福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

死生観(3):私は死をどう考えて来たか(3)祈祷の手にゆだねられたことも 

2014年09月03日 14時27分55秒 | 自己紹介・自伝

■医師の祖父も諦めた? いや、自然に任せたのだ

 小学3年の頃のことだったと思われるが、急性気管支炎、急性胃腸炎で危機的状態までいったことがある。大量皮下輸液もやっていたから恐らく強度の脱水などもあったと思う。意識も朦朧とし、譫言でクロマイ、クロマイと欲しがったそうである。いわゆる臨死体験と言われる現象を経験したときである。

 祖父は本当に駄目か、と思ったらしい。その時、祖父は使用人の一人を遣わして恐山のイタコに願をかけさせたという。イタコは「約10日で回復し床離れが出来る。その後は徐々に丈夫になるだろう。それ迄の毎日、祈祷した紙切れを切って湯のみに浮かべて飲ませる様に」、と告げた。私はその予言通りに回復し、丈夫になった。 
 
 「臨死体験」も「イタコ」も余りにも出来すぎた話であるが、祖父は自分の経験から困難な状況であると悟り、それ以降は「自然の摂理に任せる」と選択したのだろうと思う。当時はそれほど治療学があったわけではない。苦渋の判断だったと思う。私はそう思ってきた。

 この様な経験を背景に、死ぬのは「昇天する」のであって、苦痛などを伴わず意外と気持ちのいいものなのでないか?と思うようになった。私は医師になってからも回復が困難と思われた状況の患者には「みまもりの医療」の視点を大事にしてきた。


■医師である祖父にもらった「いのち」、と容貌
 生まれた直後の危機の何とか乗り越えられたのは祖父の力が大きかった。その時点で私は「無」になっていた可能性がある。

 もう一つは3歳の頃、私はお茶を飲みながら部屋を歩いていた時に座布団につまずき、鼻に怪我を負った。鼻尖から大きく裂け目が入って遊離し、左の鼻翼で皮膚一枚でかろうじてついていたと言う。産婦人科医・外科医であった祖父は小さな子どもの鼻を形良く修復し、細かく縫合した。小さな鼻で治療は困難だったと思われる。その後も成長と共に鼻の形が崩れることも無かった。

 今でもかすかに傷跡として残っているが、もし、この傷が順調でなかったら私の人生はどうなっていたことか。勿論、形成外科的に対応出来たではあろうが、その必要も無かった。

 医師の治療対象は決して「いのち」だけではない。祖父はこのことも教えてくれた。
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