千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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習志野市の戦争遺跡1

2006-05-02 | 習志野市の戦争遺跡
1.騎兵旅団司令部址

軍都津田沼を背景に、習志野市にも戦争遺跡が多い。そのうち、現在の船橋市内にそのほとんどが存在した陸軍駐屯地に関連するものもあるが、その一つが現在公園などになっている騎兵旅団司令部址である。
これは1873年(明治6年)の明治天皇行幸に際して、近衛兵による演習が行われ、それによって演習が行われた大和田原が「習志野原」と名づけられて以来、周辺に軍関係の施設なども拡張配備されてきた一環であるが、1899年(明治32年)日本陸軍初の快速兵団として騎兵連隊が習志野原に創設された。1901年(明治34年)には、現在の習志野市域である大久保に転営、東邦大学、日大生産工学部付近に第十三、十四連隊からなる第一旅団、東邦中学校・東邦高校付近に第十五、十六連隊からなる第二旅団がおかれた。また、八幡公園、旧習志野郵便局の場所に旅団司令部がおかれたのである。日露戦争には両旅団が、日中戦争時には第一旅団が派遣された。その日露戦争当時の第一旅団長であったのが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」でも有名な秋山好古陸軍少将である。ロシアのコサック騎兵部隊に対してよく戦い、騎兵に砲隊も組み込むという独自の編成と騎兵を時には歩兵として使う戦術もあえて行った。しかし、軍隊の機械化により、騎兵連隊はその役割を終え、機械化部隊に再編成されていく。
「習志野市の戦争遺跡2(習志野騎兵と大震災時の虐殺)」を参照方)

なお戦後、連隊の兵舎は、学校の校舎、寮などになり、1975年前位まではかなり残っていたが、いつの間にか新校舎などに建て替えられてしまった。旅団司令部の建物も、郵便局となり、その郵便局も移転した。八幡公園にある旅団司令部の門は現存する。

<習志野騎兵旅団司令部の隊門>


<騎兵旅団司令部址の記念碑>


また、騎兵旅団司令部の隊門付近に、「騎兵第一旅団司令部跡」と書かれた石柱碑「軍馬之碑」などがある。「軍馬之碑」とは、戦場では文字通り、人馬一体となって、騎兵を背にして戦場を駆け抜けた軍馬の霊を慰めるために建てられたもので、「軍馬之碑」「馬頭観世音」「軍馬忠魂塔」と三つが並んでいる。

<「軍馬之碑」と「馬頭観世音」>


騎兵旅団司令部址に程近い誉田(こんだ)八幡神社には、硫黄島の戦いで有名な、習志野騎兵出身の栗林忠道陸軍大将が陸軍少将のときに揮毫した「紀元二千六百年記念参道敷石竣工之碑」という石碑が、その参道脇に建っている。習志野市の一神社の参道のための記念碑にしては、ビッグネームが揮毫したものである。

<栗林忠道揮毫の石碑>


奇しくも硫黄島では、栗林忠道陸軍大将とバロン西こと、西竹一陸軍中佐(戦車第二十六連隊長)という習志野騎兵学校出身の二人の有名人がいたことになるが、かなり身近なところにその足跡があったものである。バロン西については、米軍がその馬術の名人をむざむざ戦死させるのを惜しんで投降を呼びかけたが応ぜず、顔の片側を火炎放射器で焼かれながらも最後の突撃をしたとも、自決したともいわれるが、真相は分かっていない。


2.陸軍鉄道第二連隊の隊門と演習線

現在の千葉工大が、かつて陸軍鉄道連隊のおかれた場所であったことを知る人は、今では少なくなっているかもしれない。
1907年(明治40年)に従来の鉄道大隊が鉄道連隊に昇格、津田沼に兵営を一旦移した後、1908年(明治41年)に千葉に鉄道連隊司令部、第一大隊、第二大隊が移転、津田沼には鉄道第三大隊が置かれた。1918年(大正7年)に津田沼の鉄道第三大隊が、陸軍鉄道第ニ連隊に発展的に改組された。戦後、その津田沼の地にできた千葉工大は、東邦大学などと同様にその兵舎を校舎などとして利用したのである。
かつては、その兵舎を利用した校舎もあったのだが、10年以上前に立て替えられ、現在は見ることができない。今なお残るのは、レンガ造りの隊門のみである。その隊門は、1998年(平成10年)に国の登録有形文化財の指定をうけた。

