起承転結ってなんだろう?
よく「起」は、一般的に「物語の始まり」などと簡単に説明されているが、よくよく考えると案外そうではないらしい。
だって「物語の始まり」は「何時代から始めなければならない」という時間的制約もなければ「朝、ベッドの上で目覚めなければならない」という場所的制約も受けない。
だから例えば敵国が攻めてきていて一族存亡の危機っていう設定の国があったとする。
起……予言者が「我々の窮地を助ける英雄が現れるであろう!」と予言する。
結……敵国に滅ぼされる。
なんていうのでも一向に構わないだろうし、この方がむしろ現実にありそうで説得力もあると思うんだけど、これだと物語としては誰も納得しない。
つまり起ってのはテーマの提示と同時に、結の為の大きな伏線を残す役割があるのではないだろうか、と思うのだ。
次に承と転を後に回して「結」。
一般的には「物語(テーマ)のオチ」として説明されているが、これもまたちょっと否定して自分で考えてみる。
ちなみに、なんで起の後に結を持ってきたのかというと、「起・結」というのが物語の最小単位なんじゃないかと思ったからだ。
例えば竹取物語。
「翁(おきな)は竹を採りに竹藪へ入ったらかぐや姫を見つけ、家に連れて帰る。
三ヶ月ほどで大人になったかぐや姫は美しかったので金持ち達が求婚するが、
かぐや姫は無理難題を出して結婚を回避した。
ある日、かぐや姫が月を見て悲しい表情を浮かべ、翁が理由を聞くと、
私は月の都の人間で、今月の十五日にお迎えが来ます。と言うのだ。
それを聞いた翁は帝(みかど)に相談して兵を出して貰うことになるのだが、
千人の兵隊による応戦もむなしくかぐや姫は月に帰ってしまう」
という広く知られる古典ファンタジーなのだが、これで説明する。
これの結というのは翁が帝に兵を出して貰う所からだろう。つまりそこから削ってしまうと、
「翁が回収する。三ヶ月で大人になる。求婚しにきた貴族を追っ払う。
月を見て悲しい表情を浮かべて翁が問う。
私は月の都の人間で、今月の十五日にお迎えが来ます。と、かぐや姫が言う。……おしまい」
なんともミステリアスな引き方というか、かぐや姫がメルヘンさんにも見える。
三十分アニメとかではこういう引き方をしがちだけど、それは次回で回収する伏線なのだ。
「結局、それってどういう話なの?」と疑問が残るだろう。
では逆に、起と結だけで語ってみよう。
「翁が竹を採りにいったら金色に光る竹があり、中からかぐや姫が出てきた。彼女は月に帰ってしまう」
どことなく竹の切り方を失敗した暗喩にも感じるのだが、一応、竹取物語の根幹は整っていると言える。
そこから考えると、結っていうのは単なるオチなのではなく、実は物語の根幹なのではないか、と考えられる。
竹から出てきたって伏線も、月に帰ってしまう事で回収してると言えなくもないし。
さらに極論すると物語でなければ結だけでもいいのだ。「かぐや姫は月に帰りました」というのは物語でもなんでもないが、それはそれで観測的事実を表している。
子供の成長日記なんてのもそうではないだろうか。「今日は初めてパパと言いました」「自転車に乗るようになりました」などだ。
そこに何らかの「起」が付くことで物語の様相を呈し、承と転が付くことで「面白い物語」に変化する。
つまり話の基本は結ありきで、そこに起という〈物語用アタッチメント〉が装着され、承と転という〈拡張パック〉を付ける。というのが創作的な流れかもしれない。
「承と転」は一緒に説明しないとならないだろう。
承の一般的な説明は「転への繋ぎ」「物語が進む所」などという「要らない子だけど育ててやるよ」的な酷い扱いを受けている。
対して転の一般的な説明は「クライマックス」「物語の流れが速いところ」という承と比べると出来の良い兄姉のような扱いである。
起承転結の物語というのは承で説明された状況を、転で打開・変化させる。というのが基本構造なのは確かだ。
先述した竹取物語などでは、かぐや姫の「交際を迫られる」という状況っていうのは、おそらく転で「月に帰る」というブレイクスルーが発生しない限り一生続いていたのだろう。
