだった

いいゆうやけだ
じっと みていると
かすかに
くもは うごいている
そらがうごいているようだ
空いちめんうすくれないとみどりだ

ま り
なにがいいかって
やっぱり
鞠はいとのまりがいい
おおきくてかるいのがいい
ぽこぽこしていて
ぶっつからぬさきにはずむようなのがいい

おもちゃ
おもちゃよ
おもちゃよ
たんとあれ

思いがけず、この詩と出会い八木重吉にはまりそうです。

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オノマトペについて

2023年02月26日 | ミニ知識

昨日(2/15)は、日本語の光と影「オノマトペと日本語」のオンライン講座がありました。
講師は、加賀野秀一先生(中央大学名誉教授)
・オノマトペ(擬音語・擬声語・擬態語)
・日本は、世界一のオノマトピア(オノマトペのユートピア)=加賀野先生の造語
・外国語に翻訳は困難。日本語独特の表現
(例:雪がシンシンと降り積もる。
   月がコウコウと照らす。
   音のしない様をシーンと表現する。)
・ニュアンスの違い
(例:「二コリ」「ニコニコ」 長さ、連続性
   「ニコニコ」「ニタニタ」 良い、悪い
   「アッサリ」「サッパリ」 対称性、主観性)

1時間半ほどの講座でしたが、新しい発見があったりで…。
その内、スシ(Sushi)・カラオケ(Karaoke)のように、日本の一部のオノマトペが世界共通語になるかも。

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wegとWegの違いとドイツの住所

2022年07月22日 | ミニ知識

先日(7/14)の「歌で楽楽ドイツ語講座」での収穫。
課題曲は、「Bei Mü llers hat's gebrannt」(2番)。

Da war mein Name weg,weg,weg. 
(そこで、私の名前は消えた消えた消えた!)
 おまわりさんに職務質問され、私の名前を書いたリストが泥の水たまりに落ちて…。

・weg:小文字で始まる" weg "は「ヴェック」と発音する副詞です。
   =away    消えた、なくなった
・Weg:大文字のWではじまる "Weg" は「ヴェーク」と発音する男性名詞。
   =way 道、方法
 だそうです。単語の始めが小文字か大文字かで意味が違う!

キャピトニム(英語: capitonym)は、語頭が大文字と小文字とでは意味(と場合によっては発音)が変わる単語のことである。 
言語における語頭の大文字化規則によって、キャピトニムのペアの数は変動する。
たとえば、一般名詞の語頭を大文字にする規則のあるドイツ語では、Lautと lautや Morgenと morgenに代表されるように、数多くのキャピトニムが存在する。
だそうです。

実は、キャピトニムなるものを知りませんでした。(日本語にはないんで…)
先生のお陰で、weg・Wegをきっかけにまたまた知識が増えました。(私のことですから、少ししたら忘れてしまうんでしょうけど…)

それから、ドイツの住所について―
ドイツの住所はどこでも「通り名」+「番地」のみとルールが明確なので、地図があれば簡単に確実に目的地に着ける。
どんなに細い道でも、ドイツの道には必ず名前がついています。
「○○ Straße(もしくは Strasse=シュトラーセ=道路)」「○○Allee(アレー=並木通り)」等、いくつか呼び方のバリエーションはありますがとにかく名前がついていて、それがきちんと全ての道の端に表示されています。
 
Oranienstraße(オラーニエン通り)の15~18番地がこの標識から左に向かって順に並んでいるということ。
右手の、Mariannenstraße(マリアンネン通り)のほうには7,6,5,4番地の建物が順に並んでいることが、この標識だけでわかります。
  (以上、「地球の歩き方」より)

美和子先生の「歌で楽楽ドイツ語講座」を始めて早3年目に突入
ドイツ語はちっとも上達しませんが、毎回楽しい時間を与えてもらって、ドイツに対する知識も増えて、益々ドイツが好きになっている今日この頃です。

Miwako Danke!Ich liebe dich

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「モモ」を学ぶ

2022年05月27日 | ミニ知識

先日(5/21)は、ミヒャエル・エンデ「モモ」の講座(15:30~17:00)を受講しました。
講師は、酒寄進一先生(和光大学教授)
作品「モモ」と作者である「ミヒャエル・モンデ」について深く掘り下げ、私が知らなかったこと等を、色々教えていただきました。
前もって資料をいただいていたんですが…。
時間の都合上、かなりの駆け足でやっていただいたので、残念ながら消化不良気味に終わってしまいました。

