今日は17日、バンコク最終日、明日早朝バンコクからチェンマイへ飛ぶので、最初から今日、スラム街はUPしようと思っていた。きちんと整理をして別立をしたかった。
ですので、日付がbackdateしてます。
あくまで自分の備忘録なので、このスレッドは楽しいものではありません、よって、すっ飛ばしてもらってかまいません(^^。
午後14時、コンドミニアムロビーにてpick up。
服装は長袖長ズボン、貴金属や化粧もなし、バッグも持たない、髪の毛はしばる、靴はスニーカー。当たり前の事だが、重要なこと。もともとタイにきてからは化粧はおろか貴金属もなにもしていない、半ズボン、タンクトップの毎日。なので、別途、 寺院用に用意していた長ズボンと薄手のシャツを羽織ってでかけた。
既に同行してくれる日本人同行者Y氏とタイ人ガイドBさんと運転手がワゴン車に乗っていた。
簡単な挨拶を車中行いながらクロントゥーイ地区へ向かう。
多少の渋滞はあったが40分ほどで入り口へ到着。
入り口のすぐそばにNGO団体の事務所があり、そこへ入るようにと。
入ると日本人スタッフが1名と日本語が話せる現地のスタッフが迎えてくれた。
ここで現地スタッフと警護が1名乗車するという。
現状の説明や注意事項を聞くこととなった。
いくつかのNGO、NPO団体はあるのだが、今回メインとなるのはSVAシーカーアジア財団と公益社団法人シャンティ国際ボランティア会の方達。
このクロントゥーイ地区を拠点に、タイ国内に100を超えるスラムを管轄しており、同時にミェンマーからの移民保護、教育活動もしている。
まずは入り口から入った印象を聞かれたので、率直に、想像よりははるかに整備されていてバンコク繁華街の路地と変わらない印象を受けた、と答えた。
M氏はにっこり笑って、ここ数年で表向きの整備はだいぶ進んだ、ただしこれはタイ政府による諸外国のアピールもあるし観光客誘致のために隠そうとしている思惑が強いという説明をしてくれた。『 よく見てください、このエリアは鉄線がはりめぐらされ、草木でおおわれているんです 』 と。 『 街の光景とは違うんですよ 』 と。
実際に暴動前まではここの入り口近辺は観光ルートになっていた時もあります。観光することでスラムの資金になったからです。タイのツアー会社が勝手にやっていたのですがトラブルが頻発して、今はやってるところはありません。ですが、入り口付近だけなら普通の観光客も入れるでしょう、と。
現状は、もちろん表向きだけではなく教育活動や就職や技術訓練など、成果もでているのも事実、日本をはじめ諸外国の援助のもと10年前と比べれば格段によくなっている、と。
その後1時間くらい説明や質問、疑問、相手の話、自分の話、いろんな話をした。
これから行くところはこの入り口から車で5分くらい中へ入ります。そこから降りて歩くことになります。注意事項としては、カメラは持参OKだが、撮る前に必ず許可をえてください。ほとんど撮るのは難しいかもしれません、勝手に撮るとトラブルが起きます、ヤバいなと思う人がいたら目を合わせず通り抜けますから話かけたり凝視しないでください。ヤバイな、というのは見ればすぐにわかりますので大丈夫です。会話は日本語にしてください、タイ語英語は意味が通じてしまいます。
外国には発信されないいろいろな事実を聞いた、返答に詰まり絶句することもあった。
スラム街だけではないが、拳銃やドラッグは無数にある。
売春の現状、子供の売買、HIV、ポリスとマフィアのボスがつながっているのも事実で、それは誰もが知ることだという。タイの警察は警察ではない、と言っていた。
数分走ると急に光景が変わった。なんだろう、街に色がない、グレーを中心とした汚いトタンと壁しかない、色があるのは中古のバイクの色だけ。
車が止まった。ここからはワゴン車は入れませんので歩いていきます、と。
ゴミの川の近くの湿地帯に無数の長屋のような建物が並ぶ、路地は1メートル強くらいしかない。数年前に配管が通ったらしいが、ほとんどが壊れたまま放置、汚水の中に無数のゴミ。
なんとも言えない異臭がただよう。
入り口で聞いた様々な話を現状を頭に叩き込んで歩いた。
写真はほとんどない、また、写真をとりにきたわけではないので、自分の目で事実をちゃんと見ようと思った。もちろん、、載せられない写真もあるので、可能なものだけのせます。
カラーで撮ったのですが、リアルなものもありはっきり出せないので、色をおとしました。

スラムの中にある小さな線路、この地区は広いので歩けない年寄りや病気の人が乗ったり、街で拾ってきたゴミを使うために運ぶトロリーだそうだ。

数日前にこの奥に赤ん坊の死体があった。

その隣の家、ゴミ捨て場ではない、住んでいる。


路地に入る、これはスラムの中でも裕福な家だそうだ。

道路脇の機能しない排水溝と、家。
写真の中で探せないと思うが、注射器がおちている、使いまわしのドラッグ。

ここはHIV末期の老人が住んでいるとの事、ドラッグの常習でもあるため、出られないようになっている。

小さな植木があり、撮影可能といわれたが、路地からまずい感じの人がでてきた、スタッフに止められた、指が写っているのはそれ。トラブルにはならなかった。

突然のスコールで立ち往生、軒先をみつけて雨宿りをすると、この家のお母さんが、笑顔で 『 入りなさい 』 と言ってくれた。
ガイドが、ここは大丈夫なので少しスコールが落ち着くまでいさせてもらいましょう、と。
子供が3人いた。写真は恥ずかしがってとらせてくれなかったが、一番下の子が最後にでてきてじっとこっちをみていた。父親はドラッグ中毒で数年前に死亡。
雨は降っているが、小ぶりになったのと、路地の汚水が溢れるとまずいので、急ぎましょうとでることに。

