史跡ハンター 臥龍

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悲しい年末年始

2016年12月31日 | ひとり言
12月31日(土)
29日に通夜、30日に葬儀・告別式が終わりました。
当初、30日の告別式が終わった後、埼玉に帰る予定でいた上の妹一家も予定を変えて、昨日も泊まっていってくれました。
告別式が終わってスグ俺と母の2人だけじゃさ…妹の旦那も精進落としの時に酒が飲めないんじゃ可哀想なんで翌日までいてもらったよ。
日本酒が飲めない俺より、上の妹の旦那の方が父と“酒を飲み交わして”くれてたからさ…だから精進落としでも飲んで欲しかったしね。
その上の妹一家も今日の15時すぎ帰りました…毎年、年末年始はウチで過ごしていて、今年は今日(31日)から父のお見舞いを兼ねて来て2日に帰ることになってたんだよ。
父が入院中でも母だっているし…甥姪もお年玉楽しみにしてるんで、元日に下の妹一家もウチに来て新年会?をやることになってたんだわ。
それがまさか26日に父が亡くなり…慌しく大晦日になっちゃったよね~
年末ってこともあり葬儀会場も29日(通夜)30日(告別式)しか取れなかったんだけど…逆に27・28日の2日準備期間がもらえて良かったよ。
17年前、父の母(俺の祖母)が亡くなったときは父と叔父(父の弟)がいろいろやってたからね…母以下俺ら兄妹だって自分らがメインとなって葬儀を行うなんて初めてだったしさ。

27日(火)は昼過ぎに葬儀社の担当者が来て…まだ上の妹は埼玉から来れなかったので母と下の妹と3人で葬儀社の担当者と話を進めていきました。
その日も近所の方々が父の遺体にお悔やみ?をしに来てくれたり、菩提寺の住職が「枕経」に来たり、葬儀社の担当者が来たり…と慌しかったよ。
夕方、上の妹一家が来て旦那は妹と甥2人を置いて一度帰りました…翌28日が仕事納めだったのでね。
その日のうちにある程度の段取り(生花・供物を出す人、香典返しの品物、通夜振る舞いや精進落としのお膳の選定、遺影の写真選定などいろいろ)が決められたよ…母と俺妹合わせて4人いれば、考えや知恵を出し合って何とかなるもんだよな。

28日(水)は予備日にできたよ…棺に入れるモノで父への「表彰状」を入れようってことになったんだけど、100円ショップに売ってなく、文具屋だと10枚入りしか無くて「もうイイか」…ってなりかけたんだけど、下の妹が5枚入りを見つけて来てくれてね。
30日の出棺前に上の妹に読み上げてもらったこの「表彰状」は好評だったんだよ…29日に下の妹が書いてくれたんだけど、1枚目の出来に納得できなかったのか2枚書いててさ。
使わなかった方は処分せずにいたんで、今はお骨のある祭壇…納骨後は仏壇(付近?)に飾られると思います…家族皆の想いが詰まった“感謝状”なのでね。

