福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

徒然草から学ぶ(4) (233段) 社交の極意

2017年03月31日 17時17分38秒 | コラム、エッセイ
徒然草から学ぶ(4) (233段) 社交の極意
 徒然草からはいつ読んでも新しい発見がどこかにある。
 今回は233段「社交の極意」。
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(233段)
 万(よろづ)の咎あらじと思はば、何事にもまことありて、人を分かず、うやうやしく、言葉少なからんにはしかじ。男女・老少、皆さる人こそよけれども、ことに、若くかたちよき人の、ことうるはしきは、忘れがたく、思ひつかるるものなり。
 万の咎は、馴れたるさまに上手めき、所得たるけしきして、人をないがしろにするにあり。

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 (私の意訳)
 何事につけて難点がないようにと思うなら、何事にも真心を持ち、人を差別せず、うやうやしくして、言葉は少ないのが一番。老弱男女、誰も良いものだが、ことに若くて容姿にすぐれた人で、言葉遣いがいいのは、忘れがたく、心引かれるものである。
 何事につけて難点となるのは、物馴れた態度で上手ぶり、得意げな態度で人を軽んずることにある。
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 この項は、私が最も不得意とする分野である社交の極に関する兼好法師の考え方である。私は兼好法師の考え方とは相容れない。だからこの項はしっくり来ない。

 私は人付き合いがやや不得意である。ずっと自覚しているから、できることであれば他の方とは一定の距離を保っていたいと思ってきた。しかし、実際にはそのようなことができる環境にはなかった。
 そのために現役時代は「万事につけて難点があるまいと」思いながら、人間関係の維持にはかなり気を使ってきた。

 その背景は強度の劣等感による人間嫌い、対人恐怖感だったと思う。一方では自尊心も強かった。劣等感と自尊心のバランスの中で自分を維持してきた。結果として、常に相手の立場に立ち、相手の求めることに可能な限り対応してきた。だから、私から軽んじられたと思う方々は多分少ないだろう。男にも使えるかわからないが、「八方美人的」だった。それが私にとって一番楽だったからである。リーダーシップなど探しても見つからない。

 私はそんな自分が嫌であった。そのために逃げるように現役を退き、引退後ほとんど引きこもり状態である。

 兼好法師は、ことに若くて容姿にすぐれた人で、言葉遣いがいいのは、忘れがたく、心引かれるものである、と記載しているが、私は若い世代が怖い。特に若い女性には気遣いの方が先に立ち、疲れる。あまり魅力を感じない。

 私は50年近く、今も組織の中で働いてきた。私の力など微力で同僚の方々にはずいぶん支えられてきた。世話になった。ただ、残念ながら「仲間」という感覚で同僚をとらえることは出来なかった。こんな私を友としてくれる人もいなかった。だから私には友人と呼べる人はいない。
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