今日は我が非番でしたが、細野から田尻谷を経て松尾峠~高雄への道があり、その田尻谷を田尻廃村まで道の様子を見に行ってました。そう言う訳でまず細野へ入った時、我が中高校時代の同級生と会いました。9月28日に小野郷のことについて書きましたが、その日下部邸の事などを話していていると彼が親爺から聞いた面白い話があるよと教えてくれました。
ある若狭の職人さんが日下部大助家から囲炉裏で使う五徳の注文を受けました。丹精込めて作り上げ、若狭からリヤカーに乗せて遙々と小野郷まで運びました。そして日下部邸に着き、ご注文の品が出来上がりましたのでお納めに参りましたと言うと、当主からは「そんなものは注文した憶えはない」と意外な返事が帰って来ました。職人さんが困り果てた様子でいる姿をみつけたご近所さんに事の次第を話すと、う~ん、あんたその格好で一人で行ったのか、それがいかんのじゃ、納める時は、きちんと正装して、一人でなく使用人も一緒に連れて行かなあかん、とアドバイスをしてくれたそうです。その助言通りにもう一度日下部邸を訪れると、お~遠方からよう届けてくれた、ご苦労であったのう、と丁寧に迎えてもらい、更にご馳走まで出して労を労ってもらったそうです。
これから末永く使っていく大切なものであり、はい持ってきたよ、ではなくてきちんと納めて欲しいということあり、またご近所の手前、それだけ立派な職人さんに作って貰ったということを示したかったのでしょうか。職人さんに、自分が自信を持って作ったものを軽々しく納めるなと諭されたのかもしれません。それだけ格式を重んじられたのでしょう。
こんな話を親爺から聞かされたよと、小野郷とは笠峠を挟んだ隣村、細野に住む彼が話してくれたこの逸話は私にはとても興味ある話でした。人様にものをお納めしたりする時の礼儀など示唆に富むものでもあります。
脚色されて伝わった部分もあるやもしれません。若狭からリヤカーでということや彼の親爺さんからの話などを考えると明治時代の話なのでしょうか。若狭からどのルートをリヤカーに載せてきたのかしら、何故若狭だったのかしら、若狭は五徳を作る良い職人さんがいたのだろうか、若狭といっても若狭のどこなのだろう、、、いろいろ考えることもありますがまあ今回は細かい考察は省きましょう。一つだけ言えるのはここで若狭が出てくるのは若狭と京都の行き来は盛んであったことだというでしょう。
昔から周山街道筋の村落と若狭の盛んだった関係は、このところの西の鯖街道の設定から折に触れ伺う機会が増えました。「若狭からひしこを売りに来し媼(おうな)のおろす荷物よ霰(あられ)たまれる」。これは60年ばかり前に父が詠んだ歌です。
街道から逸れたU村へも若狭からよく行商に来ていましたから、その事実はよく理解出来ます。重い荷物を背負って歩いて来るのですから、相当な労苦だったことでしょう。それも、貧しい村人相手の女性の行商です。どれだけの収入があったのか・・・。「鯖みたいな儲からん魚を運ぶ訳がない」と放言した元網元が、私には許せません。
小野郷の権力者に依頼を受けた若狭の職人は、それこそ精魂を込めて製品を造り上げ、一日も早くと懸命に届けたのでしょう。職人には職人の装いがありますし、1人で届けたのがなぜ悪いのか。受け取りを拒否されて若狭へ戻り、今度は正装して使用人同道で再び同じ街道を・・・。彼らには、どれほどの労苦と苦悩があったことか。
精魂込めて造り上げた製品です。1人で労働着を着て届けるのと、2人で正装(どんな服装なのか)して届けるのとで、どれほどの差があるのか。魂の籠もった作品に何ら変わりは無い、と私は思います。
「こちらから」 坂村真民
こちらからあたまをさげる
こちらからあいさつをする
こちらから手を合わせる
こちらから詫びる
こちらから声をかける
すべてこちらからすれば
争いもなくなごやかにゆく
こちらからおーいと呼べば
あちらからもおーいと応え
赤ん坊が泣けばお母さん飛んでくる
すべて自然も人間も
