柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

呼水

2017-04-23 10:07:51 | Weblog
共謀罪を潰したいんですねぇ野党、特に共産党と民進党は。自分達が対象にされるからでしょうし、それはそれで理由のあることなのですが、彼らが挙げる具体例が幼稚で嗤ってしまうというか、そりゃないだろうと呆れるものばかりで。戦前戦中の治安維持法を引き合いに出します、こうなってはいけないという歴史です、これもわかります。新聞や雑誌が色々教えてくれます、この天下の悪法も当初は一般人を対象にしないとされていて(対象はアカですあからさまに)、でも一旦法律になるとその後どんどん改正されて、戦争反対と言っただけで特高、憲兵にしょっ引かれる相互監視の密告社会になったという歴史です。トントントンカラリと隣組、あれこれ面倒味噌醤油・・は実に窮屈な社会だったことを示しているのです。高度成長期以降の核家族という言葉で象徴される近所づきあいの希薄化を嘆き、不都合な社会現象の原因をそこに求めようとするのは現代においても強い流れですが、その逆に振れての強制的に他人と結び付けられる、相互監視される社会の閉塞感、息詰まり感には想像するだけで強烈な嫌悪感が湧きます。特に私はベタベタが嫌で、他人からの介入を一切望まぬ性質ですので、こういう社会への忌避感は強いのです、だからそういう推測を言い立てる左巻き達の言い分にも理は認めています。が、連中の反対の仕方が幼稚なんですね、シミュレーションするケースが幼稚。花見に行くのが本来の目的かテロ行為の下見かどう判断するんだ?とか、同僚との飲みの場で上司を殺してやりたいなんて口に出したらダメなのかとか。そんなことはない、その者が悪意を持っている(犯罪を計画している)かどうかなのだと政府が答えると、どうやって確かめるんだ?と。それは尋ねる調べるしかない、するとそれは憲法で保障されてる内心の自由の侵害だとくるのです、共産党議員はさらりと言います、つまり連中の理論構成はここなのですね。実際に行動を起こしていなくても、よからぬことを考えるだけでしょっ引かれるんだろうと非難するんですね。そんなことはなかろうと常識的には思いますけれどね、でも、戦時中は戦争に負けるぞとか天皇や軍部の批判を大っぴらにやった日には引っ張られたのですからね。それが歴史です。内心の自由までを制限することなどはできませんが、表現の自由が大幅に制限されるわけです。何を思おうが自由だが危険(犯罪)行為は許さない。どう議論を煮詰めてもここまでですね。内心の不自由なんてはそもそもないことですよ、それを口に出すか行動に起こすかの違いだけ。つまり招来されるのは表現の不自由さ。いえどちらも憲法で保障されてる権利です。どちらがどちらではないはずですし、今更内心とはとの定義論を始める気もないですが、私が虐待や病人による犯罪事件に対してここでよく言い放っているところの「虞犯者や危ない奴をちゃんと把握監視しておけよ行政!」とこりゃ寸分違わぬことなのかしらと気づいてもいます。個人の自由や権利は社会の安全に優先するものではないと思っているからのことですが、それは自分がその対象にはならぬだろうという思い込み、自分は多数側にいるだろうという前提有らばこその考えですね。誰かが書いてましたよ、わずか二週間の東京五輪期間の安全対策のために日本百年の道を誤ってはならぬと。ううむ、これも理があるなぁ。何を言うても書いても話してもいい社会は実はすごく高度な民度に支えられてるという実感ですね。もっと国民の議論を湧きたてるように野党は持って行くべきでしょう、それは憲法に保障されてる基本的人権の有難さの再認識に繋がりますし、それは改憲か護憲かの議論の呼び水にもなるでしょうにね。
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