気分は南米?~多文化&SDGs日記

四国を経て、浜松に三度漂着したかっぱの近況

10年ぶりの水俣!

2018-06-07 21:36:34 | 水俣
お茶畑の空港から、お茶畑の空港へ飛んで、バスに乗って水俣へ。
6月に水俣へ来たのは初めてかも。まずは水俣駅前の真正面にあるチッソ水俣の正門をパチリ。




夜は吉田家で地魚と、グレープフルーツと河内晩柑



吉田のみかん山の主力商品で、グレープフルーツ(左)は、とにかくジューシーでパンチの効いた酸味が特徴。河内晩柑(右)は甘みと風味のある味。よく似てるけど、味は違う。いずれも、ウマー!!ごちそうさまでした
グレープフルーツは4月〜5月、河内晩柑が4月〜6月。甘夏2月下旬〜3月、デコポンは1月下旬〜3月、土佐文旦(パール柑)3月〜4月中旬とのこと。

一夜明けて、相思社と歴史考証館を訪問。袋から見る水俣湾。


2008年の愛媛大学ESD水俣ツアー(3月、12月)でお世話になった以来。
スタッフがすっかり入れ替わり、若い辻よもぎさんに案内していただく。事務所では永野三智さんに初めてお会いして(あちこちでお名前は見ていて、やっと会えた!)、「非営利組織で働く」話に。
ESDツアーでお世話になった川辺岬さん、弘津さん、遠藤さんのその後も伺ってきました。いやー、水俣寄ってよかったわー!

阿久根駅前のカフェで、エコリーグつながりな40代女3人でランチとマシンガントークで諸々近況報告。水俣で、長島で、ブレずに色々チャレンジしつづけている2人に元気と勇気をもらう。忙しい中、ありがとう~~


肥後おれんじ鉄道の阿久根駅は、水戸岡さんデザインでわっぜオサレな切符売り場も、構内カフェも、物産も、デザインがすばらしい これは見に行く価値のあるクオリティ!!行って、寄って、買って~











水俣病から60年、チェルノブイリから30年

2016-05-03 10:02:40 | 水俣
5月1日は、水俣病の公式発見から60年。
4月26日は、チェルノブイリ事故から30年。

便利さや利益を追求したことで失ってきたもの。
まだ終わらない解決。
私たちは、そこから何を学んできたのだろう??

効率とか、経済とか、それも大事ではあるけれど、
いのちの巡りや人のつながりは、お金では買えないから。
初めて自分で作った紅茶を飲みながら、そんなことを考える。

水俣展の年表に、1日あたりの入場者数をカウントすると、98年の豊橋展と99年の浜松展が突出して多い(某宗教法人の動員があった沖縄はのぞく)。
地方都市で1日700人以上も動員するイベントをボランティアが何日もやることは容易くない。あの時の「どうしても伝えたい!!」という実行委員の思いが、これだけの人を呼んだのだなぁ、と今更ながら。

私にとっての「水俣」とは?
憲法記念日の3日は、60周年記念講演会に行ってきます。


小学校で水俣出前授業

2014-03-05 22:15:29 | 水俣
すっかり間があいてしまいました。生きてますよー。
いろいろネタはあるのですが、別のところにアップしてしまったり、書くだけの気持ちの余裕がなかったり…。

言い訳はともかく、2月24日は市内のI小学校に水俣の出前授業へ。
私の役目は「現在の水俣」の紹介だけど、水俣に行ったのはもう5年も前になるのか…と。
E大の水俣ツアーは超充実で楽しかったなーと思い出しながら、カラフルで豊かな海と山の幸に溢れた水俣を紹介。50年かけて、やっときれいな海を取り戻したけれど、今になって高齢化によって水俣病の症状が出てくる人たちが少なからずいること、そして今なお差別が残っていることを話した。

今年は子どもたちの反応が「えー!」「ふ~ん」と率直で、話しやすかった。
特に漁師のもてなし料理の豪華さに「おお~」とどよめいたのは嬉しかった!
思わぬ質問があると、「あ、そこが伝わってないのか」とこちらも勉強になる。今回は反省会でどう伝えたらいいかの議論が深められたので、また次回に活かしていきたい。

残念ながら出前には間に合わなかったけれど、水俣で一番若い農家、吉田家の甘夏が届いたので、毎日職場で「水俣を食べよう♪」とビタミン補給しています。

というわけで、水俣からパワーをもらったので、久々に書いてみました。
他の記事も、思い出したらボチボチアップします。

ハンセン病の国立療養所、多摩全生園と資料館へ

2014-01-04 19:58:54 | 水俣
2、3、4日と母と東久留米周辺の自然と歴史を訪ねてテクテクお散歩。
今日はハンセン病の国立療養所、多摩全生園とその資料館へ。