そうできているのだ
仏さまへも
こちらから近づいてゆこう
どんなに喜ばれることだろう
格式というものは平たく慣らしてしまうとくだらないものかも知れませんが、その時その場で生きている人たちは大まじめです。これを崩すと権威も何も無くなってしまうように思うのでしょう。
最初に五徳を運んだ人は気の毒でしたが、五徳の製造・販売者自身も決して貧しい者ではありません。正装の紋付き・羽織は誰もが持っていたものではないでしょうし。現実に小生も持っていません(笑)。それなりに冨も権威もある職人(マイスター)です。京都方面に商品を売りたいならば、五徳のマイスターが気を遣うべきでした。公家屋敷なんかはもっともっとうるさかったでしょうね。
宇治の上林家にも「お使いに行った使用人とお茶」の話が残っています。上林家ではとっくに忘れているでしょうが、ビックリした側は忘れません。
同じ運ぶなら出来るだけ収入の多いものを運ぼうとするのは経済人として当たり前、また鯖サバと拘ってこの街道を語るなと元網元は訴えておられるのだと理解しています。
精魂込めて作り上げたら、どんな服装で納めても作品に差はないのではと仰いますが、使う人間にとっては差があるかも知れませんし、また折角精魂込めて作ったものだからきちんとした姿で納めた方がお前の為にも良いよと職人さんを諭されたのかもしれないかも、なんてこと思ったりします。更に発展して、もしあまりにも仰々しく納めたら逆にそんなもの注文した憶えはないと言われたかも知れません。色んな憶測をするのも楽しいではありませんか。
ビジネスという観点からいうと、お客様を如何に満足させるかが商売の原則だと捉えるのが普通かもしれません。五徳のマイスターが、というとらえ方というか言い方気に入りましたね。
話は正装して云々になっていますが、もっとみすぼらしい格好で行ってもその時の振る舞いが精魂込めたものを納めるのだという心が出ていたとしたら違った展開になっていたかもしれませんし、またその逆もあったかな、なんて考え方もありえますしね。
史的唯物論云々が出てきましたけど、何事も凝り固まった理論に無理やりはめ込んで分類してしまおうとするする教条主義にはへきへきしますね。これは史的唯物論の主唱者が最も嫌った現象かもしれません(^_・)
「お使いに行った使用人とお茶」の話、聞きたい。教せて~。
明日からの「西の鯖街道」講座、ご案内お世話ご苦労さまです。お土産アップ楽しみにしています。
今回の日下部家のお話とても興味深く読ませて戴きました。大抵のひとは差はあってもそれなりの意地も見得もあってこそ生きていけるのだと私はしっかりそう思っています。
納品の仕方について、形は変わりますが、20年ほど前孫娘の初節句に、とある京都有職人形店でほんの小さな雛人形を注文しました。細かい小道具まで一つひとつ丹精こめて職人さんが作られるそうです。。2ヶ月後に家紋の風呂敷に服紗をかけ御店の代表者がご自身で届けて下さいました。その後もお雛さまをを出すころに「雛に変わりはないですか」「小道具は揃っていますか」と出向いてくださったり、お電話下さったり、本当に丁寧にしてくださるそうです。
これはmfujino さんの仰る>職人さんに、自分が自信を持って作ったものを軽々しく納めるなと諭されたのかもしれません。それだけ格式を重んじられたのでしょう。
と私も同じ思いです。
昔話はほんとうに面白いです。生きる指針になることがあり、楽しいですね♪
何か本題から外れてしまいました(^_')私も最近になって「形」の大切さというものが理解できるようになってきたかなあと思います。儀式も形ですよね。人の心を相手に伝えるにはこの「形」という要素が欠かせないものだと思います。
ご近所に旧宮家の方が広い敷地にお住まいです。 かってのお住まいは、東京都が管理する建物で一般公開されてますが、今は何十分の幾つかの広さにお住まいです。 そのご当主が夏には肌着姿で道路に出てこられるのです。 びっくりします。
