千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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佐倉市の戦争遺跡5(臼井周辺の戦争遺跡)

2009-05-05 | 佐倉市の戦争遺跡
1.印南小学校旧在地に残る紀元二千年記念体育館など

佐倉には、郷土連隊として佐倉城跡を兵営とした通称「佐倉連隊」、すなわち当初は陸軍歩兵第二連隊、第二連隊が日露戦争後水戸に移ると、その後は陸軍第五十七連隊などが置かれた。もともと佐倉には江戸時代佐倉藩があり、明治以降も郷土意識が非常に強く、文武両道を重んじる気風があった。佐倉藩の藩校は佐倉藩学問所として設立され、温故堂、成徳書院と改称されながら存続し、明治以降は私立学校となったりしたが、1899年(明治32年)千葉県に移管され、(旧制)千葉県佐倉中学校、さらに2年後(旧制)千葉県立佐倉中学校と改称された(現在の千葉県立佐倉高校)。

その(旧制)佐倉中学校に、紀元二千六百年の記念事業として1942年(昭和17年)に建設されたのが、「新武道場」である。いわば、紀元二千年記念体育館であるが、1988年(昭和63年)に印南小学校旧在地に移築されている。
印南小学校旧在地は、臼井駅の西南西、3Kmほど、国道296線の通る江原台の台地上にあり、江原のバス停を国道沿いに約150m西に行ったと、南に分岐する路地をはいった所である。

なぜ、印南小学校旧在地にあるかといえば、印南小学校、かつての印南尋常小学校の前身が、藩校の附属郷校であったためといわれる。現在は、佐倉市立青少年体育館となっており、剣道の練習などのために、中はきれいな床が張られている。トイレの増築などを除けば、外形はほぼ当時のままで、内部は前述の床面の張替などが行われている程度である。

<印南小学校の旧在地に移された佐倉高校の「新武道場」>


この建物は、木造平屋建てで瓦ぶき、床の広さ14.6m×23.6m、天井の高さ4.5mで、窓が多く採光に気をつかっている。現在は、前述の通り体育館として使用されているが、剣道、卓球、軽スポーツなどに利用されている。

<「新武道場」を横から見たところ>


もう一つ、そこには、「佐倉連隊」の門と伝えられるものがある。それは、印南小学校の旧校舎の校門であり、そこには「佐倉市立印南小学校」という小さな表札がかかっている石で出来た門柱と両脇の土塁の土留めがある。これは、印南小学校、かつての印南尋常小学校の正門であり、1915年(大正4年)に校舎を改築した際に、「佐倉連隊」から60円で払い下げたと伝えられている。「佐倉連隊」の門は表門以外に、裏門、西門があったが、この門はどの門であろうか。

当地江原新田では、肥沃な耕土を利用した畑作がさかんで、その畑作で野菜作りを主に行ってきたが、野菜作りには豊富な肥料を使うため、五十七連隊と「下肥馬糞払下及汚物掃除契約書」を結んだ農家もあった。すなわち、連隊長は江原新田住民に下肥・馬糞を払下げて、江原新田住民は「おおむね毎日一回、連隊長の指示に従い」下肥の汲み取り掃除をするという契約で、1932年(昭和7年)4月の契約では、払下げ価格は一人一箇月分2銭となっていた。
連隊の厠は、現在の歴史民俗博物館本館の西側の鬱蒼と木が茂った場所にあったが、その厠脇を通って、鹿島川のある低地に下りる坂があり、「へび坂」と呼ばれていた。この「へび坂」を下ると、西門に出るのだが、下肥の運搬をしたために、後に「肥やし坂」とも呼ばれるようになった。江原新田住民は、さらに鹿島川を越え、角来の急な坂をのぼって、台地上の畑地まで、連隊からの下肥・馬糞を運んだのである。

その他、草刈りなどで連隊に出入りする農民も多く、彼らが出入りしていた連隊西門を払い下げたようであるが、確たる証明がないために断言はできない。

<「佐倉連隊」の門を払下げたと伝えられる印南小学校旧校舎の正門跡>


2.逓信省臼井無線送信所跡

現在の国道296号のバス停「聖隷佐倉市民病院入口」の南側の奥一帯には、1986年(昭和61年)まで臼井無線送信所があった。これは逓信省が1943年(昭和17年)に開局、85m鉄塔2基と45m鉄塔7基があって、航空標識業務を行った。臼井無線送信所は米軍艦載機の標的にされ、何度か空襲にあっている。

