千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
(無断転載を禁じます)

「千葉県の戦争遺跡」HPに「陸軍工兵学校と松戸」を追加

2009-12-28 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡


「千葉県の戦争遺跡」HP(http://www.shimousa.net/
に、ようやく「陸軍工兵学校」のページを新設することができた。

一応、今までの概要調べや遺構の踏査結果を森-CHANが本職のカメラマンに撮ってもらった写真と手持ちの資料の一部などを作って編集したものである。
小生が以前、「千葉県の戦争遺跡」ブログ(http://blog.goo.ne.jp/mercury_mori/)
に書いていた文章を加筆するとともに、八柱演習場については戦後の旧軍人たちの開拓記念碑についての地元町会が出した冊子などを参考にして記載を増やした。

まだ、「架橋」「交通」「射撃」などと工兵の演習資料が手元にあるが、なにしろ膨大なため、徐々に形にしていこうと思う。演習の記事は未完であるが、まずは大きな懸案の一つが年内に片付いた。

(画像は、陸軍工兵学校で学んだ、ある工兵連隊の将校が描いた架橋作業の操作船)
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大阪で元海軍兵士証言の南京事件関連の集会

2009-12-06 | Weblog
大阪で南京事件の際に、実際に虐殺された市民の遺骸などを目撃した、元海軍兵士の証言や南京で父や弟を日本軍に殺害されたという中国人の証言を中心とした集会が12/5(土)に開催された。

その集会とは、「戦場の街・南京 −安全でなかった国際安全区− PM6:10開場 6:30開演 場所:エルおおさか南館 5Fホール 被害証言:楊翠英さん(当時12歳) 加害証言:三谷 翔さん 南京戦参加元兵士 講演:『程瑞芳日記』は語る 国際安全区で続発する性暴力 南京大虐殺60カ年全国連絡会 共同代表 松岡 環さん 主催:南京大虐殺60カ年大阪実行委員会」である。

元海軍兵士とは大阪府在住の三谷翔さん(90)。南京戦当時は、支那方面艦隊第三艦隊第十一戦隊 第二十四駆逐隊所属であったが、1937年12月17日から25日の間、南京城内の掃討後の死体の山、中山埠頭での虐殺現場を目撃した人である。最後の生き残り世代として、「ほんまに見たんや」と伝える責任があるから証言したいとのことで、今までは素顔を公開していなかったが、今回は素顔でとのこと。
南京事件で親兄弟を殺されたという、中国人のほうは、楊翠英(ヤン・チュイイン)さん(84)。

南京事件といっても、当時の少年の世代が80歳を越え、実際に虐殺に加わった兵士の証言は得にくくなっている。ちなみに、三谷さんも元軍人とはいえ、目撃者であって当事者ではない。しかし、今となっては貴重な証言といえる。

今回の集会で、三谷さんは長江停泊中の駆逐艦から見た、南京の河畔の虐殺での阿鼻叫喚の光景を語った。「殺害した兵士も、出征前はよき父であり、頼もしい青年だったはず。殺すか殺されるかの日々の中で、人間が壊れた。戦争こそ元凶だ」と語っている。

三谷さんは、既に何度か証言をしているようだ。三谷さんの「虐殺の光景、わが遺言 90歳元兵士『南京大虐殺』証言」(朝日新聞大阪本社版、3日夕刊)という記事は、以下をご参照方。

http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK200912030078.html

また、「南京大虐殺 60ヵ年全国連絡会」公式サイトは以下。

http://www.nankindaigyakusatu.com/

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柏陸軍飛行場跡周辺の掩体壕

2009-10-23 | 柏市の戦争遺跡


柏陸軍飛行場周辺に掩体壕があるとの話は、前からあった。しかし、それは長い間確認されていなかった。戦後60年以上たち、柏に展開していた陸軍の各飛行戦隊など飛行場関連の軍人たちは、次々と鬼籍に入り、飛行場が戦後米軍に接収されて、返還後も飛行場跡地が開発されていくなかで、飛行場の関連施設遺構にかんする記憶も風化してしまった。

どういうわけか、旧柏ゴルフ倶楽部敷地内に掩体壕跡と伝えられる箇所があり、それはこんぶくろ池の公園予定地内である。現在、柏市が管理しており、立入りが禁止されている。

國學院大學の上山教授を代表とする「手賀の湖と台地の歴史を考える会」では、柏市の許可を得て、その場所を含めて巡見を行った。掩体壕といわれる、その位置を地図上に特定する、また周辺を調べてみる、終戦後1,2年の航空写真と見比べて、その場所が航空写真でどうなっているかを調べるなどの活動を後日行った。

その後、航空写真でもうつっている税関研修所の東側の道が、柏陸軍飛行場の東誘導路といわれる道であることが分かり、その道路沿いに3基、さらに国道16号線を越えた香取神社近くに3基の掩体壕があることが踏査・実見によって判明した。

それらは、別に新たに「発見」されたものではなく、従前は野馬土手と思われていたのである。それが、航空写真に写っている掩体壕と場所が一致すること、また形状が印旛陸軍飛行場の掩体壕や茨城県小美玉市の百里原海軍飛行場とも似通っていることから、野馬土手ではなく掩体壕であることが分かったのである。
但し、一番初めに同会が調査した旧柏ゴルフ倶楽部敷地内の掩体壕跡と伝えられるものが、結局何であったかは判明していない。


<柏陸軍飛行場の略図>


旧柏ゴルフ倶楽部敷地内の掩体壕跡といわれるものは、東側の土手は高さもあり、掩体壕の一部と考えておかしくないが、南西側は崩れた形で、高さも1.5mほどと低い。

東側の土手も、北のぼさ藪になっている部分で切れており、直下は平坦地、さらに一段低くなる。南西側の土盛の傍、土盛で囲まれた平坦地に、大木があり、太平洋戦争中にはすでに当地に生えていた模様。

