福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

医療の時代と死生観(2) 幼少時から死が身近にあった

2015年08月22日 06時52分44秒 | 医療、医学
 私は昭和20年、盛岡市の郊外の医師の家に生まれた。
 私は生まれ落ちた時から幸運に恵まれていた。出生時2000gほどで弱々しい、活力の乏しい虚弱児だったらしい。この程度の体重でも現在なら問題ないが、戦時下でもあり、当時としては育たないことのほうが多いとされていた。

 当時は食糧事情も悪く、母乳の出も悪く、私は、成長が遅く、病弱で頻回に感染症に罹患し何度もなんども死にそうになったという。私の写真は小学校入学以前のはほとんどないが、2歳ほどの、祖母に抱かれた貴重な一枚は痩せこけたサルに似ていた。もし、医師の家庭で生まれていなかったなら、おそらくは育たなかっただろう、と中学生頃まで家族達からいつも聞かされながら育った。それだけ大変だったことだろう。
 私にとっては死の意味などわからなかった時から、死は身近な、親しみのある言葉であった。

 祖父は往診時になぜか私を連れて行くことがあった。
 当時、社会が貧しく、高齢者が医師の往診を依頼するのは死を迎える時であった。患者宅では死を迎えつつある高齢者が座敷に寝かされ、周りを家族達が取り囲み、その時間を待っていた。私が見たのはそんなに多くはないが、死を迎えつつある高齢者が苦しむ情況を一度も見たことはなかった。静かな死で「自然死」とうべきものであった。この時の在宅死の印象は、今でも理想的な死の姿として私の脳裏から離れていない。

 祖父も昭和31年在宅で死去、祖母は昭和40年岩手医大にて死去した。祖母の場合はもう時代が変わっていた。知らせを受け見舞った時には医大の立派な病室で、手足が拘束されに何本かの点滴が繋がった状況で治療されていた。

 私は昭和46年に臨床医としてスタートを切った。2年間宮古病院内科で、その後13年間秋大内科で主に血液疾患患者の治療に当たった。近代的医療、薬物医療が発展しつつあり、患者が死を迎えることは医療の敗北と考えられる様になった時代である。私もこの期間は、多少の矛盾を感じつつも、患者が少しでも長く生きられるよう、積極的な、攻めの医療でで治療した。それが医師の務めであり、患者のためと考えていた。

 私がより思想と考えていた在宅死、自然死などは話題にもならなかった時代である。私の中では二つの基準があって、患者が自分なら、あるいは家族なら別な方法を取るだろうと思いつつ医療をしていた。
 昭和53年母が肝不全で、昭和58年父が急性心筋梗塞で死去した。そのどちらも私は大学の当直の日であったが、家内から連絡があった時に、もう治療をせずにそのまま看取る方法を選択した。どちらもいわゆる死に目には会えなかった。
 私は今から考えてもいい選択であった、と思っている。
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