かといって承では必ず変化がないというわけではない。
RPGなどを見れば分かるのだが、あれは「魔王に侵略を受けつつある人族」とか「人類滅亡の危機」といった「マズい方向に変化しつつある承」を使っている事がある。
つまり承とは「物語の方向を決める」もので、転とは「その方向をねじ曲げる」役割を果たす。逆に言えば承は、転でねじ曲げる事を前提に物語を説明しなくてはならない。
例えば(うろ覚えなのだが)手塚治虫が描いた漫画に
「主人公が宇宙船で不時着したのは牛が人語を解す場所で、そこで生活する女の子に恋をするのだが、
その社会では人間を食べる習慣があり、美味しいと評価されたら食べられた人間は後世に名を残す。しかもそれはとても名誉のある事である。
という価値観が存在する社会だったので、女の子は食べられる事になってしまう」
というのがあった。結局、女の子はその社会の価値観を持っているので自分から進んで食べられに行ってしまうのだが、我々と同じ価値観を持つ主人公はその文化が分からないので苦悩する。という話なのだ。
これが、主人公もこの文化と同じ価値観を持っていると(つまり転がないと)どうだろうか? 「そうだね。後世に名を残したら凄いことだよね」と言ってそれで終わりである。
社会制度とか世界観とかに「猿の惑星」並の考察の面白さはあるものの、物語としては面白くない。というか気持ち悪い。
物語を面白くするには主人公の葛藤が必要なのだが、それが全く無くなるから少なくとも一般受けはしないだろう。
反対に、承無しに「女の子を食べるのはいけない事だ!」とかいきなり主張されるのも問題である。
食人文化がある所での主張ならまだ目新しく思われるかもしれないが、そんな当たり前のタブーを当たり前に主張された所で「だからなんだ」と一蹴されてしまう。
魔王の侵略・圧政に悩む異世界なら「魔王を倒しに行くんだ!」と叫んだら周囲から喝采されるかもしれないが、東京駅の真ん前でそんな事言ったら交番に連行されるというのと同じように。
つまり転というのもまた、承が無ければ成り立たないのだ。
そしてこの二つは、物語の「テーマ」を強調するための道具なので、結果として起や結よりも目立って見える。
「青春と恋愛は素晴らしい」というテーマがあったら「最悪の出会い方をしていがみ合う二人」という承と「その状況を覆してまで恋に落ちる青春」という転があるわけだ。
かといって「遅刻しそうになって走ってたらぶつかって遅刻した」という起や「告白してカップルになった」という結が無くても良いというわけではなく、やはり承と転というのは重要度では下なのだ。
まとめよう。起承転結とは
起……物語の最小単位。結を期待させる伏線。
承……固定化した状態の説明。「起」の社会的価値観による伏線の回収。
転……固定化した状態の打破。「起」の個人的価値観による伏線の回収。
結……話の最小単位。物語の最終的なオチ。
うーん。結構、普通かな。
>例えば(うろ覚えなのだが)手塚治虫が描いた漫画に
>「主人公が宇宙船で不時着したのは牛が人語を解す場所で、(略)
これは、藤子F不二雄先生の「ミノタウロスの皿」ですね。
↓
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4091920616/249-5253904-0588307
2ch経由でこの文章を読みましたが、特に文章に対して感想などはありません。申し訳ありません……
>例えば(うろ覚えなのだが)手塚治虫が描いた漫画に
>「主人公が宇宙船で不時着したのは牛が人語を解す場所で、(略)
これは、藤子F不二雄先生の「ミノタウロスの皿」ですね。
↓
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4091920616/249-5253904-0588307
2ch経由でこの文章を読みましたが、特に文章に対して感想などはありません。申し訳ありません……