これらの土手などを柏市に所蔵されている記録では、掩体壕跡としている。

ただ、箱形の掩体壕としても、三方の土手ではなく、二方のみであるのは、不自然で、掩体壕ではなく、別の構築物であったと思われる。仮に掩体壕であったとすれば、未完成であったか、一方が破壊されたと考えられる。


<旧柏ゴルフ倶楽部敷地内の伝・掩体壕跡の東側土手>


同会は、自然保護団体の案内で周辺を探索し、柏市正連寺の国道16号線の西側にあって、こんぶくろ池に近い資材置場横の藪化している場所で、馬蹄形の掩体壕跡が確認できた。

形は五角形の一辺がない形であり、土手はかなり高く、高い部分では3mほどありそうであった。東側は藪がすごく、見通しが利かず、土手の距離を図るのもレーザー距離計などでは歯がたたず、巻尺で測るしかないように思われた。西側の土手の上にのぼり、向こうをみると、土手が城の土塁のように切り立っていることが分かった。

後日、その場所を1947年(昭和22年)の米軍撮影の航空写真等で確認すると、確かに該当する掩体壕があり、その前の道が誘導路であることも分かった。さらに自然保護団体の話や会員の実見により、税関研修所脇の庭球場近くの山林に一つあることが分かった。

瓢箪から駒のような話で、伝聞から掩体壕跡といわれる土手を調べたあとで、こちらももしかしたら掩体壕かもしれないとしてまわった後のほうが、正真正銘の掩体壕であり、その場所を昔の航空写真と照合したところ、米軍が1947年に撮影した航空写真にうつっている掩体壕と一致し、芋づる式に誘導路沿いの別の掩体壕も見つかって行ったのである。

同会は前述のこんぶくろ池近くの資材置場横のものとあわせて、踏査したところ、両者の中間の位置に、半壊しているが、土手の高い掩体壕があることが分かり、税関研修所脇から国道16号線まで都合3つ掩体壕があることが判明した。そして、国道16号線の東側の香取神社周辺に3つの掩体壕があって、合計6基の掩体壕が柏にはあることになった。

<誘導路沿いの掩体壕の土手にのぼる>


実は、6基の掩体壕のうち、こんぶくろ池公園予定地のなかにはいるのは、税関研修所脇の池に近い2基のみで、あとは開発地域である。とくに、国道16号線の東側の香取神社周辺の3基については、周辺が既に整地に入っていて、風前の灯である。遺跡というものは、一度壊されれば元には戻らない。こんぶくろ池の公園予定地内の掩体壕2基を保存するのは勿論のこと、開発対象区域のものについても発掘調査などを行い、東誘導路の国道より西にある1基については保存してもらいたいものである。

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柏市長へ柏陸軍飛行場関連の掩体壕等保存要請

2009-10-09 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡
柏市の本多晃市長に対し、10月5日(月)に「手賀の湖(うみ)と台地の歴史を考える会」は、柏飛行場関連の掩体壕など戦跡、および現代史調査・研究の要望書を提出した。

会の代表である國學院大學教授の上山和雄先生に森-CHANが許可を得たので、その要望書の全文を掲載するものである。

<柏飛行場関連の無蓋掩体壕の一つ、高さ3m弱の土手をのぼる>



なお、手賀の湖と台地の歴史を考える会のURLは、 http://teganoumi.blog62.fc2.com/ 。
(上記は、市民、学者・研究者で構成され、最近設立された団体。11月8日には柏市大井周辺の歴史散策を企画)