<陸軍鉄道第ニ連隊の隊門址>


さらに、鉄道連隊絡みの遺跡としては、演習線の址がある。これは京成大久保駅近くのスーパーマルエツ前の歩道が該当する。今では、地域の人の生活道路となっているが、れっきとした軍用の演習線である。
前述のように鉄道第三大隊を津田沼に移転させた軍は、占領地への軍用物資補給を円滑にするための手段として、演習線を作り、それで要員訓練することを考えた。
演習線は、津田沼~松戸、津田沼~三山新田~犢橋~千葉のニ区間とし、総延長45Kmで、敷設、撤去、修理の訓練も行われた。そして、ここで教育を受けた兵たちは、樺太の鉄道敷設、日中戦争などへの出動に駆り出されたのである。

<鉄道連隊演習線址>


現在の新京成線は、鉄道連隊の軍用線のうち、津田沼~松戸間の路線を戦後京成電鉄が獲得し、演習用にその余りに湾曲していた部分はショートカットするなどして営業運転させたものである。現在のイトーヨーカドーに隣接した新京成電鉄新津田沼駅付近は、かつて鉄道連隊の倉庫や資材置場があった。また戦後の一時期、千葉工業高校があった場所でもある。ここに、かつて鉄道連隊で活躍したK2型蒸気機関車の134号機が、そのイトーヨーカドー脇の津田沼一丁目公園に展示されている。機関車としては小振りで、遊園地にでもありそうな汽車である。これは、終戦後西武鉄道に払い下げられ、砂利採り線などで使用されたもので、現役でなくなってからは、ユネスコ村にあったが、1994年(平成6年)に鉄道連隊所縁の津田沼に戻された。かつて鉄道連隊では、こうした軽機関車二台を後ろ向きに連結した、双合機関車として利用された。それは、急カーブや急勾配でも強さを発揮、また車重が軽いことや揚水機をもっているという利点もあった。

<鉄道連隊で使用されたK2型蒸気機関車>



3.陸軍習志野学校

有名な毒ガス問題が新聞等で報道され、環境庁などの住民説明会も開かれた。昭和に入って騎兵第二旅団の施設が転用されるなどして開校、化学兵器の研究がされたが、真相はわからないことが多い。動物実験などが多くなされたという。現在、その記念碑などもなく、むしろ隠蔽しようという向きが多いようである。

<習志野学校の中心部分があった「ならしのの森」>


<コンクリートの基礎などが散乱しているが、一見ただの森に見える>



この習志野学校の遺構は、研究施設などの建物基礎(「ならしのの森」となっている千葉大腐食研究所跡、および隣接する住宅)、裏門跡および歩哨舎跡(泉町の民家横および民家敷地内)、車廠の床面(大久保保育所の園内)、弾薬庫跡(児童公園)などがある。陸軍習志野学校の中心施設は、鉄筋コンクリート製の実験講堂であるが、現在は建物は跡形もなく破壊され、公務員宿舎の建設時に八角形の基礎が見つかったのみである。しかし、この八角形の基礎こそ、中国東北部のハルピン郊外において「関東軍防疫給水部」の名前で細菌兵器の研究をしていた七三一部隊の『八面房』という施設の原型といわれる。
また、戦後習志野学校が保有していた毒ガスを遺棄したという証言もある弾薬庫近くは、現在住宅地となり、弾薬庫跡はなぜか児童公園になっている。
裏門跡の北側は、練兵場であったが、現在は住宅地になっている。わずかに、「陸軍用地」と書いた御影石の境界標石が残る。

<終戦直後~近くに毒ガスを遺棄したという証言のある弾薬庫跡>


<裏門跡の北側に残る境界標石>


詳しくは、
筆者の「千葉県の戦争遺跡」HPの「陸軍習志野学校」の頁を参照方。
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