強制隔離と終身隔離をされた過酷な歴史、1996年に「らい防止法」が廃止されるまでの長い道のりや差別。水俣病と重なることもいっぱいあった。

1500人いた入所者は、今は235人で平均年齢が83歳。子どもを持たせてもらえなかったり(断種・中絶)、病気で親戚づきあいが途絶えてしまったりで、治っても行き場のない方が療養所に今も住んでいる。他にも全国に15カ所の療養所があり、約2000人が余生を過ごしているという。

療養所の中に各種の宗教施設や納骨堂があって、昔は火葬場や学校もあったそうで、エリア内でコミュニティが完結されていたという話が切なかった。広い敷地は緑が多いが、収容した人が逃げられないようにカラタチが植えられた…なんて歴史もあって。

近代史には負の歴史もいっぱいある。隠したり捻じ曲げて美化するのでなく、きちんと知り、過去の過ちは繰り返さない努力がいると思う。

それにしても、国が運営する資料館、こぎれいで立派すぎて、ちょっと違和感も。水俣の考証館と資料館の違いを思いながら見てしまった。
東村山市は「人権の森」構想を掲げているので、今後の展開に期待したい。

原田先生、水俣を映す人生

2012-06-13 21:18:44 | 水俣
原田正純先生が亡くなった。

先生に出会ったのは大学1年生の冬だった。「環境問題」をやりたくて大学に入ったのに、田舎の某大学では「環境問題」はまだメジャーになる前で、フラストレーションを溜めてウロウロしていたら、分類学の助手だった川窪先生が「水俣病の集中講義があるから行ってこい」と言う。「え~、教養の授業があるのに?」と言うと「そんなのはサボっていいから、行け!」と。
水俣病なんて、過去の「公害」であって、私がやりたい「地球環境問題」とは違うのに…と思いながらも、2~4年生に紛れて聴いたのが、原田先生の集中講義だった。

「水俣病」は、実家で水俣の甘夏を買っていて、なんとなくは知っていた。でも、原田先生の講義は目からウロコ!!!の話だった。
理系学生だった私は、浅はかにも環境問題は科学技術で解決できるものと思ってたが、健康や環境の汚染、自然破壊だけでなく、差別や人のつながりの破壊など社会的な問題の大きさを、そこで初めて学んだ。
さらに、原田先生が水俣病を医学的に追究するだけでなく、構造的な問題にも切り込んで国やチッソを相手に闘いながらも、常に患者に寄り添っている姿勢が、ものすごく印象的だった。

それをきっかけに、水俣には何度足を運んだだろう。
鹿児島で開催した自然保護の全国交流会に相思社からゲストを呼んだり、広島で開催した国際会議のゲストを水俣に連れていったり。

その後、1999年に浜松で「水俣・浜松展」を開いた時には、ブラジル人が多い土地柄ということで、原田先生に了解を得て、先生の書かれたあちこちの文献を元に「世界に広がる水銀汚染、公害」というオリジナルの展示を作った。
「原田先生のお話をぜひ浜松で!」と最終日の講演会にお招きした。水俣フォーラムの実川さんに「先生をどう紹介したらいい?」と聞いたら「水俣病患者を一番診ているお医者さんで、水俣病患者から一番信頼されているお医者さん」と言われて、私から先生の紹介をさせていただいたのだが、私はその日に東京に戻らなくてはいけなくて、肝心の講演は聴けなかったのが心残りだった。

講演前に先生とお話した時、「水俣病の運動にのめりこむあまり、医学生なのに卒業できなかった学生がいたのは残念だった。彼には医師として患者を救うという役割を果たしてほしかったのに…」という話は、修論そっちのけで市民活動にのめりこんだ私には耳の痛い話でもあった。
でも、原田先生はいつも柔らかい笑顔に穏やかな話しぶりで、本当に親しみやすい方だった。

原田先生には、水俣に関する著作が多数ある。
「水俣病は鏡である。この鏡は、みる人によって深くも浅くも、平板にも立体的にもみえる。そこに、社会のしくみや政治のありよう、 そして、みずからの生きざままで、あらゆるものが残酷なまでに映しだされてしまう」
「水俣が映す世界」(日本評論社、1989)は繰り返し読むことになった。
子ども向けの「水俣の赤い海」は、水俣・浜松展でのベストセラーでもあった。