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柏市長 本多 晃 様
2009年10 月5 日

旧柏飛行場掩体壕等戦跡、及び現代史関係調査の要望書

手賀の湖(うみ)と台地の歴史を考える会
代表 上山和雄

太平洋戦争終戦後64年がたち、戦争の惨禍を知る人々も少なくなってきました。日本国民やアジア各国の人々に大きな打撃を与えた戦争の経験を風化させないため、自治体、民間団体のレベルにおいて、様々な取り組みが行われています。こうした各地の動きを踏まえ、文化庁記念物課は「近代の遺跡調査」の中に「戦跡」の調査を加え、1996年度以降「近代遺跡の全国調査」を実施し、その中には544件の戦争遺跡が含まれています。そして現在では、国・自治体が指定・登録する近代の戦争関係の遺跡・文化財は、合計157件に及んでいます。また2002年度以降、重要な戦跡遺跡のうち50件が詳細調査の対象とされ、近いうちにその報告が公表される予定です。
各自治体では、調査を進めると同時に、散策路などを整備して市民や観光客が遺跡に触れつつ自然に親しむ取り組み、あるいは平和教育の重要な教材とする取り組みなども行っています。
柏市花野井・大室に、有人ロケット機「秋水」の燃料貯蔵庫の遺跡が残されていることは、地元の人々にはよく知られています。しかし柏市がかつて軍都・軍郷とも言われて、帝都防衛の重要拠点に位置づけられ、市域全体が本土決戦の兵営とまでなりつつあったことを知る市民は、ますます少なくなりつつあります。
今春、当会がこんぶくろ池から「秋水」燃料庫までの見学会・巡見(柏の葉〜花野井)を行った際、旧柏ゴルフ倶楽部内の小高い部分が、陸軍機の掩体壕だったのではないかという話題になりました。その後、戦後直後の米軍の空中写真や文献を集めて現況と比較し、掩体壕と思われるいくつかの遺構を、柏の葉周辺で確認することができました。
当時の写真や百里基地を調査した茨城県小美玉市の報告書などと照合しても、掩体壕であることは間違いないと思われます。一方、東葛地区に存在した松戸飛行場(現、陸上自衛隊松戸駐屯地、松飛台の住宅地・工業団地他)や藤ヶ谷飛行場(現、海上自衛隊下総基地)周辺では、松戸市五香西に掩体壕の基部が一カ所残っているのみで、その他の掩体壕の残存は確認されておりません。鎌ヶ谷市初富に10年前までほぼ完全に残っていた掩体壕も消失し、ほとんど未調査のまま遺構が失われているのが現状です。
豊四季駅までの軍用道路の起点であった柏飛行場営門、航空廠柏分廠跡、掩体壕、「秋水」燃料庫といった、柏の葉周辺の複数の遺構は、東葛全体としても貴重なものと言えます。
十余二の柏通信所跡地の返還やつくばエクスプレスの開通によって、柏北部の姿は一変しつつあります。戦後の柏市は東京の衛星都市、ベッドタウンとして、また国道六号線、十六号線がクロスする地の利などにより、商業都市として目覚ましい発展を遂げました。その背後には柏北部への工場立地などがあったことは言うまでもありません。
柏という土地が常磐炭鉱・日立地方と東京を結ぶ地点にあったことによる日立資本の進出、筑波学園都市と東京の中間地域に位置していることも大きく影響しています。このような東京郊外における柏という地域の特性を考えるとき、戦時期における柏の役割との連続性を考えざるを得ません。
柏飛行場の存在や、帝都防衛の重要拠点だった柏の役割をうかがわせる遺跡は急速に失われつつあります。確認できる掩体壕のうち、かつての形状を残しているのはごく少数となっています。開発ですべてが消滅する以前に、残された数少ない遺跡である掩体壕の調査の実施と、残すことの可能な部分は柏の重要な歴史の一部として保存し、次代の市民に伝えていただきたくお願いするものです。前述した小美玉市の調査では、米軍の掃射による弾丸などが掘り出され、戦争中の爆撃を裏付けることとなりました。さらに掩体壕のみでなく、柏が戦時期にどのように位置づけられていたのかを明らかにするという視点をもって、飛行場や憲兵分遣所などその他の軍施設の遺跡を全体として捉えた調査もお願いしたいと存じます。
言うまでもなく柏は、戦後高度成長期に最も大きな歴史的変化を遂げました。戦時から苦難の時期の昭和20年代に活動した人々は一線を退かれています。あと10年たてば、この時期を語る方々はごく少数になるものと思われます。まさに今、戦時期、復興期、高度成長期の柏の歩み、すなわち、柏が戦争にどのように組み込まれたのか、戦後の開拓の進展、人口過密への対処、首都圏整備法以降の衛星都市としての発展といった現代的な問題を射程に入れ、オーラルヒストリーをも組み込んだ調査と資料収集を開始されることを切に要望します。このことは、今を生きる私たちの、次代の柏に生きる人々に対する歴史的な責務であると考えます。
以上

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本件、市長への要請と前後して記者会見も行われ、三大紙と東京新聞、千葉日報の記者も来たそうだが、実際に報道したのは東京新聞だけだったようだ。しかし、市長ならびに教育長、教育委員会の担当部長には、要望書が届けられ、この件について浅羽副市長とも会話したというから、柏市当局には十分伝わったと思う。

文中、「松戸市五香西に掩体壕の基部が一カ所残っている」とあるのは、「千葉県の戦争遺跡」HP(http://www.shimousa.net/) の「首都防衛」の飛行場のメニューのなかにある「松戸陸軍飛行場」のページに詳しく書かれている掩体壕のことである。上記メニューには「柏陸軍飛行場」もあり、あわせて参照願いたい。

なお、柏陸軍飛行場の掩体壕は、無蓋掩体壕で馬蹄形をなし、高さ2mから3mの土手がぐるりとめぐり、開口部は15m強、幅25mほどの比較的小さいものであり、現在6基確認されている。無蓋掩体壕は土造りのもので、空襲に際して飛行機を分散秘匿するため、誘導路に沿って作られた。牧のあった場所にあるため、従前は野馬土手と混同されていた。

柏陸軍飛行場の掩体壕については、前から噂レベルでは聞いていたが、これを機会に調査が進むことを期待したい。

<「秋水」地下燃料庫のヒューム管>
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柏陸軍飛行場と印旛陸軍飛行場をHPに掲載

2009-08-16 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡


ブログ記事ではなく、自分のHPのご紹介です。

自分のHP「千葉県の戦争遺跡」に、「『首都防衛』の飛行場」として、柏陸軍飛行場と印旛陸軍飛行場の記事を掲載しました。

URLは、http://www.shimousa.net/
です。

印旛陸軍飛行場は草深(そうふけ)飛行場とも呼ばれていましたが、資料が自分の自宅周辺で手に入るものがほとんどなく、印西市に直接行くしかありませんでした。

以下の写真は、現在の印旛地方航空機乗員養成所 本館跡。現在開発中で、木が一本公園として残るだけ。



印旛飛行場に駐屯していた陸軍飛行第二三戦隊の戦友会が、回想録のようなものを出してくれており、また逓信省の印旛地方航空機乗員養成所の元生徒有志の方の回想録もあり、助かりました。

また、森―CHANが印西市教育委員会との折衝やら、やってくれたので、印旛のほうは思ったよりスムーズにいったかもしれない。

あとは、松戸、藤ヶ谷、下志津飛行学校、八街。

できれば、海軍の木更津、茂原も。


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船橋市小室にある慰霊碑

2009-07-24 | Weblog


船橋市小室は、今はやりのニュータウンの街となっているが、ここは実は鎌倉時代から続く古い集落である。そのなかに寺は、日蓮宗の本覚寺という寺がある。日蓮宗の寺は船橋市北部にも多く、この本覚寺も古い寺で、その名前も、鎌倉の日蓮宗の古刹、本覚寺と同じである。

船橋市小室は、今はやりのニュータウンの街となっているが、ここは実は鎌倉時代から続く古い集落である。そのなかに寺は、日蓮宗の本覚寺という寺がある。日蓮宗の寺は船橋市北部にも多く、この本覚寺も古い寺で、その名前も、鎌倉の日蓮宗の古刹、本覚寺と同じである。