そして29日(木)は「湯灌の儀」を行うために、10時ごろから葬儀社の担当者がウチに来ました。
「湯灌の儀」とは死者の身体を洗い清め、遺族が依頼した衣装があればそれに着替えさせ、ヒゲを剃ったり髪を整えて納棺する…要するに「おくりびと」の仕事だよね。
26日の晩、葬儀社の車で約8ヵ月半ぶりにウチに帰って来れた父も、いつも自分が寝ていた1階の部屋で2日間も過ごせたんだよ…コレも通夜まで2日あったおかげかな。
この部屋で夫婦、布団を並べて寝てたんだ…上にも部屋はあるんだけど、やっぱお互い突然何かあるといけない…と同部屋にいたみたい。
でも母も父(夫)が入院してからはその部屋で寝ずに、ずっと居間に布団敷いて寝てるんだわ…なんか落ち着かないんだと。
父も最後に2日間自分の家で過ごせて嬉しかったと思うよ…そりゃ生きて帰って来たかったろうし、家族皆それを願っていたけどさ。
11時すぎに父はストレッチャーに乗せられて車へと移され、その車には俺と上の妹が同乗して葬儀会場に行きました。
母と下の妹一家、上の妹の子(ゆう・てる)は歩いて会場に来て、俺らと合流したよ…葬儀会場はウチから歩いて20分くらいで着くからね。
そして「湯灌の儀」が始まりました…布を被せてある父の身体に柄杓の湯?を1人ずつ掛けてあげて、あとは「おくりびと」の女性2人がコチラには布の下(裸体)が見えないように身体を拭き、髪を洗い、ヒゲを剃ったりしてくれました。
久里浜に転院後、週に1度入浴があったけど…10月入ってから発熱が続いてたんで、もしかしたら入浴も3ヶ月ぶりなのかな…?って思ったら涙が出てきちゃったよ。
温泉が好きで年に10回は温泉に行ってたんじゃないかな?俺なんて「カラスの行水」なのに対し、父は長風呂だったもんな~
この「湯灌の儀」は故人の生前のけがれや苦しみを洗い清め、来世で生まれ変われるように…という意味があるんだって。
それから父の着替えのため、遺族は控え室に移って待ちました…装束も27日に皆で黒い和服(着物)に決めたんだよ。
父は毎年、年始に着物を着ていたんでさ…もうすぐ年始、元気であればきっと例年通り着ていただろうからね。
そして20分くらいしてだったかな…係りの人(おくりびと)に呼ばれて部屋に入ると、毎年年始に見る姿の父がいました。(横になってるけど)
用意した足袋も履き、帯もちゃんと締めてもらってさ…寝巻き以外着るんだって約8ヵ月半ぶりだもんね。
あぁ…この和服姿だけは俺が小さい頃から変わらず見てた父の姿なんだよ…年始の元日か2日のどっちか1日くらいしか見ないレアな姿でも、自分が物心ついてから40年以上同じ着物(2着あったんで1年おきに替えてたのかな?)着てたから、ありきたりな私服よか“父らしい”姿だもん。
そしてメイクもしてもらったけど、元々肌がキレイだったからね…左頭部の脳梗塞後に開頭手術した跡が陥没してハッキリ見てとれたけど、この一発の脳梗塞で父が奪われたと思うと悔しくて堪らんわ。
そして一緒に納棺を手伝い…副葬品?を儀式に従って入れて納棺が終わりました。
最期にこんなにキレイにしてもらって良かったよね…涙、涙だったけど、送り出す俺らも父をこんなキレイな姿にしてもらって、ホント嬉しかったです。

部屋を出ると葬儀社の担当者が「祭壇もできていますよ」…と言うので見に行くと、皆で選んだ祭壇の上に父の遺影が飾られていました。
写真も俺と母と妹2人で選んだんだけど…ホント、イイ写真選んだよぉ、父の穏和な人柄がにじみ出た表情なんだもん。
1年半くらい前に撮影された、友人と温泉旅行に行ったときの写真でね…2人だから三脚使って写したのかな?温泉後、コップの日本酒片手に部屋で夕食時に撮ったんだろうな。
服装はそのままでもイイし、今は何パターンからか合成も選べるんだよ…さすがに温泉宿の浴衣姿じゃ、くつろぎすぎかな?と思ったけど服装パターンの中に父のイメージに合うモノがあんま無くてさ。
その中で一番しっくりきたのが和服(黒)のパターンだったんだよ…それってさっき「おくりびと」に着替えさせてもらったのも黒い和服だったでしょ。
だから合成で作られた遺影写真の衣装と、実際に棺の中にいる父は同じような黒い和服姿なんだよ。
まだ祭壇と遺影だけで生花等の飾りは置かれていなかったけど…「コレが自分の父親の葬儀会場なのか…」と信じられなかったわ。
そして一度、家に帰って昼ゴハン食べて…15時半すぎに到着した上の妹の旦那に車で送ってもらって葬儀会場に行きました。
1時間ほどで通夜を終えたけど…なるべく「コレは他人の通夜に参列してるだけだ」と遺影とか見ないようにしてたよ。
そう考えてないと、まともな精神状態でいられないよ…
家族葬ってことだけど親類、父の友人、母の友人、近所の人が大勢来てくれました…俺の友人や会社の同じ課の人くらいは何人か来てくれたかも知れないけど、今回は断っておいたよ。
通夜振舞の寿司や料理も何度か数を変更したけど…結果的に一番最初に決めてた数に戻して正解だったみたいね、足りなくて恥かくよかマシだもんな。