【講座内容】
・聞く力と語る力
・エピグラフ「Im Dunkel scheint dein Licht.…」(ドイツ語)アイルランドの旧い子どもの歌より
      「Twinkle,twinkle,little star.…」(英語)Jane Taylor作の歌。=「きらきら星」
  物語の前にイギリスの詩人ジェイン・テイラーが1806年に発表した『ザ・スター』が引用されている
  エンデはこれを「アイルランドの旧い子どもの歌」とし、テイラーの名は記していない
  岩波書店版(大島かおり訳)の詩そのものは、武鹿悦子による有名な日本語訳詩「きらきら星」ではなく独自の訳である。
・メルヘン小説
・言葉遊び(1)
・物語ること
・言葉遊び(2)
・量と質
  以上。

やはりこれだけのことを一時間半で教えるのは無理だったようで。
大学での講座では、6回に分けて進めて行くそうです。
因みに、この講座の続編を希望したんですが…。
それから、講座中に先生が盛んに薦めてくださった「サーカス物語」を早速読んでみようと思います。

〖ミヒャエル・エンデについて〗
画家のエドガー・エンデを父にもち、、第二次世界大戦中は召集令状を拒否して逃亡、反ナチス運動に参加しました。
シュタイナー学校で学び、さらに演劇学校で演劇を学んだのち、戯曲、詩、小説の創作活動に励みます。妻で女優のインゲボルグ・ホフマンと15年間イタリアで暮らし、彼女の死後は再びドイツに戻りました。
4年後に『はてしない物語』の日本語訳者、佐藤真理子氏と再婚、そして65歳の時に胃がんのためこの世を去りました。
長野県信濃町にある黒姫童話館は、世界の童話をテーマとした博物館ですが、ここには2000点以上のエンデの作品資料が本人の手により寄贈され、常設展示されています。
ドイツの博物館ではなく、なぜ日本の博物館に?
これはひとえに、エンデが日本と深い繋がりを持っているためなのです。
エンデの世界観は、ゲーテやシラー、ノヴァーリスなどのドイツ古典文学はもちろんのこと、シュタイナー、カバラ、荘子といった様々な思想や文化、哲学から影響を受けていると言われています。さらに日本文化からの影響も大きく、幼少時代から、ギリシア生まれの日本研究者・日本民俗学者小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)を愛読しており、日本への憧れを持っていました。そして、禅、弓道、歌舞伎、能といった日本文化をたしなみ、深く理解しようと試みており、来日の際にも禅宗の老師との対談を行ったり、歌舞伎座・能楽座へも訪れ、その経験はエンデの作品にも影響を及ぼしています。
たとえば、『モモ』の作中でのベッポとモモの会話には、禅の思想を反映している部分もあります。
また、1985年には、バイエルンの方言を用いた演劇『ゴッゴローリ伝説』を発表していますが、エンデ自身は、この作品は歌舞伎の要素を、バイエルン地方の方言をもって作り上げたと述べています。
エンデは、日本語という、ドイツ語とは全く違った言語と文字をもつ日本に対して、独自の視点のを見出していたようです。
さらに、エンデの思想の根底には、自然科学的思考や物質主義的な現代社会への批判が見られ、未来への危機を“文明砂漠”と読んで、作中の中でも警鐘を鳴らしています。
       (以上、インターネット調べ)

ところで、「モモ」の作中の言葉で好きな個所が―
「光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。
 そして、もしその心が時間を感じ取らないようなときには、その時間はないもおなじだ。」

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百ヶ日法要

2022年03月19日 | ミニ知識

先日(3/16)、義父の百ヶ日法要がありました。

百ヶ日法要とは―
故人の忌明け後の初めての法要。
100日後に行なわれるものです。
死後100日も経つと土葬では白骨化するため、百ヶ日で死者の魂が肉体を離れるとも信じられていたと言います。
百ヶ日は卒哭忌(そっこくき)とも言われています。
哭は声をあげて泣き悲しむという意味ですから、そうした悲しい気持ちを卒業して、一区切りつき、明日からの毎日を生きて行こうという日でもあります。

その後、義父の遺産相続等の話し合いが持たれました。
五人兄弟となると色々と難しい問題も出てきて…。
早く解決してほしいものです。(因みに、私は三男の嫁なので余り関係はありませんが)