この小室の本覚寺の墓地に、「大東亜戦争戦没者之霊」という慰霊碑がある。これは1956年(昭和31年)8月に遺族が建立したものである。碑の題字を揮毫したのは、極東国際軍事裁判で終身刑となり、1955年(昭和30年)に仮釈放となった元海軍大将の嶋田繁太郎である。

碑の裏には、海軍三人、陸軍五人の計八人の戒名と俗名、階級と一部の人は勲位、そのすべてに戦死の日付と場所が簡単に刻まれている。さらに、遺族の家の屋号も刻まれており、古き良き地域共同体の雰囲気が感じられる。

それをみると、いずれも1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)の戦没であり、戦没の古い順から、

海軍上等水兵 1944年(昭和19年)6月1日  中部太平洋方面で戦死
陸軍上等兵  1944年(昭和19年)8月18日 バシイ海峡で戦死
陸軍大尉   1944年(昭和19年)12月20日 フィリピン セレベス島で戦死
陸軍軍曹   1945年(昭和20年)1月2日  フィリピン ルソン島 リンガエ沿岸で戦死 
海軍二等兵曹 1945年(昭和20年)2月12日 フィリピン マニラ クラーク飛行場で戦死
海軍兵曹長  1945年(昭和20年)3月11日 フィリピン方面で戦死
陸軍兵長   1945年(昭和20年)6月10日 フィリピン ミンダナオ島で戦死 
陸軍上等兵  1945年(昭和20年)8月17日 中支方面で戦死

とあり、8人中6人がフィリピン方面で戦死、特に陸軍軍曹が1945年(昭和20年)1月フィリピン・ルソン島リンガエ沿岸で戦死しているが、当時米軍がリンガエ湾に強行上陸しており、その米軍との攻防でその軍曹は亡くなったと思われる。その軍曹が亡くなる直前にはセレベスで陸軍大尉が、また軍曹の亡くなった翌月、翌々月と海軍の二等兵曹、兵曹長が戦死しており、激戦がうかがわれる。

また、最後になくなった陸軍上等兵は、昭和天皇による終戦の放送があった後の戦死である。おそらく、終戦の報が届いていなかったのであろう。まったく、もう死ななくてもよかったのに、どういうことだろうか。

「大東亜戦争」という言葉や、揮毫の主に問題があったとしても、戦後遺族が建立した碑には、純粋な追悼の念が込められており、今後もなるべく紹介することとしたい。

この小室の本覚寺の墓地に、「大東亜戦争戦没者之霊」という慰霊碑がある。これは1956年(昭和31年)8月に遺族が建立したものである。碑の題字を揮毫したのは、極東国際軍事裁判で終身刑となり、1955年(昭和30年)に仮釈放となった元海軍大将の嶋田繁太郎である。

碑の裏には、海軍三人、陸軍六人の計八人の戒名と俗名、階級と一部の人は勲位、そのすべてに戦死の日付と場所が簡単に刻まれている。さらに、遺族の家の屋号も刻まれており、古き良き地域共同体の雰囲気が感じられる。

それをみると、いずれも1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)の戦没であり、戦没の古い順から、

海軍上等水兵 1944年(昭和19年)6月1日  中部太平洋方面で戦死
陸軍上等兵  1944年(昭和19年)8月18日 バシイ海峡で戦死
陸軍大尉   1944年(昭和19年)12月20日 フィリピン セレベス島で戦死
陸軍軍曹   1945年(昭和20年)1月2日  フィリピン ルソン島 リンガエ沿岸で戦死 
海軍二等兵曹 1945年(昭和20年)2月12日 フィリピン マニラ クラーク飛行場で戦死
海軍兵曹長  1945年(昭和20年)3月11日 フィリピン方面で戦死
陸軍兵長   1945年(昭和20年)6月10日 フィリピン ミンダナオ島で戦死 
陸軍上等兵  1945年(昭和20年)8月17日 中支方面で戦死

とあり、8人中6人がフィリピン方面で戦死、特に陸軍軍曹が1945年(昭和20年)1月フィリピン・ルソン島リンガエ沿岸で戦死しているが、当時米軍がリンガエ湾に強行上陸しており、その米軍との攻防でその軍曹は亡くなったと思われる。その軍曹が亡くなる直前にはセレベスで陸軍大尉が、また軍曹の亡くなった翌月、翌々月と海軍の二等兵曹、兵曹長が戦死しており、激戦がうかがわれる。

また、最後になくなった陸軍上等兵は、昭和天皇による終戦の放送があった後の戦死である。おそらく、終戦の報が届いていなかったのであろう。まったく、もう死ななくてもよかったのに、どういうことだろうか。

「大東亜戦争」という言葉や、揮毫の主に問題があったとしても、戦後遺族が建立した碑には、純粋な追悼の念が込められており、今後もなるべく紹介することとしたい。
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鎌ヶ谷市の戦争遺跡2(藤ヶ谷陸軍飛行場関連)

2009-06-21 | 鎌ヶ谷市の戦争遺跡
1.藤ヶ谷陸軍飛行場

戦争末期、陸軍は「帝都防空」を任務とする飛行戦隊を首都東京近郊の各地に配置した。その根拠となる飛行場は既存の軍関係以外の飛行場を転用したり、新たに建設したりした。例えば、松戸市松飛台から鎌ヶ谷市にかけてあった逓信省松戸飛行場は、戦局が厳しさを増す中、陸軍管轄下となり、1944年(昭和19年)9月から所沢から移転した陸軍第十飛行師団の飛行第五十三戦隊が根拠とした。

この飛行第五十三戦隊は、三つの飛行隊と整備中隊からなり、夜間防空を主任務としたため、「猫の目部隊」、「ふくろう部隊」と呼ばれた。その配備された戦闘機は、二式複座戦闘機、屠龍である。第五十三戦隊には、米軍機の本土空襲に備え、背中に斜銃二門を設置した対爆用屠竜が25機、ほかにやはり斜銃を設置された百式司偵改(一〇〇式司令部偵察機改)が数機が配備された。

