柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

人口

2013-03-31 09:44:33 | Weblog
一票の格差(較差)判決についてあれこれ論評されてますが、今朝のTBS関口宏の番組でのコメンテイター達です。一票の平等性を言い募る余りに、地方を蔑ろにする、都会の言い分ばかりを通す行政にしてはならぬとか、田舎に住む権利を奪うような結果になってはならぬという意見。田舎を基準にすれば(人口割りという考え方をする限り少ない所が基準です)その何倍も都会から代議員が出てくるわけです。声の大きい方が勝つ政治システムですから、この言い分は当を得ています。この訴訟を起こした弁護団の首魁が態度大きく、これぞドヤ顔でアメリカはこうこうでと比べながら、日本には真の民主主義、国民主権というのが根付いていないのだとしたり顔でした。番組でも毎日新聞の論説委員だかが、もう国民の我慢が極限なのだと枕振ってましたが、そんなことはないだろう?国民が不平?誰が?不平鳴らしてるのは原告団の人権弁護士達だけでしょうに。アメリカと比べても何にもならぬことでしょうに、何か不都合を訴える時には常にこういう比較です。アメリカが手本というわけです。民主主義の手本はアメリカだと。違うでしょう?インディアンを皆殺しにして駆逐して、アフリカから奴隷黒人を連れてきてあれだけ黒人(有色人)差別社会を作りあげた国が手本?バカバカしい。明治天皇の五カ条の御誓文こそが民主主義の神髄です。公議輿論に決すべし。アメリカに与えられた?とんでもないことです。安易に人口割りにばかりこだわると、文化圏生活圏を無視した無茶な区割りがなされましょう、何年か前の市町村合併のような吸いこまれる側の衰退をまた生じてしまうという危惧があります。もっとも小選挙区制に変わった時の区割りの変更の際も同様の非難があった筈で、どう変化しても慣れてしまえばそれだけのことなのですが。何でもかんでもアメリカ(他国)が正しい、日本は間違っているという考え方が気に入らぬのと、何でもかんでも国民(連中にすれば市民でしょうが)の声だとすり替える恣意が鼻につきます。サヨクさん達の常套ですから。
 島根県が公文書で自殺を自死に書き改めると決定したとの報道です。遺族からの強い要望があったそうです理由は。記事によると、県障がい福祉課は「自死には一生懸命生きようとしたが、無力や絶望の果てに亡くなったというイメージがある」と指摘しているそうです。遺族を自責の念から解放するのを後押しする効果がある、のだそうです。いかがですか。違和感ありませんか。どうしてこういう言葉狩りして事足れりとする安易さが横行するかなぁ、が一点。遺族(弱者)が嫌がればなんでも通るのか、が二つ目。自死には無力や絶望の果てに亡くなったなんてイメージはないですよね。まさにそれが自殺であって、自死とは諌死とか憤死とか殉死とか、目的があって自ら命を断つイメージですね、自裁という表現もあります。が、三点目。勝手にイメージ作っちゃいけないよ。もっとも、障碍障害を障がいと表記する役所みたいですから、自殺はまずいんでしょうね、どうまずいのか理解が届きませんが。切腹は自殺ですか自死ですか。今時切腹なんてしないですが、昔の「腹を召されよ」や罪の意識や汚名を雪ぐ目的の行為は自殺ですか自死ですか。自死を私が言うように定義すれば、自殺は縊死、身投げ、心中という現状からの逃避の極形というものでしょう、うつ病などの精神病による一症状という切り口もありますが。だから本当はそうであっても、そういう目で見られたくない。遺族の気持ちはもちろん理解しますが、だからといって言葉狩りしてどうするんだという話です。自死という言葉の意味を曲げてまで公文書表記を替えるほどのことですか。遺族の恥を隠す隠すなではありません、端から晒す暴くつもりなどないことです。事実を事実として粛々と記載してこその公文書です。首長の肚が問われるところ、鼎の軽重が問われるところ、ですか。
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