「おじいさ~ん早く解決するように天国から意見をしてやってくださ~い

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アイアイについて

2022年02月19日 | ミニ知識

ドイツの方々との「うたう会」。
日本語は、「しあわせならてをたたこう」「アイアイ」「いっぽんでもにんじん」。
ドイツ語は、「Backe backe Kuchen」「Wenn du glucklich bist dann klatshe in die Hand」(しあわせならてをたたこう)

アイアイについて
アイアイはアイアイ科アイアイ属に分類される動物です。別名「ユビザル」。
生物学上はキツネザルなどの仲間とされていますが、その見た目は童謡のようなかわいらしさは皆無です。
アイアイは、生息地のマダガスカルで悪魔の使いとされてきました。
その理由は不気味な姿と生態から来ていると考えられています。
アイアイは絶滅危惧種に指定されています。

因みに、ドイツでは
「Aye aye !」は、了解しました!
だそうです。

 
最後の記念撮影には、マリスさんの愛犬「ユミちゃん」と私の愛犬「ナム」も加わり、いつもの和気藹々とした楽しい雰囲気での「うたう会」でした。
良かった良かった~

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明鏡止水とは

2021年10月08日 | ミニ知識

SNSで「明鏡止水」という言葉を見つけ、さっそく調べました。
明鏡止水とは、邪念ややましさがなく、落ち着き払っているという意味のこと。
明鏡止水の語源は、「明鏡」と「止水」の二つの言葉が組み合わさってできた四字熟語であり、中国古典「荘子」の「徳充符篇」に由来した言葉である。
明鏡止水の「明鏡」は、よく磨かれた鏡には汚れも垢も付かないが、汚れていれば塵や垢が付いて曇ってしまい、物事がはっきりと見えなくなってしまう、という意味の文章からきている。
「止水」は、人は流水を鏡として使わず、止まった水を鏡にする。
不動の心を得た者だけが、心の安らぎを求める人にそれを与えることができる、という意味の文章からきている。

明鏡止水を英語で表現すると、clear and serene や amind as serene as a  polished mirror のように表現される。
明鏡止水という言葉そのものを表すのではなく、澄み切った、落ち着いた心のことを表している。

明鏡止水の類語として、「虚心坦懐」や「星雲秋月」などが挙げられる。
「虚心坦懐」には、心にわだかまりがなく、落ち着いていることの意味があり、「星雲秋月」には、汚れなく、澄み切った心のことを指している。
対義語には、「疑心暗鬼」や「意馬心猿」が挙げられる。
「疑心暗鬼」は、一度疑い始めると、全てに不安や恐怖を感じることのたとえであり、「意馬心猿」は、煩悩や欲情などで心が混乱して、落ち着かないことのたとえである。
   (以上 インターネット調べ)

今のこの世の中、「星雲秋月」のような心を持っていたいものです。

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うろこ雲・いわし雲・ひつじ雲

2021年09月30日 | ミニ知識

昨日(9/29)の夕方の空。
うろこ雲orいわし雲orひつじ雲?
 
 

昔からよく言われていることわざに、「うろこ雲は雨」という言葉があります。
実は、うろこ雲は、小さな雲のかたまりが、空の高い位置で広がっているもの。
うろこ雲の1つ1つが大きくなってきていたら、天気が悪くなるサインです。
雨を降らせる雲が近づいてきているんです。

「うろこ雲」と「いわし雲」は、実は同じ雲の別名です。
どちらも巻積雲の一種で、上空の高いところに発生する雲です。
水平線から30度以上の角度のところに見えます。
手を伸ばして人差し指もしくは小指を立てた時に、1つ1つの雲のかたまりが指1本に隠れてしまうくらい小さい雲だったら、「うろこ雲」「いわし雲」です。

「ひつじ雲」は、高積雲の一種で、うろこ雲(いわし雲)より低い位置に発生する雲です。
うろこ雲(ひつじ雲)よりも1つ1つの雲のかたまりは大きく、手を伸ばして見た時に雲のかたまりが指1本に隠れない大きさであれば、「ひつじ雲」です。

上空にある雲は、うろこ雲→ひつじ雲→乱層雲(雨を降らせる雲)という順に形を変えながら移動していきます。
「うろこ雲が大きくなってきた」というときは、雨雲が近づいているということ。
これから天気が下り坂になって雨が降る可能性が高くなるそうです。

今日の雲は…?
 
午後から、雨とか。

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