<屠龍>


実際に第五十三戦隊が初めて出撃したのは、1944年(昭和19年)11月1日で、初戦果はその23日後の11月24日の米軍B29による北多摩郡武蔵野町(現在の武蔵野市)の中島飛行機工場に対する初の戦略爆撃による空襲で、B29数十機と出撃可能なだけ出撃した屠龍が交戦、B29機1機を撃墜した。また1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲でも出撃、B29機を十数機を撃墜している。しかし、こうした迎撃戦で米軍機と交戦したり、松戸でも特攻隊が組織されるなどして、前途有為な若者たちが死んでいった。第五十三戦隊だけで、終戦までに50人以上がなくなったという。

この飛行第五十三戦隊は、1945年(昭和20年)6月16日に松戸から新設の藤ヶ谷陸軍飛行場に移動した。

<一〇〇式司令部偵察機>


藤ヶ谷陸軍飛行場は、現在の海上自衛隊下総航空基地の場所にあった。1932年(昭和7年)、東洋一の規模を誇り、広大な敷地をもつ「藤ヶ谷ゴルフ場」(武蔵野カントリークラブ「藤ヶ谷コース」として開発された土地を、1944年(昭和19年)には、陸軍が首都圏防衛を目的として接収、同年秋頃から鎌ヶ谷と風早村(現:柏市)にまたがって飛行場の建設が開始された。工事には、大相撲の力士や付近の住民、中学、女学校などの生徒、約1200人の朝鮮人労務者が動員された。中学生たちは、学徒動員で1ヶ月泊り込みで飛行場建設に奉仕した。

そして、藤ヶ谷陸軍飛行場として完成したのが、1945年(昭和20年)4月である。その2ヶ月後に、飛行第五十三戦隊が根拠とし、さらにその2ヶ月後に終戦となって、米軍に接収された。藤ヶ谷飛行場は、わずか4ヶ月弱で日本軍から米軍の飛行場となり、シロイ・エアー・ベース(Shiroi Air Base)と呼ばれた。以降、15年以上もの間、米軍基地であったが、1961年(昭和36年)6月に海上自衛隊が基地の全面返還を受け、現在に至っている。

現在、下総航空基地と呼んでいるが、この基地には旧海軍の戦艦長門や陸奥で使われた40糎被帽徹甲弾や魚雷などが展示されているものの、松戸飛行場とは違い、旧陸軍飛行場当時の建物、施設は残されていないようである。

後述の地下格納庫以外には、掩体壕が鎌ヶ谷市初富に近年まで残っていたが、それもなくなった。


2.軽井沢の地下格納庫

鎌ヶ谷市軽井沢の台地端の山林のなかに、コンクリート製の地下格納庫1基が大部分を地表面に出して残っている。これは、藤ヶ谷陸軍飛行場関連の遺構と考えられる。地元の人に聞くと、防空壕と呼んでいるが、これは防空壕としてはかなり立派であり、似たような地下格納庫、地下燃料庫は全国的に他にも存在するので、一旦地下格納庫と呼ぶことにする。

それは藤ヶ谷陸軍飛行場があった下総航空基地からも近い、白井市西白井と谷津一つを隔てた鎌ヶ谷市軽井沢の台地端にあるが、東側低地から見上げると、円形のコンクリートの鍔状の端部が草の中から見える。その鍔状の端部は円筒状の格納庫本体と接合し、端部には1m四方の小さな穴があって鉄の扉でふさいである。台地に上がってみると、コンクリートのドーム状の地下格納庫胴体の天井部分が地表面に露出しているのが分かる。

<地下格納庫の東側端部>


ドーム状の格納庫胴体天井部分は一部土に埋もれ、埋もれている部分で直角に曲がり、東西に9m強、南北に22mほどものびている。その先端は開口部であるが、人が入らないように鉄の柵でふさがれている。

<地下格納庫の南側開口部>


コンクリートは砂利が混ぜてあり、鉄筋も使われている。格納庫の胴体の内側は半円、外側には鎬がついて七角形になっており、南北にのびる長い方が幅も広く4.8m以上、短い方で幅2mほどである。

胴体部分の一部は、経年劣化のためか、ひびが入っている。また一つ小さな穴があいていて落葉と土が詰まっているが、これはもともとあった通風孔か、劣化による穴か不明である。

<格納庫の胴体>


その胴体の外側は、土手状になっている。格納庫の東側端部の丸い鍔状のものは、台地斜面に開口部が開いて、土が開口部に入らないようにしたものと思われ、少なくとも東の端部から現在土をかぶっている部分までは土がかぶせてあっただろう。

<地下格納庫を上から見た概略図>


南側に開口部があるが、これには鍔状の端部はなく、さらに開口部の南側は緩やかに低くくなり東南側の低地へ傾斜しているが、開口部のすぐ下の両サイドに縁石のようなコンクリートの構造物があり、排水溝のような溝もある。

<地下格納庫の南側を土手から見たところ>


<排水溝か>


おそらく南側の開口部の方から、物資を運び込んだものと思われる。南側開口部の内側は、西側に棚状のものがあり、一見すると腰掛のように見える。
今はふさがれていて入ることができないが、近所の人によると直角に折れている部分も含めて内部は全部空洞であり、南側開口部から東側端部までつながっているそうである。

<南側開口部から内部を見たところ>



参考文献:
『鎌ヶ谷市史研究』第14号「松戸飛行場と『帝都』防衛」 栗田尚弥 (2001)
『鎌ヶ谷市史研究』第19号「『帝都』防衛からシロイ・エアーベース、そして自衛隊基地へ」 栗田尚弥 (2005)

参考サイト:
海上自衛隊下総教育航空群 http://www.mod.go.jp/msdf/simohusa/
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船橋市の戦争遺跡5(嗚呼海軍七勇殉難之趾)

