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内田樹氏の文体

以前、拙ブログで内田樹氏の本の魅力について書いたことがある。
内容ももちろんだが、その魅力のかなりの部分を、彼の文章が担っているのではないかということを書いたのである。
→4/26「『教養』についてふたたび」

その少し前(4/22)には、「邪魔をしてくれるほどの『教養』はなかなかねえ」と題して、村上陽一郎氏の『やりなおし教養講座』の感想を書いていて、それには、この本は村上氏のものとしては「ユルイ」と思う、というようなことを書いた。
同書が口述筆記であるために、文章としての緻密さに欠ける所があり、それが「ユルイ」原因なのだろうとも書いた。

そんな経緯があったので、今日、内田氏のブログで「文体について」という記事を読んで、一言。

話は、内田氏が語ったことを朝日新聞の記者が講義録風にまとめた記事の文体のこと。
いろいろ事情があったようだが、ともかく最終的な文章の形にしたのは朝日新聞の記者で、その最終チェックを内田氏ができなかったらしい。
で、その文体が、内田氏としては、とても自分の書くようなそれではなく、容認出来ないということなのだ。

これは、内田氏に同情する。
ほかの人ならばともかく(まあ、実際は、ほかの人でも同じことなのだが)、内田氏の書いたものの魅力のかなりの部分を、その文章自体(「文体」と言っても良いのだが)が負っているのだから、そこの所は譲れないだろう。
そもそも文章自体(「文体」)こそが、筆者の立場・姿勢を自ずと示すものである。

今、内田氏のブログを読み返してみたら、上に書いた一文と同じようなことを、もっと別の言い方で(深く?)書いていたから、ここでは、これ以上書かない。
ともかく、文章を書くことで生計を立てている人間にとって、自分の文章が公になる際に、自分の文章として認められないものが、そのまま出てしまうというのは、なんとしても避けたいことである。

今、シンポジウムのテープ起こしをした原稿の整理をしているのだが、これは、実は一ヶ月以上も前に編集の責任者から預かったもの。
自分が話したことであるにもかかわらず、なかなか整理がつかない。
たぶん、自分で話したことであるからこそ、思いきった整理がつかないのだろう。
しかし、それにしても、たしかに話し言葉を文章化するのはむずかしいことではある。
そういう意味で、朝日新聞の係の人に同情しないわけでもないのだが。
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