中津川 オンブズマン・トーク

中津川市の市政を中心に内外の政治経済社会状況についてのトーク

明日からG7。

2016-05-25 20:28:06 | 日記

伊勢志摩一帯物々しい警護の元に明日から開会です。安倍首相は根回しに世界を駆けまわりました。

世界がアベノミクスでまとまるようにと。しかし根回しはあまり成功した様子はありません。

オバマさんはもう先が見えていて、退職後のための財産作りに関心がです。退職後ゆっくり回想記を書いて

たくさん売らなければなりませんから。イギリスの首相は、EU脱退国民投票で頭いっぱいです。イギリスはなんで

今頃なのでしょうか?  そんなに頑張ってみても、大英帝国には戻れないのに。メルケルさんも、この人は優しい

ので難民を快く皆受け入れて、難しい立場のようです。G7はいいから難民受け入れを頑張ってもらいたい。

あれやこれやで、安倍議長もそうはうまく行かない。南シナ海問題も一歩の解決もないでしょう。習氏の立場だって

「足元は?」と言ってあげたい。例の国際的な大税金逃れ   中国が最大の件数という報道があります。さもありなん。

ところでオバマ氏が終わった後広島へ行きます。ようやく。しかし被爆者たちとの話し合いはない。被爆者たちは

オバマ氏献花に招待されると言う報道があります。しかしオバマ氏は原爆資料館は見るそうです。それを見る限り

何かを言わなければならないはず。なにをのたまうか?重大に興味があります。またオバマ氏は今度の沖縄の女性

惨殺事件に一言なくてはならないはず。何にも触れなければ、オール沖縄は更に燃え上る。県会議員選挙の結果

は言うに及ばず、辺野古基地はもとより、沖縄の全基地が吹き飛ぶことの始まりだと思います。

今から1週間  わくわくですね。

 

 

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反民主主義時代  終わりの始まり

2016-05-23 07:31:28 | 日記

世界情勢はめまぐるしい。アメリカの大統領選挙  クリントン夫人が当選するでしょうが、アメリカの問題も世界の問題

も何も解決しない。勿論トランプだって面白くはあるが混迷を深めるだけでしょう。しかし、混迷が深まれば、解決に

近ずいたことになりますから、それもいいかもしれない。いずれにしてもドラマはこれからです。

G7が開催されると言うので、オバマさんが来ると言う。広島を訪れると言うことで、もったいぶったり、躊躇したり、 

 今はもうそんな時代ではないはず。広島でチャント時間をとって「原爆資料館」を正視しなければならないはずです。

ちょうどその時沖縄うるま市で、アメリカ軍軍属に若い女性が惨殺された。オバマ氏は詫びなければなりませんよ。

オバマ氏は日本中で詫びなければならないのです。大体戦後70年もこの日本に威張って大きな顔で基地を構えて

いることが、もう民主主義ではないのです。しかし不幸なこの事件で、辺野古の基地はもう出来ませんね。

大体新しい基地を作って100年も200年も居座ると言うのが厚かましく許されなく、民主主義ではないのです。

ではニッボンの防衛をどうするかという質問があるかもしれない。憲法にもとずいて「専守防衛」の観点で、日本の

精緻な技術で「地対空」のミサイルを備えればいいのです。日本国土を狙うミサイルはそれで撃ち落とすのです。

米軍に基地で居て貰う必要はない。

さてそれにしても近く始まるG7  安倍首相はかけづり回って、根回しをしました。 結果はさっぱりのようですね。

メルケルおばちゃん(原はフアンです)は 「借金だらけのニッポンはそれでいいの?」 と素っ気ない。

G6の皆さん  志摩のエビや貝は上等ですから、オドリや壺焼きを堪能してお帰り下さい。伊勢神宮なんかお参り

しなくてもいいですょ。

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原の 「立ち位置」を述べたことについて。

2016-05-19 10:20:13 | 日記

なんでこんなことを長々と・・・・結局 本来命をかけて人民の自由と解放のために闘わなければならないはずだった

のに、そのように闘えばこの85歳まで生きているはずがないのに、オメオメとのうのうと生きていることについての弁解

なのです。  それでも [ちいとはいいこともやりましたよ]  と。醜いですね。

立ち位置の話はもうやめます。それよりも皆さん昨夜のBS1世界ドキュメント ライバル対決 [カストロ 対 ゲバラ] を

ご覧になりましたか。

カストロの政治主義  ゲバラの革命  本当に胸迫るものがありました。ここに、ここ100年の問題が凝縮して居るよ

うな気がいたしました。この問題は中国の文化大革命の評価とその結果。それ以前には、中国人民解放軍について、

毛沢東が最大に信頼していた林彪将軍が階級制度を廃止した。だが林彪はクーデターを計画していたとして家族と

ソ連への亡命図らなければならなかった。機は墜落して砂漠の露と消えた。

林彪の夢のあと文化大革命だった。しかしそれもならなかった。この後革命幹部の子女は続々とハーバート大学に

留学するようになった。習近平の一人娘も。そしてさらにこの度のパナマ文書に登場してくるのです。人類の荷物は

限りなく重い。

 