2009-06-07 | 船橋市の戦争遺跡


船橋市は新京成滝不動駅から東に1Km余り行ったところに、大穴という地区がある。その大穴北8丁目にある高齢者用住宅の近くに、谷津田に面して、台地中段が帯状に平坦になっている場所があるが、なにやら石塔があるのに気付く。近くに寄らなければ分からないが、実はその石塔は「嗚呼海軍七勇殉難之趾」と彫られており、戦争中に海軍機が墜落した慰霊碑である。

(慰霊碑のある台地中段)


そのあたりには谷津田があり、以前は周囲にほとんど家など建っていなかったが、最近では市街化が進み、谷津田沿いの道も散歩したり、サイクリングしている人も多い。たぶん、そうした人は、ここが日本海軍の一式陸上攻撃機が墜落した場所であることは知らないであろう。

大穴という集落は、江戸時代からあり、女流俳人である斎藤その女が出た。その中心地は、もっと東の西光院辺りだったと思うが、斎藤その女の墓もその西光院にある。それはともかくとして、上述の場所に一式陸攻が墜落したのは1942年(昭和17年)11月27日で、乗組員の7名が亡くなった。だから、くだんの慰霊碑にも、「海軍七勇」と彫ってあるのである。

墜落した一式陸攻は、第七〇二海軍航空隊所属のもので、殉職した7名とは飛曹長1名、一飛曹2名、一整曹1名、二飛曹3名の准士官・下士官たちであった。第七〇二海軍航空隊といえば、第四海軍航空隊がラバウルから木更津に帰還する際に改称したものである。第四海軍航空隊は、一式陸攻をラバウルに配備するために、台湾の高雄海軍航空隊から19機引き抜き、千歳空の中攻8機とあわせて1942年(昭和17年)2月に編成された陸上攻撃機の航空隊である。しかし、その編成から半年後の8月7日にはガダルカナル島に上陸した米軍を攻撃し、6機を失い、翌8月8日には第一次ソロモン海戦に出撃するも、わずか3機が帰還でき、殆ど壊滅に近い状態となったといういわくつきの航空隊である。その後も、大きな痛手を受けることがあり、そのため第四航空隊、略して四空は、かげで「死空」と呼ばれるにいたった。

ラバウルは、日本陸海軍が南洋諸島のなかで、最重要拠点としたが、第四海軍航空隊は大きく傷つき木更津に帰還して、名前を第七〇二海軍航空隊とかえ、夜間攻撃訓練、本州東方海上哨戒にあたった。その後、1943年(昭和18年)春には再びラバウルへ行くのであるが、大穴の墜落事故は木更津にいる間に起きた。

(富士山付近を飛ぶ一式陸攻)


1942年(昭和17年)11月27日早朝4時過ぎのこと、天候が急変し、豪雨、雷となったところ、飛行訓練中であった第七〇二海軍航空隊の一式陸攻が大轟音とともに、当地に墜落した。そのため、近隣の人が駆けつけると、墜落した一式陸攻の機体は真っ二つとなって折れており、あたりには油のにおいがし、煙がたちこめていたという。墜落現場は、憲兵や警察隊などが取り囲むなか、当時の豊富村の斎藤村長だけがある程度まで近くに入ることを許された。当時の斎藤村長は、戦後も30年以上生きていたため、斎藤村長の見聞したことが伝わっており、それで当時の様子がある程度分かっている。とにかく、憲兵たちはこれは軍の機密であるから、見聞きしたことを決して漏らさないように、口外しないようにと、再三村民に注意したという。
その翌日には4台のトラックで飛行機の残骸をきれいに運び出し、斎藤村長(当時)のもとには海軍当局から極秘の書状が届いたという。

慰霊碑が建立されたのは、墜落事故の3カ月後の1943年(昭和18年)2月27日で、地元の有志が中心となったようである。建立された当初は、建てた当人たちが管理していたのだろうが、どういうわけか1964年(昭和39年)近所の住民が偶然発見するまで、土中に殆どが埋もれていた。慰霊碑は白御影石でできており、正面の「嗚呼海軍七勇殉難之趾」は大きな字で明確に分かるが、裏面と側面の字が細かくて分かりにくい。薄曇りの日を選んで行き、斜めから見るなどして、何とか判読すれば、以下の通りであった。

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(正面)
嗚呼海軍七勇殉難之趾

(裏面)
故 海軍飛行兵曹長  松本博
  海軍一等飛行兵曹 横山彦造
  同        重村惠
  海軍一等整備兵曹 富澤正吉
  海軍二等飛行兵曹 島田茂
  同        高橋利省
  同        飯田輝與

(向かって右側面)
昭和十八年二月二十七日建之 (以下略)
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思えば、ラバウルから帰還し、飛行訓練をしていた飛行兵曹長と下士官連中は、まさか内地のこんな田圃の近くの山林で墜落して死ぬとは思っていなかったに違いない。その事故を軍機密と処理した海軍、それに対して慰霊碑を建てた当地の住民。戦後一時期、土中に埋もれていた(あるいは故意に埋められていた)、この慰霊碑には、時々誰かがお参りしているものと見え、先日はきれいなユリの花などが供えられていた。こうした慰霊碑には、当時の世相を反映して軍国調な言葉が使われているが、その言葉とは別に近隣の人々の思いが伝わってくる。

(花が供えられた慰霊碑)




(参考文献)
平成15年第4回船橋市議会定例会会議録

(参考サイト)
生まれも育ちも東葛飾
http://blogs.yahoo.co.jp/nonki1945/folder/556027.html?m=lc&p=2

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佐倉市の戦争遺跡5(臼井周辺の戦争遺跡)

2009-05-05 | 佐倉市の戦争遺跡
1.印南小学校旧在地に残る紀元二千年記念体育館など

佐倉には、郷土連隊として佐倉城跡を兵営とした通称「佐倉連隊」、すなわち当初は陸軍歩兵第二連隊、第二連隊が日露戦争後水戸に移ると、その後は陸軍第五十七連隊などが置かれた。もともと佐倉には江戸時代佐倉藩があり、明治以降も郷土意識が非常に強く、文武両道を重んじる気風があった。佐倉藩の藩校は佐倉藩学問所として設立され、温故堂、成徳書院と改称されながら存続し、明治以降は私立学校となったりしたが、1899年(明治32年)千葉県に移管され、(旧制)千葉県佐倉中学校、さらに2年後(旧制)千葉県立佐倉中学校と改称された(現在の千葉県立佐倉高校)。