話は変わりますが、和束のお茶の件 ありがとうございました。 早速に和束からお茶を取り寄せていただいております。 おいしいお茶に出合い、京都のことはmfujinoさんにお尋ねすればほとんど解決しそうで、頼もしいです。 先日夫が救急で心不全の治療を受け、入院しておりまして、退院してきた日に和束のお茶を入れて出しましたら、「こんなにおいしいお茶を飲んだのは初めてだ。」と申しておりました。
日下部家の話、形ということが話題になっていますが、仰る様に自分にも活かさないと、と言われると私は恥ずかしい生活の毎日です。宮家の方が肌着で外へ、まあご近所さんには心を許しておられるのでしょう。
和束ですが私は単なる地理案内をしただけでございます。しかし美味しいお茶が手に入り何よりでした。私もネットを通じて色んな人にお世話になっています。ネットワークの有難みですが、情報は一方通行には流れないと思っています。鎌倉街道さまがgiveの精神をお持ちだからこそtakeがあるのではないでしょうか。takeから入る人にはgiveする気にもならないですから。
この和束には思い出が割とあります。近くに童仙坊というところがありまして、お、雨だというので雨中歩行のテストにこのコースを歩いたことを思い出しました。和束方面から童仙坊~大河原まで雨の中を歩きました。途中軽トラを運転しているおっちゃんが怪訝な顔をして雨の中を歩いている私を見つめていたことでした。和束の北には鷲峰山(じゅぶせん)という修験道のお寺、金胎寺もあります。山の中腹まで拡がる茶畑の景色は素晴らしい印象です。「和束」をキーワードにして画像を検索してみて下さい。静岡の茶畑とはちょっと違う様に思いますがどうなのでしょう。きっとお茶の生産に適しているのでしょう。つい懐かしくなり余分なことを書いてしまいましたがお許し下さい。
宇治の上林家にいつもお使いに行く人が、ぼやいているのをたまたま主人が聞いていました。
「あそこの家は、いつもお茶とお菓子は出してくりゃはるけど、ご飯をよんでくりゃはれへんから、帰ってくる時分には腹が減ってしゃあないわ。」
主人は、自分が上林家に出かけたときに、上林家の番頭さんに
「わるいけど、○○が今度きょった時には、何でもいいからご飯をよんだってな。あいつ、ちょっとぼやいとったし。」
番頭さんが言うには、
「ご飯なんか安いもんですわ。なんぼでも食べてもらいます。今、ご主人に出しているのと同じ茶を出しとったんですけど、お茶ではあきまへんか。」
主人は、何時も自分が上林家では最高級の茶を出してくれているのを知っていましたので、
「えー、こんなええのんを出してくれたはりましたんか。知らんということは勿体ないことですなあ。」
とあきれて帰ってきたということです。
遠いところをお使いに来てくれる人だから、最高級のお茶とお菓子でもてなしていたのですが、悲しいかなそれが通じていなかったという話です。けれども、お使いに行く人はそれからもお茶とお菓子、さらに昼ご飯も出してもらえるようになったということです。
今でいえば、100グラム2万円ぐらいの茶を飲ましてもらっていたのでしょうか。
よく似た話を思い出しました。近江の人でしょう、最高級の鮒寿司を取引先の方にお歳暮かなんかで贈ったところ、受けとった人は、誰だこんな腐ったものを贈ってくるとは、と怒ったそうです。贈り物も難しいものです。私は昔ある上司から、人の心を表するときには口だけでなく行動や物を介在せよ、と教えて貰いましたが、どんな物を介すればいいのかは難しいものですね。
日中国交正常化の交渉に中国を訪れた田中角栄首相に中国の宿舎で出された朝食、彼が何時も食する味だったそうです。周恩来は事前に田中首相の好みを徹底的に調べ上げ、食材から調理法まで周到に情報収集し準備をして味を再現してもてなしたという話を聞きました。角栄さん、喜んだでしょうね、同時に中国恐るべしと褌を締め直して交渉に臨んだのではないでしょうか。