ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

普通とは

2016-10-17 16:28:49 | 日記
長女のチェリーに知的な遅れがあるということが分かったのは、チェリーが小学校へ上がってからだった。

それまでまったくわからなかったのかと言えばそうではなく、幼児の頃は他の子供たちを見ると怖がって輪の中に入ろうとしないとか、テレビの幼児向け番組にまったく興味を示さないとか、ストローで水分を吸うことができないとか、上の子とは違ったところがあった。

多少気にはなっていたものの健診でも引っかからなかったし、そんな子もいるのだろうくらいに楽観していた。

ところが同世代の子供たちがたくさんいる幼稚園に入ると、とても困ったことがおきた。

友達が作れないのは当然だが、毎朝、幼稚園へ行きたくないと大泣きされ、しまいに登園拒否になってしまった。

年少、年中の二年間はなだめすかしてなんとか通ったが、チェリーはあまり楽しそうではなかった。

しかし、二歳年下の妹ピーチを同じ幼稚園に入れたところ、ピーチがいる安心感からか幼稚園最後の年長さんになった一年間は、やっと幼稚園を嫌がらずに行くことができた。

そして小学校入学。

幼稚園で心配の芽が膨らんでいた私は入学前に公的機関でチェリーを診てもらうことにした。

そこで知能検査をされた結果、問題なく普通学級に入ることができると言われ、ほっとして普通学級の小学校へ入学させた。

相変わらず、人の輪の中に入ることはできず、勉強も最初の頃はほかの子供との差はあまり感じずにいたのだが、そのうちできないことが増えていき、学年が上がるごとに周囲との差は大きくなるばかりだった。

なんとか他の子供たちについていけるようにと、私も夫も必死で勉強を教えたが、教えれば教えるほどに勉強嫌いになっていった。

そして私たち親が必死になればなるほど、チェリーは自らの殻に閉じこもって、勉強も学校もますます困難な状況になっていった。

今ならチェリーの気持ちを理解することができるが、その頃はチェリーをなんとかしなければいけない、なんとか普通にしなければ、普通になってほしいとばかり考えて焦っていた。

思えば「普通」という言葉、私はずっとこの言葉に縛られていたような気がする。

「普通」とは何か?

それは多数決をした場合、大多数の人が選ぶこと、または多くの人がしていることや過去から行ってきたなじみのあることだろうと思う。

だから、それを選ばなかったり、その基準から外れた人は「普通じゃない人」になってしまう。

そして、普通じゃないことイコール良くないことという暗黙のルールみたいなものがある。

そういう考えが生まれた時から世の中にはあったし、私自身そういうものだとずっと思い込んできた。

「普通じゃなくてもいいんだ」と思えたのは、チェリーを中学校の途中で特別支援に入れた時であり、特別支援に入ったことによって、やっとチェリーが学校という集団生活でリラックスして過ごせるようになったことがきっかけだった。

ところで最近読んで面白かった本に、非常に感銘を受けた文章があった。

それは、子供の頃からずっと「普通」という言葉に違和感を抱いていたという松岡弥太郎さん著書の「正直」という本。

一部抜粋させていただきます。

大人になって思うのは、普通からはみだすことは、自分を信じることであり、自分の中にある発見につながるということだ。
みんなと一緒という輪の中から抜け出し、自分の道を歩き出す。
年齢にかかわらず、これが自立であり、自分らしさを見つける旅の始まりなのではないだろうか。


実はこの本を読む直前に、チェリーのことではなく、「普通とは?」という問題に私は再び向き合うことになっていた。

そして、まさにグッドタイミングでこの文章に出会った。

この文章を読み、「これでいいのだ~!!!」そう思えた瞬間だった。







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