キルトの世界

キルトを始めて14年になります。刺繍を含めた、キルトを中心に日々感じたことを、述べていきたいと思います。

今月のキルト

2009-12-30 06:41:56 | Weblog
今年も、あと2日余りとなった。まったく、月日がたつのも、早い!!今年は、珍しく、今月半ばから、「クリスマスのキルト」を、創っていた。トップのみの完成で、また、仕上げて、来年のクリスマスの時期に、写真を掲載したい。あと、キルティングと、ビーズでキラキラした飾りを、つけたいと思っている。
 インターナシォナルキルトセンターから、「毎月のキルト」が紹介されるが、今月は、「Pot of flowers」だった。花瓶に入った花である。波上模様の葉や花のつぼみを持った「けいとうの花」を、表現しておる。キルティングは、ハンドでなされていて、アップリケの部分は、ミシンで処理されている。おそらく、19世紀項か、20世紀初めに、多くの合成染料で染められた、緑の生地を、使用している。日焼けして、カーキ色になり、生地が色あせている部分もある。そして、その世紀の性向ある、植民地時代のリバイバルでもある、赤や緑のアップリケキルトが、ほどこされている。実際、93のインターナショナルキルトセンターのキルトのうち、16のキルトが「リバイバルキルト」であり、その割合は、17パーセントであり、「植民地時代のキルト」とされている。
 毎月、いろいろなキルトが、紹介されているが、キルト作品を、クリックするとそのキルトの、詳細部分を、観察できるのも良い!と思う。
 今日の写真は、箱根からの富士山である。当日は、快晴で良い写真が、撮れた。




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アミューズミュージアム

2009-12-28 11:55:34 | Weblog
今年も、あと4日あまりとなった。1年が過ぎるのは、本当に早い!!昨日、キルト雑誌で紹介された、浅草の「アミューズミュージアム」に、出掛けた。浅草の浅草寺のすぐそばに、位置する。日本の和の文化を世界中から観光客が集まる、浅草の地に作ったそうである。オープニング企画展として、「布を愛した物語展」が、開催されていた。

 ☆重要有形民族文化財としての、「津軽刺し子着物」が、展示されていた。私も、刺繍の講座の中で、「刺し子の名刺いれ」を作ったことがあるが、とても根気の必要な手芸である。特に、藍の地に、布目を数えながら、刺していく作業は、辛抱!を、要する。着物のような、大きな面積に、刺していくのに、どれだけの労力を要したか!!津軽の寒冷地で、美しさと堅牢さを追求して、厳しい生活の中からも、努力した先人の人達に、敬意を表した気持ちになった。

☆次に、面白かったのは、幻の浮世絵の「ボストン美術館蔵・スポルディングコレクシォン」である。もともと、浮世絵が大好きなので、興味を持って、楽しめた。
この、美術館は、6500枚の、浮世絵のコレクシォンを保有していて、保存状態もとても良いのだそうである。江戸の風俗や文化や社会が読み取れる作品が、展示されていた。また、階段には、東海道の浮世絵版画が、飾られていた。

