福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

亡母を慈しむのも亡くなっていればこそ(2) 母37回忌 若い死に感謝している

2014年09月15日 17時05分36秒 | コラム、エッセイ
 昭和53年6月実の母が死去した。64歳の若い死であった。本年は37回忌にあたっていた。
 母は大正2年花巻市近郊の生まれ、と聞いている。詳細は知らない。母の一生を私の目から見れば、畑違いの家に嫁いでしまったための忍従、忍耐だった。二人の子供の成長のみを楽しみに生きてきたが、最後は子どもにも裏切られた、そんな一生だったと思う。

 明るい性格ではなかった。暗い、悲観的な母の性格や行動様式はしっかりと私に受け継がれている。私の処世術は母の姿を見て身に付いた。私は一人でいる時と、誰かといるときとでは別人と思うほど違う。嫌な性格だが、やむを得ない。

 その母の生き甲斐は何だったのか?二人の息子の成長のみであったと言える。私が医師になったことは唯一明るい材料だったと思うが、生き甲斐を彼女から奪ったのは、私を含む二人の息子でもあった。
 
 私から見た母にとって喪失の項目ざっと挙げてみた。
●昭和27年医院兼住宅消失。●長男が医学部進学をやめ工学部に。●定年を数年残し父が突然退職。●軽度の肺結核で半年入院。●家計的にほぼ破産状態に陥った。●家屋敷を手放し、盛岡に転居。●長男が他家に養子縁組、改姓。●長兄が事故で瀕死の重傷。●私が岩手から秋田へ転居。●体調悪化し、秋田で療養。●病院内で転倒、手首骨折→生きる意欲喪失→医療拒否、衰弱死。

 生涯を通じてこれだけのことが続けば生きる意欲もなくなるだろう。
 母の死去当初、これで本当に母は楽になったのだ、と安堵の気持ちを味わった。死後数ヶ月も経って、彼女の人生は何だったのか?私が最終的にとった治療方針は果たして正しかったのか?他の選択肢はなかったのか?・・等々、しばらくの間、私はこれらの問題で苛まれることになるが、過ぎゆく時が徐々に私を癒してくれた。

 彼女が生活上で時折示した理解し難い態度、物事の判断、死を目前としての姿勢、これらに私は少しばかりでない異常性を感じてならない。その異常性の一部は私にも立派に備わっている。だから、亡き母は今でも私の心の中で大きな存在感で生き続けている。

 彼女が64歳で死を迎えた。しかるべき時期に死亡した、と思う。一歩進めて、その若い死に、今は感謝している。
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