逓信省は、戦後の1949年(昭和24年)、二省分離(郵電分離)で郵政省と電気通信省となり、無線送信業務は電気通信省の所管となり、電気通信省が日本電信電話公社に移行すると、臼井無線送信所は日本電信電話公社の施設となった。船舶への短波帯での無線送信などを行った無線局であったが、日本電信電話公社のNTTへの移行に伴い、廃局となった。

現在は、更地となっており、建物遺構はなく、わずかに境界標識などが残っている程度である。

<臼井無線送信所跡>


3.円応寺、光勝寺の頌徳碑

臼井には、千葉氏一族である臼井氏が創建した寺社が、臼井城の周囲にいくつかある。その一つで、臼井城に隣接する臨済宗の古刹、円応寺の本堂手前、鐘楼横の一角に広島で原爆で亡くなった方を含む18名の戦没者の名前刻んだ1954年(昭和29年)建立の頌徳碑がある。それには戦没された方の名前や場所などが刻まれているが、「佐倉連隊」の所属がほとんどと思われるので、戦死などの場所がかなり南方に集中している。

その頌徳碑の後ろには、陸軍歩兵第百五十七連隊(福井部隊)の戦死者4名の墓もあり、そのうちの1名の少尉の墓には陶板に写真を焼き付けたものが組み込まれている。

<円応寺にある頌徳碑>


同じく、時宗の寺で、臼井氏の尊崇をうけた光勝寺にも、本堂のある台地中腹の場所から墓地のある台地上にのぼる途中に頌徳碑がある。
これは、1958年(昭和33年)に建立されたもので、レイテや太平洋上などで戦死・戦病死された7名の方の名前や亡くなった場所などが刻まれている。

<光勝寺の頌徳碑>


4.臼井の八幡神社の石碑など

臼井の八幡台には、南北朝時代に足利尊氏に従って戦功があったという、臼井氏中興の祖ある臼井興胤が建てた八幡神社がある。ここにも、戦争にまつわる記念碑があるが、こちらは慰霊碑の類ではなしに、帰還記念碑のほうである。

参道の奥右側の一段高くなったところに、1906年(明治39年)9月に建立された「神徳碑」がある。これは、最後の佐倉藩藩主であった堀田正倫伯爵が篆額、地元の臼井田の日露戦争からの「凱旋軍人」として、九名の名前を連ねている。石碑は、日露戦役で干戈を交えること二年、硝煙弾丸の雨をくぐって奮闘してきた。区内の応召兵士九名も戦地深く生還を期さなかったが、戦争が終わり無事に帰還することができた、これも氏神である八幡神社の神徳である云々といったことが漢文で書かれ、最後に「圓應精舎丗四世沙門湖海撰」とある。円応寺の三十四世住職が書いていることになるが、円応寺も臼井田地区の寺であり、当時としては自然の成り行きだったのかもしれない。

<日露戦争帰還記念碑>


石碑はもう一つあり、千葉市のある個人が、「日支事變」の帰還記念として二百円を八幡神社の基本金として献じ、その石碑を建てたものである。

<日中戦争帰還記念碑>


八幡神社の参道の入り口のところに、白い御影石の石柱があるが、これは太平洋戦争開戦の前年である1940年(昭和15年)に地元の人が敷石50枚を奉納した記念碑だが、「武運長久」と刻まれている。その奉納した人の名前と1字違いの名前(陸軍兵長)が、光勝寺の頌徳碑に刻まれた中にある。はたして、身内なのかどうか分からないが、少々気になる。

<「奉納 武運長久」と刻まれた石柱>




参考文献:
『佐倉の軍隊 国立歴史民俗博物館 友の会「軍隊と地域」学習会の記録』 財団法人歴史民俗博物館振興会 (2005年)

『「佐倉連隊とその時代」を歩く』 山倉洋和「もうひとつの『歴史散策マップ』をつくる会」 (2006)




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