☆最上階では、裂き織りの、実演販売が、行われていた。古い機織機で実演されていた。余った布を、有効に利用できるので、エコにもつながると思った。

今日の写真は、以前に行った高尾山での、案内図板である。

マリーローラサン 女性芸術家として

2009-12-23 19:50:33 | Weblog
今年も、後残り少なくなってきた。パソコンを、ウィンドーズ7に、買い換えた。遅ればせながら、光回線に、変更した。快適に動作するので、気持ちが良い。
 かなり前のことだが、女性芸術家たちの話を、市民カルチャーで聴いたので、ここで述べたい。
 当日は、「マリー・ローラサン」についてだった。私も個人的には、彼女の絵が、好きである。彼女は、1883年から、1956年まで生きた。彼女の絵の特徴として、透感のある、甘い色使いと、単純な線が作る、複雑な空間が、特徴である。謎めいた憂いを含んだ多くの女性達を描いた。
 そして、日本の長野には、「マリーローラサン美術館」があり、日本人のフランス文学者の、堀口大学とも大変に親しかった。彼は、彼女の詩をたくさん訳している。彼女にとって運命的な出会いは、ギョームアポリネールとの出会いだった。彼女とアポリネールとの共通点は、2人とも私生児だという事だった。彼女の母親は、王侯貴族の愛人だった。22歳のときに、マリーローラサンを産む。彼女は、母が少女趣味の人だったので、家の中には、刺繍などであふれていた、綺麗な夢のある部屋で育った。
 彼女の生きた時代背景としては、1908年から、1918年までの、「ベルエポック」の時代だった。たくさんの若者が、戦争で亡くなり、一方女性達が、自信を持って、社会規範がゆらいだ時代だった。2人の恋は、5年間で終了した。彼女は、「磁器の絵付け」を通ったが、やがて、画塾に通いだした。ルーブル美術館での模写など、絵画制作に励んだ。
後に、彼女は、ドイツ人の画家と結婚して、男爵夫人となった。そして、ドイツとフランスとの戦争のために、スペインに亡命した。友人達とも会えない生活のために、孤独を感じて、「囚われの女」など、憂いを含んだ作品を描いた。
 養育環境は、芸術作品に、決定的な影響を与えると思う。
 甘い色彩の、優雅な感じを与える作品を、キルトでも、作りたいものだと思った。
今日の写真は、昔作ったトールペイントのお盆である。

12月に、入って

2009-12-14 07:35:06 | Weblog
今年も残り少なくなってきた。今、クリスマスのパターンの、キルトのトップを、創っている。何やら、雑用が多いので、あっという間に、時間が過ぎていく。
 先日の土曜日は、「名曲を生んだ都市の音楽史ー音楽を巡るヨーロッパ」の講座に行ってきた。当日は、大変熱心な、女性の講師で、17世紀のイタリアのナポリの話だった。いろいろ知らない話があって、面白い、話の内容だった。
 ナポリ王国は、外国の支配下にあった。当時のナポリは、土地柄、色々な人種の
るつぼだった。

特に、印象に残ったことは、コンセルバトーリォにおける、音楽教育だった。これは、ナポリにおける、孤児達の、慈善施設であった。これらの施設のうち、特に4つの施設で、優れた音楽教育がおこなわれた。それらの施設では、有能な音楽教師達が、存在した。無料で、宿泊と音楽教育を。行った。この施設の運営は、有力な貴族達の貴族達からの寄付や、喜捨(ほどこし)で、運営されていた。その代わりにに、葬儀やミサや、祝祭などに、生徒達参加させた。
 もともと、教会の中では、女性達が、声を出しては、いけない習慣があった。特に、印象に残ったのは、「カストラートの養成」だった。少年期に、声変わりの時に、手術でボーイソプラノの声にする、特別な訓練をして、養成される。オペラの花形でもあり、18世紀には、「宝」のような存在でもあった。ここで、養成された、人材は、ナポリだけではなく、ヨーロッパ各地で、活躍して、「ナポリ派」と呼ばれた。その中の1人の、ペルゴレージは、「奥様女中」の上演や、「スタバトマーテル」などの、作品を残した。

また、当日印象に残った」のは、「オペラセリア」と「オペラブッファ」の違いが解ったことである。前者は、金持ちや貴族が創った、宮廷やギリシャ神話を題材としたオペラである。一方、後者は、方言を使って、身近な生活に密着した、庶民のためのオペラである。後者のオペラが、18世紀には、オペラとしての地位があがり、宮廷でも、「オペラブッハ」が、上演されるようになった。

 今日の写真は、甲州街道で歩いた、「新府城跡」である。武田勝頼が、築城に着手した。上がる階段が、かなりきつかった!