原田先生の訃報、あちこちのメディアが詳しく取り上げていて、改めて大事な人を亡くしたのだなと…(涙)。
心より、ご冥福お祈りします。

水俣から福島へ

2011-05-03 21:42:12 | 水俣
4月26日はチェルノブイリ事故から25年。そして、5月1日は水俣病公式確認から55年。
鹿児島の小川美沙子さんからのメールニュースを転載します。
水俣市長も「緊急メッセージ」を市ホームページにアップしています。

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★グループ原発なしで暮らしたい・水俣 永野隆文さんからの転送です。
4月30日、水俣病公式確認55年目の前日、集会を開催(我らが橋爪先生も参加)、下記のアピールを出し、5月1日、水俣を訪れた環境副大臣に手渡しました。

集会の賛同団体:水俣病互助会、水俣病被害者互助会、水俣病市民会議、グループ原発なしで暮らしたい水俣、水俣病協働センター、水俣病患者連合、水俣病センター相思社、水俣の暮らしを守る・みんなの会、東京水俣病を告発する会、ほっとはうす

「水俣から福島へ」 原発事故と水俣病事件を考える集いアピール 
2011年4月30日

1956年5月、水俣病が公式に確認されてから、55年の歳月が経過する。当初70名ほどの急性劇症の患者が「直ちに健康被害がある」水俣「奇病」患者として、認定された。
そして、加害企業チッソと国、熊本県等によるくり返しの幕引きと終息策動に抗する被害者達の闘いによって、今や健康被害を起こした水俣病被害者の総数は55000人を超えた。
当初、被害を過小評価し、加害企業を擁護したことにより、初期対応を失敗し、被害を拡大せしめた失敗の歴史が水俣にある。

1957年9月、厚生省は食品衛生法の適用を「水俣湾のすべての魚介類が汚染されているとは認められない」として地域住民を見殺しにした。
1958年8月、チッソは排水路を水俣湾から北側の水俣川河口に変更し、不知火海全域へと被害を拡大し、通産省、熊本県はそれを見過ごしてきた。
そして、1960年頃おこなわれた沿岸漁民らの水銀汚染のデータが公表されたのは、10年後のことであったし、国が加害責任を認めたのは2004年10月の関西訴訟最高裁判決による。
被害の全容は未だ解明されていないし、その加害責任の検証もおこなわれていない。

福島においても、原発事故発生以来、その対応に私たちは大きな憂慮を抱いている。
今、福島で起きていることは、水俣病事件における1950年代の事態ではないかと私たちは考えている。
放射能による汚染が起きているこの事態に、発せられる言葉は「直ちに健康に影響はない」「CTスキャン一回分より少ない」「海洋に流せば希釈されるから安全」「魚は回遊しているから汚染はたいしたことはない」。

私たちは愕然とする。水俣病の教訓などどこにも生かされていないのだと!

1号機、3号機の水素爆発、3月15日、2号機の格納容器等の損傷によって、放射能拡散が最大になったことが国民に知らされたのは、IAEA(国際原子力機関)の3月30日の発表後のことであった。
「風評被害」などを恐れる対応によって、最も優先されなければならない「住民の健康を守る」対応が遅れている。
私たちは以下のことを東京電力、政府及び関係機関に要望する。

1、あらゆる生命を放射能被害から守ることを優先する施策を行わなくてはならない
今必要なことは、汚染の現状を徹底的に把握し、そのすべてのデータを速やかに公表し、保全する。その事実の上に速やかな避難誘導が不可欠である。特に子供たちや妊産婦に対する予防的避難は極めて重要である。
緊急時ゆえにこそ、安全基準は守らなくてはならないと私たちは考える。

2、賠償は、加害責任の検証と被害者の参加によって行わなくてはならない
賠償の枠組みが議論され、一部の枠組みなどが決まったとの報道がある。
被害者、当事者の参加なき賠償の仕組みの議論は本質的解決とはならない。
また、この事故を生み出した責任を明確にし、その検証が必要であり、その責任者は賠償の責任を負うことを明確にすべきである。

3、原子力政策の転換を
スリーマイル、チェルノブイリ、東海村JCO、柏崎そして福島原発事故によって原発の危険性は明白である。地震国日本の中で、原発の継続は国民を新たな放射能汚染の大きなリスクに曝すことである。
だたちに原子力政策を見直し、原発に頼らない社会づくりを目指すべきである。

「原発事故と水俣病事件を考える集い」参加者一同

水俣の教訓は生かされているか<諫早湾・上関・川内>

2011-04-13 23:41:49 | 水俣
4月16日(土)に鹿児島大学で原田正純先生の講演会がある。

公開講演会「水俣に学ぶ」
日時:4月16日(土)14:00~16:30
場所:鹿児島大学理学部220号教室(鹿児島市郡元1-21-35)