その(旧制)佐倉中学校に、紀元二千六百年の記念事業として1942年(昭和17年)に建設されたのが、「新武道場」である。いわば、紀元二千年記念体育館であるが、1988年(昭和63年)に印南小学校旧在地に移築されている。
印南小学校旧在地は、臼井駅の西南西、3Kmほど、国道296線の通る江原台の台地上にあり、江原のバス停を国道沿いに約150m西に行ったと、南に分岐する路地をはいった所である。

なぜ、印南小学校旧在地にあるかといえば、印南小学校、かつての印南尋常小学校の前身が、藩校の附属郷校であったためといわれる。現在は、佐倉市立青少年体育館となっており、剣道の練習などのために、中はきれいな床が張られている。トイレの増築などを除けば、外形はほぼ当時のままで、内部は前述の床面の張替などが行われている程度である。

<印南小学校の旧在地に移された佐倉高校の「新武道場」>


この建物は、木造平屋建てで瓦ぶき、床の広さ14.6m×23.6m、天井の高さ4.5mで、窓が多く採光に気をつかっている。現在は、前述の通り体育館として使用されているが、剣道、卓球、軽スポーツなどに利用されている。

<「新武道場」を横から見たところ>


もう一つ、そこには、「佐倉連隊」の門と伝えられるものがある。それは、印南小学校の旧校舎の校門であり、そこには「佐倉市立印南小学校」という小さな表札がかかっている石で出来た門柱と両脇の土塁の土留めがある。これは、印南小学校、かつての印南尋常小学校の正門であり、1915年(大正4年)に校舎を改築した際に、「佐倉連隊」から60円で払い下げたと伝えられている。「佐倉連隊」の門は表門以外に、裏門、西門があったが、この門はどの門であろうか。

当地江原新田では、肥沃な耕土を利用した畑作がさかんで、その畑作で野菜作りを主に行ってきたが、野菜作りには豊富な肥料を使うため、五十七連隊と「下肥馬糞払下及汚物掃除契約書」を結んだ農家もあった。すなわち、連隊長は江原新田住民に下肥・馬糞を払下げて、江原新田住民は「おおむね毎日一回、連隊長の指示に従い」下肥の汲み取り掃除をするという契約で、1932年(昭和7年)4月の契約では、払下げ価格は一人一箇月分2銭となっていた。
連隊の厠は、現在の歴史民俗博物館本館の西側の鬱蒼と木が茂った場所にあったが、その厠脇を通って、鹿島川のある低地に下りる坂があり、「へび坂」と呼ばれていた。この「へび坂」を下ると、西門に出るのだが、下肥の運搬をしたために、後に「肥やし坂」とも呼ばれるようになった。江原新田住民は、さらに鹿島川を越え、角来の急な坂をのぼって、台地上の畑地まで、連隊からの下肥・馬糞を運んだのである。

その他、草刈りなどで連隊に出入りする農民も多く、彼らが出入りしていた連隊西門を払い下げたようであるが、確たる証明がないために断言はできない。

<「佐倉連隊」の門を払下げたと伝えられる印南小学校旧校舎の正門跡>


2.逓信省臼井無線送信所跡

現在の国道296号のバス停「聖隷佐倉市民病院入口」の南側の奥一帯には、1986年(昭和61年)まで臼井無線送信所があった。これは逓信省が1943年(昭和17年)に開局、85m鉄塔2基と45m鉄塔7基があって、航空標識業務を行った。臼井無線送信所は米軍艦載機の標的にされ、何度か空襲にあっている。

逓信省は、戦後の1949年(昭和24年)、二省分離(郵電分離)で郵政省と電気通信省となり、無線送信業務は電気通信省の所管となり、電気通信省が日本電信電話公社に移行すると、臼井無線送信所は日本電信電話公社の施設となった。船舶への短波帯での無線送信などを行った無線局であったが、日本電信電話公社のNTTへの移行に伴い、廃局となった。

現在は、更地となっており、建物遺構はなく、わずかに境界標識などが残っている程度である。

<臼井無線送信所跡>


3.円応寺、光勝寺の頌徳碑

臼井には、千葉氏一族である臼井氏が創建した寺社が、臼井城の周囲にいくつかある。その一つで、臼井城に隣接する臨済宗の古刹、円応寺の本堂手前、鐘楼横の一角に広島で原爆で亡くなった方を含む18名の戦没者の名前刻んだ1954年(昭和29年)建立の頌徳碑がある。それには戦没された方の名前や場所などが刻まれているが、「佐倉連隊」の所属がほとんどと思われるので、戦死などの場所がかなり南方に集中している。

その頌徳碑の後ろには、陸軍歩兵第百五十七連隊(福井部隊)の戦死者4名の墓もあり、そのうちの1名の少尉の墓には陶板に写真を焼き付けたものが組み込まれている。

<円応寺にある頌徳碑>


同じく、時宗の寺で、臼井氏の尊崇をうけた光勝寺にも、本堂のある台地中腹の場所から墓地のある台地上にのぼる途中に頌徳碑がある。
これは、1958年(昭和33年)に建立されたもので、レイテや太平洋上などで戦死・戦病死された7名の方の名前や亡くなった場所などが刻まれている。

<光勝寺の頌徳碑>


4.臼井の八幡神社の石碑など

臼井の八幡台には、南北朝時代に足利尊氏に従って戦功があったという、臼井氏中興の祖ある臼井興胤が建てた八幡神社がある。ここにも、戦争にまつわる記念碑があるが、こちらは慰霊碑の類ではなしに、帰還記念碑のほうである。

