千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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船橋市の戦争遺跡5(嗚呼海軍七勇殉難之趾)

2009-06-07 | 船橋市の戦争遺跡


船橋市は新京成滝不動駅から東に1Km余り行ったところに、大穴という地区がある。その大穴北8丁目にある高齢者用住宅の近くに、谷津田に面して、台地中段が帯状に平坦になっている場所があるが、なにやら石塔があるのに気付く。近くに寄らなければ分からないが、実はその石塔は「嗚呼海軍七勇殉難之趾」と彫られており、戦争中に海軍機が墜落した慰霊碑である。

(慰霊碑のある台地中段)


そのあたりには谷津田があり、以前は周囲にほとんど家など建っていなかったが、最近では市街化が進み、谷津田沿いの道も散歩したり、サイクリングしている人も多い。たぶん、そうした人は、ここが日本海軍の一式陸上攻撃機が墜落した場所であることは知らないであろう。

大穴という集落は、江戸時代からあり、女流俳人である斎藤その女が出た。その中心地は、もっと東の西光院辺りだったと思うが、斎藤その女の墓もその西光院にある。それはともかくとして、上述の場所に一式陸攻が墜落したのは1942年(昭和17年)11月27日で、乗組員の7名が亡くなった。だから、くだんの慰霊碑にも、「海軍七勇」と彫ってあるのである。

墜落した一式陸攻は、第七〇二海軍航空隊所属のもので、殉職した7名とは飛曹長1名、一飛曹2名、一整曹1名、二飛曹3名の准士官・下士官たちであった。第七〇二海軍航空隊といえば、第四海軍航空隊がラバウルから木更津に帰還する際に改称したものである。第四海軍航空隊は、一式陸攻をラバウルに配備するために、台湾の高雄海軍航空隊から19機引き抜き、千歳空の中攻8機とあわせて1942年(昭和17年)2月に編成された陸上攻撃機の航空隊である。しかし、その編成から半年後の8月7日にはガダルカナル島に上陸した米軍を攻撃し、6機を失い、翌8月8日には第一次ソロモン海戦に出撃するも、わずか3機が帰還でき、殆ど壊滅に近い状態となったといういわくつきの航空隊である。その後も、大きな痛手を受けることがあり、そのため第四航空隊、略して四空は、かげで「死空」と呼ばれるにいたった。

ラバウルは、日本陸海軍が南洋諸島のなかで、最重要拠点としたが、第四海軍航空隊は大きく傷つき木更津に帰還して、名前を第七〇二海軍航空隊とかえ、夜間攻撃訓練、本州東方海上哨戒にあたった。その後、1943年(昭和18年)春には再びラバウルへ行くのであるが、大穴の墜落事故は木更津にいる間に起きた。

(富士山付近を飛ぶ一式陸攻)


1942年(昭和17年)11月27日早朝4時過ぎのこと、天候が急変し、豪雨、雷となったところ、飛行訓練中であった第七〇二海軍航空隊の一式陸攻が大轟音とともに、当地に墜落した。そのため、近隣の人が駆けつけると、墜落した一式陸攻の機体は真っ二つとなって折れており、あたりには油のにおいがし、煙がたちこめていたという。墜落現場は、憲兵や警察隊などが取り囲むなか、当時の豊富村の斎藤村長だけがある程度まで近くに入ることを許された。当時の斎藤村長は、戦後も30年以上生きていたため、斎藤村長の見聞したことが伝わっており、それで当時の様子がある程度分かっている。とにかく、憲兵たちはこれは軍の機密であるから、見聞きしたことを決して漏らさないように、口外しないようにと、再三村民に注意したという。
その翌日には4台のトラックで飛行機の残骸をきれいに運び出し、斎藤村長(当時)のもとには海軍当局から極秘の書状が届いたという。

慰霊碑が建立されたのは、墜落事故の3カ月後の1943年(昭和18年)2月27日で、地元の有志が中心となったようである。建立された当初は、建てた当人たちが管理していたのだろうが、どういうわけか1964年(昭和39年)近所の住民が偶然発見するまで、土中に殆どが埋もれていた。慰霊碑は白御影石でできており、正面の「嗚呼海軍七勇殉難之趾」は大きな字で明確に分かるが、裏面と側面の字が細かくて分かりにくい。薄曇りの日を選んで行き、斜めから見るなどして、何とか判読すれば、以下の通りであった。

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(正面)
嗚呼海軍七勇殉難之趾

(裏面)
故 海軍飛行兵曹長  松本博
  海軍一等飛行兵曹 横山彦造
  同        重村惠
  海軍一等整備兵曹 富澤正吉
  海軍二等飛行兵曹 島田茂
  同        高橋利省
  同        飯田輝與

(向かって右側面)
昭和十八年二月二十七日建之 (以下略)
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思えば、ラバウルから帰還し、飛行訓練をしていた飛行兵曹長と下士官連中は、まさか内地のこんな田圃の近くの山林で墜落して死ぬとは思っていなかったに違いない。その事故を軍機密と処理した海軍、それに対して慰霊碑を建てた当地の住民。戦後一時期、土中に埋もれていた(あるいは故意に埋められていた)、この慰霊碑には、時々誰かがお参りしているものと見え、先日はきれいなユリの花などが供えられていた。こうした慰霊碑には、当時の世相を反映して軍国調な言葉が使われているが、その言葉とは別に近隣の人々の思いが伝わってくる。

(花が供えられた慰霊碑)




(参考文献)
平成15年第4回船橋市議会定例会会議録

(参考サイト)
生まれも育ちも東葛飾
http://blogs.yahoo.co.jp/nonki1945/folder/556027.html?m=lc&p=2

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2 コメント

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こ これは! (エアダン4)
2010-11-28 15:37:55
毎日学校から見えてる・・・
  
鳴呼海軍七勇士殉難の碑 (丸山 光則)
2011-05-18 15:44:28
パソコン見て驚き、「七勇士之碑」草刈・除草やっています、お許し願えたら、連絡下さい。今年も6月に草刈・除草やります。

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