《プログラム》
はじめに…水俣の教訓は生かされているか〈諫早湾・上関・川内〉 
佐藤正典(鹿児島大学理学部)

講演「水俣が映す世界」
講師:原田正純(医師、元熊本学園大学)

水俣病は、日本歴史上最悪の工場廃水による環境汚染事件である。1956年の公式発見から半世紀が過ぎた今も、多くの住民が被害を認定されないまま放置され、チッソと行政の非を問う裁判が続いている。
水俣病の歴史には、経済発展のために弱者の人権や命を軽視した社会の病根が映し出されている。今日の様々な環境問題の原点がここにある。
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鹿児島の小川さんからの情報に、思わず「おお!!」。
佐藤先生による原田先生の講義といえば、大学1年生で学部にもぐりこんできいた水俣病の集中講義。あれが「水俣」との衝撃的な出会いだった。私の原点の一つでもある。

佐藤先生は講座こそ違えど、お世話になった恩師の一人。
干潟や原発の温排水の影響を追い続けている。
福島の事件を見れば見るほど「ああ、水俣がまた繰り返されている」と思う。
そんな今だからこそ、一人でも多くの人に(特に学生!)佐藤先生、原田先生の話を聞いてほしい。

水俣を繰り返さないために、そして、福島を繰り返さないために。

ちなみに「チッソ株式会社」は2011年4月に分社化した。
JNC株式会社は「優れた技術で、社会の進歩に貢献する、先端化学企業」なんだそうだ。

水俣の甘夏酒レシピ

2010-03-28 22:17:35 | 水俣
せっかく神戸まで行って日帰りなのは、農作業が待ってるから!
今日もせっせと畑づくり。ホウレンソウもワケギもちっとも大きくならないのは、師匠に「肥料が足りないから」と。元肥に鶏糞を入れたけれど、足りなかったようで。水菜の花畑を耕して、次のための土作りに汗を流す。
ひょろひょろのワケギを収穫し、キャベツ、春菊、タケノコをもらって、午後はひたすら洗って調理。春は美味しくて忙しいー!

先日は、箱買いした水俣の甘夏@みかん山をせっせと職場とNPOの人たちに食べてもらって、皮を蜜柑酒に漬け込んだ。無農薬なので安心して使えるし、実を入れたものに比べて、香り高いドライなリキュールになる。
作り方は、皮をよく洗って大きめに切り(6分割ぐらい)、白いわたの部分をなるべく削ぎ取り(これが手がかかる~~~)、1kgの皮(約10~12個分)に、35℃のホワイトリカー2.4リットル、砂糖350gを入れる。3ヶ月ほどして、皮を引き上げ、クエン酸で酸味を調整してできあがり~。

先日、I小学校へ水俣の出前事業に行った時、甘夏もお土産に持って行ったけれど、甘夏を知っている子どもたちは4分の1ぐらいだった。
今は剥いて食べる蜜柑は売れないらしい。たしかに、甘夏はすっぱいし剥くのも手間がかかるけれど、酸味と甘みの融合が美味い!温州みかんや伊予柑のママレードだと、いまいちパンチに欠ける。酸いも甘みも兼ね備えた甘夏のママレードにはかなわない。

農と食から取り組む「アンチ・グローバリゼーション」の実践は、手間はかかるし、筋肉痛にもなるけれど、「汗水流して労働する」という体感も大事だなぁと。実際に自分で一通りやってみると、“安すぎる食品”がどこかで労働の対価や原料の質がゆがめられていることがわかる。
ギョーザ事件の原因の一端には、「より便利で安い食品」を求める消費者側の力もあったことを忘れてはいけないと思う。
安くて安全で美味しいものを食べるには、結局自分で作るか獲るのが一番!仕込んだものができるのが楽しみ~♪

ようこそ みなまた! 写真展 水俣を見た7人の写真家たち

2010-02-10 09:46:35 | 水俣
パンフレット表
パンフレット裏

日時 2010年2月11日(木・祭日)~2月17日(水)
  10:00~20:00 初日17:00から、最終日16:00まで
会場:グリーンホール相模大野 多目的ホール 
入場料:無料
主催:「水俣」を子どもたちに伝えるネットワーク