30日(木)の告別式は9:30~という一番早い順番だったんでね…8時すぎに家を出ました。
この日が父との別れの日…喪主は母なんだけど、出棺前や精進落としの挨拶を俺がすることになってたんでさぁ、まともにできるか不安だったわ。
前日の通夜と同じように葬儀は進行、終了し…出棺前の父との最期の別れがきました。
俺ら家族と甥姪は皆、父への手紙を書いてきて棺の中に入れました…もう思い出はいっぱいありすぎて、綴ったらキリが無いんで簡潔にまとめちゃったよ。
やっぱ思い出が多いのは小学生のころかね…中学、高校と自分も成長するにつれ、当然親離れしていくんだからさ。
父にとって俺はどんな息子だったんだろ…まぁ犯罪者にはならなかったけど「大した息子じゃなくてゴメンなさい」って感じだよね。
ホント何もしてやれなかったから…こんな重度の脳梗塞になって当然ある程度の障害が残るのは覚悟できてたから、俺はこの先も独り身になってでも必ず俺が介護するつもりでいたのに、結局症状が最悪すぎて介護すらさせてもらえなかったよ。
どこまで家族想いなんだか…もう俺ができることって言ったら一緒に逝ってあげることくらいになっちゃったわ。(冗談よ)
そして棺の蓋を閉める前に上の妹が「表彰状」を読み上げ…この後、俺、挨拶しなきゃならんのにグズグズになっちゃうよ~
…って感じだったけど、何とか持ち直して挨拶をすることができました…頭が真っ白になったらカンペ読もうと思ってたけど、何とか見ずに済みました。
多分、挨拶の中に父との思い出話をブチ込みすぎると自爆するからね…ココは参列者への御礼を述べる場であるという内容で締めたよ。
そして母が位牌を持って霊柩車に乗り、俺が遺影を持って…バス2台で火葬場へ行きました。
火葬場に着くと…割とスグ火葬(釜)に入っちゃうんだね…まぁもう告別式は終わってるんだけどさ。
1時間弱火葬されるのを待ち…骨だけになってしまった父が出て来たんだけど、骨も真っ白で頭蓋やアゴ、歯、喉仏もキレイに残ってたよ。
住職も「こんなキレイなお骨は初めて見た」(いやいや、そんなことは無いでしょうが)って言ってたよ…
それから骨壷に入った父を持って葬儀会場に戻って精進落としを皆で食べたけど…初めて父のサラリーマン時代や中学時代の友人に父のことを聞いたよ。
もちろん今までも直接じゃないけど聞いてはいたよ…でもホント父のことは「お世話になった」とか「イイ人だった」という話しか出てこなかったね。
会社の同僚や中学の友人も皆、父がいたから何十年も関係が続いてこれた…って言ってたよ、子としても嬉しかったな。
1時間半ほどで精進落としの宴席も終わり…最後に親戚たちを見送って母と上の妹一家と歩いて家に帰りました。
コレは精神的に疲れたよ…あと母がいるけど、コレ以上の悲しみってあるんかなぁ?
父はこんな脳梗塞なんかにならなきゃ全然元気だったはずだから余計悲しみが強いのかなぁ?
いや…やっぱその人の人徳だよなぁ…人徳深きゆえに悲しみも深いんだよ。

今日(31日)は地元「さいか屋」のパーキングで5階から5人が乗った車が落下して、その中の3人が亡くなったらしいね。
ちょうど上の妹一家が帰る前に葬儀会場に通夜の晩から置いてた車を取りに行くついでに香典返しの追加・交換をしに皆で行ったんだよ。
俺は妹の旦那と甥(ゆう・てる)と汐入方面(ヴェルニー公園)に寄ってから行って、母と妹が横須賀中央側から歩いて行ってたんだわ。
母らが「さいか屋」辺りを通ったの13時半ごろだったと思うけど…もうその時には落下しちゃってたのかな?
パーキングも大通りに面していない1本裏の通りだもんな…でも俺らが車で葬儀会場を出た14時ごろには上空に恐らく取材用のヘリが飛んでて妹の旦那がその異変には気づいてたんだけど、まさか全国ニュースに出るほどの事故が起きていたとは思わなかったよ。
こんな大晦日に一家の3人(祖母と両親)が亡くなり、若い息子2人も重傷だってんだから…昨日父の葬儀を終えたばかりの俺らには居た堪れない気持ちになるよね…

ここ数年、上の妹一家が年末からウチに来ているんで両親、俺と妹一家4人の計7人で大晦日を過ごしてたんだよ。
甥も2人(小学1年と4年)なんで毎年賑やかな大晦日なんだわ…0時ちょっと前くらいには皆で「年越し蕎麦」食べてさ。
今年は父が入院中でも例年通り、お見舞いがてら来る予定だったから…父は居なくても、甥っ子2人が騒いで年明けを迎えてたはずなんだよ。
それが父の死によって来るのが前倒しになり、今日帰ってしまったから寂しい大晦日になってしまったね…
母と2人だし、葬儀で疲れたろうから…もう蕎麦も食べず(どうしても食べたきゃ“緑のたぬき”あったけど)、とりあえず一緒に年明けの瞬間だけ居て自分の部屋に戻ったわ。
こんな悲しくて寂しい年末年始を迎えたの初めてだわ…明日は初七日だけど、法要は30日に済ませているので家でいつも通りお線香をあげるだけかな。
では、皆様良いお年を…



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