この子が見送ってくれた一番下の子。

雨でところどころぬかるんできた。
ここの脇の下水にも無数の注射器があった。

ここの雨の中、路地を進む、クネクネしていてどこにいるのか、どのくらい歩いたのかもわからない、右の写真のトタン壁の奥は以前、人身売買で使われていた場所だという。

ここはスラムの13歳前後の子達が夜な夜な固まってたむろする場所。
言葉は適切ではないが、非行に走る直前の子達の溜まり場。
14歳をすぎると夜のバンコクの街に出てしまうそうだ。
1時間半くらい歩いて車へ戻った。
暑さと異臭とスコールと現実をみた直後だった為か黙ってしまっていたのだろう、
現地スタッフが笑顔で、『 次は学校と施設に行きますよ。子供達が待っています 』 と。

左が小学校のようなもの、右が施設。
小学校の軒下で子供達が待っていた。
この学校と施設も日本の援助で建てられたから東北大震災の時にお礼がしたくてみんな募金をしたという。通訳を通しての会話なのでもどかしさを覚えたが、くったくのない笑顔と現実に涙がでそうになった。
・日本ってどんなところ?家族はいるの?お仕事なにしてるの?
・日本にはテレビとゲームがいっぱいあるんだよね?
・あのね4年前まではねアジアの子供が集まって踊りを踊ってみせる会があったんだよ、でもねお金がなくてやらなくなっちゃったんだよ、一生懸命踊りの練習をみんなでしてたんだよ
・大地震でどのくらいの人が死んじゃったの?私達も助けたいんだけどどうやって行くの?
30分くらいだろうか、いろんな話をした。
そのまま隣の施設に行った。図書館を見せてもらった。日本の寄付金で運営されている。

恥ずかしがり屋さんで、あまり話しをしないが、ずっとついてきてくれた女の子、7歳。
親は母親だけだが病気で働けずにいるらしい。
その子のお気に入りの本がこれ。

『 象のボタン 』 という日本の絵本。こっちのNGOが翻訳してタイ語でシールを貼っている。

学校にいた子が数人ついてきたのだが、これから ”だるまさん転んだ” をして遊ぶのだという。日本のNGOが教えたらしい。
一緒に遊んだ、何年ぶりかのだるまさん転んだをしたが、停止できない自分の年齢に苦笑いした。それを見て、大笑いする子供達の笑顔に一瞬救われた気がした。
その後もこの子達は遊んでいたので、図書スペースに目をやると、小さい男の子が笑顔でこっちをみていた。とっても笑顔のかわいい子

3歳の女の子。どうみてもハーフのような気がしたので、スタッフに聞いてみた。
タイ人と日本人のハーフ。母親は18歳、バンコクの売春で日本人相手にできた子供との事。
相手の居所なんてもちろんわからない、今日も昼からバンコクの街角に立っているという。
どうにも出来ないもどかしさと腹立たしさを感じた、だからといってその母親から売春を奪えば収入がなくなる、需要と供給なのはわかっているが、日本人として申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
夕方、17時、夜は危険なので、そろそろ帰ることとなった。
最後に、もう1つだけ、日本の寄付で建てられた裁縫場がある、見て行ってほしいと言われ
歩いて行ってみた。


タイ北部の伝統の刺繍があるのだが、北部の山岳部で作られたものをここに持ってきて
ここで裁縫して製品にするのだという。すべて手作り。
ここで働く女性は、売春ができなくなった年齢の女性。
でも、こうやって技術を教えてもらって働くことができて、ありがとう、といわれた。
写真をとってもいい?と聞いたら恥ずかしそうに、いいよ、と答えてくれた。
救われるような笑顔だった。
横に積み上げられている袋があった、PCケースの用だった。
今回持ってきてるB5の大きさのもの、買って帰りたいとお願いして、その場で売ってもらった。

大事に使おうと思った。
いよいよ本当に帰る、車に向ったら子供達がきた。
先週の土曜日に、みんなで私のためにロウソクを作ったのだという。
日本人の女の人だからきっとこういうのが好きだろうって、スタッフに相談して作ったと。
5年前のアジア国際子供交流会で、日本の鎌倉の海に売られていたお土産をもらって、作り方を教えてもらったそうで、それ以来、手作りで子供達が工作で作っているそうだ。

そして、最後に顔をだしていいよ、と言ってくれた現地スタッフの女の子26歳。
彼女はこのスラム街出身、一生懸命勉強して、奨学金と日本の援助でタイの国立大学まで行って頑張った子。今はこの施設とNGOの職員として、スラムをよくしようと頑張っている。

このあと、車にのり、18時にコンドミニアムについた。
既にUPした14日のブログにも書いたが、私はこの夜、豪勢な夕食をとった。
気持ちを切り替えて。
言い訳かもしれないが、自分の置かれている立場をきちんと理解したうえで、考え、行動をしなければならないし、ただ単純にかわいそうだから、では何も変わらない。
文章で書くのは難しいからこれ以上は書かないが、日本に帰国してから、動いてみようと思う課題がいくつか見つけることができた。
この記事の最初に北部の移民の話も触れたが、これは後日また詳細を書きます。
理由はその時にわかります。
今日の1日、私にとって、忘れられない時間となった。
また来てね、という言葉に嘘はないと思った、だから、いつか必ずまた来ると本当に約束した。
現地で動いていただいたり協力していただいた皆様に心から感謝します。
日本に帰国したらあらためてお礼のメールをさせていただきます。
ありがとうございました。