★バリアフリー写真展をめざし、写真には音声ガイド・点訳ほかを用意しております。

11日(木)~17日(水) 「さがみはらを見た写真家たち」芥川仁、安川源通
11日(木)18:00~ オープニング・トーク「写真を撮る・見る・聴く」
   江成常夫、桑原史成、芥川仁
12日(金)午前 芥川さん自身によるギャラリートーク
12日(金)14:00~ 埼玉大学水俣合宿メンバーによる若者のためのひととき
12日(金)19:00~ JAZZ×PHOTO I didn't know Minamata
13日(土)11:00~&14:00~(午前、午後同一プログラム)
こどもたちのためのこどもたちとともにきく 朗読と音楽の会
13日(土)18:00~ 結純子 ひとり芝居「道行のえにし」
14日(日)14:00~ うたと舞い
        ♪呼んでいる~の歌声の♪ 木村弓、佐藤響子
14日(日)17:00~ ミニ・ライブ&トーク♪
        ナニワの唄う巨人 ハギやん 趙博
14日(日)11:00~ 15日(月)19:00~ 水俣のドキュメンタリー映画上映
『わが街わが青春ー石川さゆり 水俣熱唱』音声ガイドあり
15日(月)10:30~、15:30~ らいぶらいぶ at 写真のまんなか
16日(火)19:00~ ファイナル・イベント「詩と写真」

子どもたちに「水俣」を伝える出前授業を始めて、10年になります。 
振り返ってみると、伝えるたびに、
子どもたちから道標となる「気づき」をもらってきました。
たぶん、伝えることは、同じ街で一緒に暮らそうとするとき、
とても大切なことなんだろうと思います。
私たちは、子どもたちからもらった「気づき」に向き合うことで、
自分のこと、この街のこと、未来のことを考えるようになってきたからです。
そして、伝えようとする時、未来を、人間を信じている自分に気づきます。
出会った子どもたちがそうであったように。
未来を拓き、信頼を培うきっかけになることを願い、
<写真展 水俣を見た7人の写真家たち>を開催します。

今回は「バリアフリー写真展」をめざし、音声ファイルを用意しました。
音声ガイドのファイル作りを手伝ってくれた相模女子大の橋場先生のサイトにアクセスしてみてください。
写真展の内容や、事前解説となる音声ファイルが聞けます。
開催に向けての動きのブログもご覧ください。

「水俣」を子どもたちに伝えるネットワーク さがみはら写真展 開催実行委員会

主催 「水俣」を子どもたちに伝えるネットワーク
 TEL/FAX 042-748-9902 E-Mail otoiawase@tsutaeru,jp  
後援 相模原市・相模原市教育委員会・水俣市立水俣病資料館・フォトシティさがみはら実行委員会・相模原・町田大学地域コンソーシアム・(財)相模原市民文化財団・(社)相模原青年会議所・東京新聞横浜支局・読売新聞東京本社横浜支局・朝日新聞横浜総局・毎日新聞横浜支局・神奈川新聞社・相模経済新聞社・エフエムさがみ


さがみはら水俣写真展、チッソ分社化

2010-02-08 17:22:49 | 水俣
今週末11日からは伝えるネット「水俣を見た7人の写真家たち」の相模原写真展。目の見えない人も一緒に写真を観るというユニバーサルな写真展で、2008年6月の浜松の写真展から、どれだけバージョンアップしているのか楽しみ。 
水俣からは、そろそろ甘夏が届くシーズン。待ち遠しい~

さて、相思社のブログに、チッソ会長のとんでもない社内報がアップされていてびっくりしたので、その抜粋を。(太字は私)
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昨年七月に「水俣病被害者救済特別措置法」が成立しました。会社は、この法律に従って、水俣病の最終解決を計ると同時に、分社化によって、一挙に会社の再生を果す方針であることは、すでに、お伝えした通りです。
(中略)
チッソ、新チッソを合わせれば、現在のチッソのやっていることと何等変るものではありません。しかし、重要なことは、新チッソは水俣病に係る債務を負っていないということです。新チッソは約五百億円の純資産を持つことになり、連結経常利益(現状約二百億円)が、殆どそのまま最終利益として計上されることとなる訳です。このような新チッソの実力が、決算毎に明らかになれば、信用が格段に向上し、取引の活性化や、人材確保に役立つこととなります。
また、紛争その他水俣病の桎梏から解放されることにより、経営は安定し、社員の皆さんのモラールも、少なからず向上するものと期待しています。
(中略)
自立後の新チッソが、文字通りの優良会社として評価され、有利な立場で、資本市場などの新しい世界へ入って行けることを意味するのです。…
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…ここまでアカラサマに書くとは。
社員のモラル向上以前に、起こした事件に対する反省も教訓もなく、過去の罪を切り離して、リスタートに浮かれる会長のモラルを問いたい。
「被害者救済法」ならぬ「チッソ救済法」については、2009年6月30日~7月7日のブログ参照。

先週末の話はのちほど。
早く書かないと、週末にカーニバルと春節がいっぺんに来てまうよ~~