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昨日の続き。 大阪高裁で敗訴して札幌へUターンして。

2016-05-16 22:54:46 | 日記

22〜23才から華々しく企業内の組合活動を始めて、いろいろやりまくって網走まで遠島になり、そこで裁判もやり、

大阪高裁で負けて、首になるのが嫌で、オメオメと家内を連れて札幌まで舞い戻ったのでした。そうして今度は

転勤命令取り消しの本訴をやるつもりでした。しかし会社は 「原君 君も40才になった。やるだけやった。もういい

ではないか。和解しょう」 を提案して来ました。  もう網走への帰任は解除する。札幌で営業をやってくれ。

会社を訴へたことについては、責任は問わない。その代わりに現在の役職(主任)ははく奪して、肩書なしのヒラ

社員だ。とするものでした。

原もさんざん考えました。20年近くも色色やってきて、40才になって確かにいささか疲れも覚えました。 それで

やむなく会社の提案をのんで会社と和解をしてしまったのです。札幌での仕事は取引販売店を巡回して、営業

の促進を図るという仕事でした。「地区担当」と呼ばれました。20店程の取引販売店を担当しました。

このことの状況を報告します。原はそうしたことで会社松下電器は一言でいえば「嫌い」でした。しかし零細な

取引店の店主達は大好きでした。松下電器に働く労働者と同じように結局は会社に「搾取」されている。従って

「同志」だと考えたからです。零細販売店のために出来ることを懸命にやりました。幸い中津商業卒で、企業会計

はお手のものでしたから、寝食を忘れて販売店の帳簿システム作りもやりました。販売店の中には原のことを

「スモール松下幸之助」と言っている人もいたようです。          

そんなことが半年程経つ中で、そうした取引販売店から  「今度来た 原 は素晴らしい。自分たちのために

本当にやってくれる。松下幸之助のやり方だ。その 原さんが40才にもなって ヒラ社員 というのはどういうことだ」 

の声が出るようになりました。販売店の店主と営業所所長がススキノで時々飲みます。その時必ず 原 のことが

話題になったようです。

そうした時営業所長は 「原君というのは、松下電器の中で一等悪い人間なのだ」  と言えなくなってしまった

ようです。そこでやむなく本社に対して何とかしてくれの要請をしたようです。本社労政も困ってしまって、当時の

ご用組合本部に 「もう原君をヒラで放っておくことが出来なくなった。処遇を任せてくれ」 とやったようです。

ご用組合本部もかっては敵のにっくき 「原」 ですが得意先が言うのなら仕方がないと言うことで、会社に任せた

ようです。お陰で原はヒラからいきなり課長代理。60才の定年時、退職金も企業年金も恵まれました。

60才定年で、この生まれ故郷に帰ってきて、数年で議員に出る羽目になりました。ある問題から「オンブズマン

新聞」を出し始めました。企業年金があったので、議員報酬を生活のあてにしなくてもよかったのです。

原のこれまでの活動の中で、組合時代に数年前後かけて、約7万人の非正規社員(臨時工)を正規化したこと。

それとこの札幌の取引零細販売店に「スモール松下幸之助」として支持された  この2つのことが忘れがたいし

内心の自慢です。これが過去と現在と将来の 原昌男  の立ち位置です。 そのつもりです。

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網走から会社不当労働行為に取り消し裁判  それに勝った。

2016-05-14 07:33:34 | 日記

昨日の続き、会社の「島流し」報復に、不当労働行為として取り消しを求めて裁判を闘いました。

首になるとまずいので、一応転勤命令は受け入れて、北海道網走に赴任しながらも  です。

この時「遠島になった」のは 原だけではなくて、 神戸大学卒の賃金部長三木氏は淡路島へ遠島。

東大経済卒 原野教育部長はなんと朝鮮海峡の対馬に流されたのでした。

そこで裁判を闘ったのは 私原だけだったのですが、網走ですから殆ど弁護士任せの裁判だった

のですが2年ほどの裁判の末、見事に勝ったのです。大阪地裁は原に対する転勤命令は

「不当労働行為」として認めたのです。それで会社に対して直ちに元職復帰を求めたのですが、

会社は大阪高裁へ控訴を理由に認めませんでした。それでやむなく自分で家内を連れて、費用

自分負担で大阪へかへってきたのです。そして元の職場へある日から出勤しました。

ところが会社は仕事も事務机もくれないのです。仕方がないので、オフイスの一角にあった

来客応接セットを勝手に占拠して、毎日新聞読みと本読みと、くたびれて居眠りで過ごしました。

時々の大阪高裁裁判をこなしつつでした。

こうして判決にもとずいてですが、勝手に出勤して事務所の一角を占拠して何年もやっていたの

ですが、そのうちに千葉県成田国際空港の反対闘争が起こり、その要員に自主参加しました。

現地の農家に泊まり込んで、学生たちと一緒にピケを組みました。機動隊が隊列を組んで迫って

きました。本当に怖かった。正直 逃げました。その後ろで学生たちが機動隊と乱闘し、何人も逮捕

されるのを見ながらです。我ながら卑怯でした。

だが3年ほどして大阪高裁の裁判は敗訴になりました。やむなく家内を連れて北海道に舞い戻りま

した。この後のことはまた。

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