参道の奥右側の一段高くなったところに、1906年(明治39年)9月に建立された「神徳碑」がある。これは、最後の佐倉藩藩主であった堀田正倫伯爵が篆額、地元の臼井田の日露戦争からの「凱旋軍人」として、九名の名前を連ねている。石碑は、日露戦役で干戈を交えること二年、硝煙弾丸の雨をくぐって奮闘してきた。区内の応召兵士九名も戦地深く生還を期さなかったが、戦争が終わり無事に帰還することができた、これも氏神である八幡神社の神徳である云々といったことが漢文で書かれ、最後に「圓應精舎丗四世沙門湖海撰」とある。円応寺の三十四世住職が書いていることになるが、円応寺も臼井田地区の寺であり、当時としては自然の成り行きだったのかもしれない。

<日露戦争帰還記念碑>


石碑はもう一つあり、千葉市のある個人が、「日支事變」の帰還記念として二百円を八幡神社の基本金として献じ、その石碑を建てたものである。

<日中戦争帰還記念碑>


八幡神社の参道の入り口のところに、白い御影石の石柱があるが、これは太平洋戦争開戦の前年である1940年(昭和15年)に地元の人が敷石50枚を奉納した記念碑だが、「武運長久」と刻まれている。その奉納した人の名前と1字違いの名前(陸軍兵長)が、光勝寺の頌徳碑に刻まれた中にある。はたして、身内なのかどうか分からないが、少々気になる。

<「奉納 武運長久」と刻まれた石柱>




参考文献:
『佐倉の軍隊 国立歴史民俗博物館 友の会「軍隊と地域」学習会の記録』 財団法人歴史民俗博物館振興会 (2005年)

『「佐倉連隊とその時代」を歩く』 山倉洋和「もうひとつの『歴史散策マップ』をつくる会」 (2006)


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柏の航空教育隊(東部百二部隊)跡に残る小さな倉庫

2009-04-20 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡
何気なく手に取った本に、以前分からないで、そのままになっていたことが、さらりと書いてあることがある。
よく調べきらずに、そのままにしたことが良くないのであるが、それが偶然判明することは神の助けのような気がする。

柏陸軍飛行場跡の南側の金属工業団地一帯に存在した、陸軍東部第百二部隊、すなわち陸軍第四航空教育隊は、1945年(昭和20年)の戦争末期に多くの兵を擁し、多いときには一万名もの兵員が南北600m、東西400mほどの隊の敷地にいた。その長方形の区画のなかに、部隊本部、兵舎、格納庫などがあったのだが、今では工場や宅地などになっている。

<東部百二部隊略図〜梅林第四公園の案内図の写真に追記>


東部百二部隊は東部第百五部隊、柏飛行場の南にあって、柏飛行場の門から豊四季駅にいたる県道279号線、豊四季停車場高田原線の駒木交差点附近が、東部第百二部隊入口であり、そこを東に折れてしばらくいった、現在の梅林第三公園付近に営門があった。ちょうど、その営門があった場所の近く、角地にある住宅横の溝に陸軍境界標石がある。

その「百二(以下不明)」と書かれた陸軍境界標石が民家の塀の基礎に寄り添うようにあるが、その家の人もそれが旧陸軍のものであることを知らないようであった。


<近隣の公園に残る東部百二部隊の営門>


その営門は前述のように、梅林第三公園近くにあったのだが、現在は少し離れた柏までのバス通りに面した梅林第四公園に移設されている。門柱は、赤味がかった砂岩質の石で出来ているが、その赤い色から地元の人は「赤門」と呼んでいる。かつて、本来の場所にあったときは、門を入ると左手に衛兵所と部隊本部、兵舎が建ち並び、右手には面会所があった。営門は豊四季と柏飛行場営門を結ぶ県道豊四季停車場高田原線の側に開いていて、兵員の出入り口は主にそちら側であった。現在のように柏の葉公園から柏駅を結ぶバス通りはなく、部隊の東側は林であった。

現在のつくばエクスプレスがすぐ近くを通る柏浄水センターの北側から、南は十余二の光風園、高田車庫入口のバス停の辺りまでが、東部百二部隊が駐屯していた場所である。

1938年(昭和13年)に当地に開設された陸軍東部第百五部隊の飛行場、すなわち柏飛行場は、1937年(昭和12年)6月、近衛師団経理部が新飛行場を当地(当時の東葛飾郡田中村十余二)に開設することを決定し、用地買収を行って建設されたものである。その柏飛行場開設から遅れること約2年、1940年(昭和15年)2月に高田、十余二にまたがる上記地域に、第四航空教育隊(東部百二部隊)は移駐した。この部隊は、1938年(昭和13年)7月立川で開設されたものである。

陸軍航空教育隊とは、文字通り陸軍の航空兵を教育、養成する部隊である。1937年(昭和12年)7月「支那駐屯軍」による北京郊外での通告なしの夜間演習時、中国軍から発砲があったとして、日本軍が中国軍を攻撃した盧溝橋事件に端を発する日中戦争開戦以降、航空兵の減耗率が高くなったことに危機感を覚えた陸軍は、航空兵の養成のために各地に航空教育隊を開設していった。

航空教育隊に入隊すると、初年兵教育としての基礎訓練3ヶ月、各部門(機関・武装・通信・写真・自動車など)に分かれた特業教育3ヶ月、都合半年の訓練ののち、実施部隊に配属される。

この東部百二部隊跡の一角である、柏浄水場の北側工場脇に、給水塔が残存している。梅林第四公園にあった案内図をみると、現在の場所ではなく、もっと南側の部隊の中心からみれば西側にあったはずだが、戦後移設したものであろうか。

<給水塔>


その給水塔の奥に、煉瓦造りの小さな倉庫がある。これが何であるが、おそらくこれも百二部隊関連の遺構であろうとは思っていた。しかし、何の用途の建物であるかは、分からなかった。ところが、柏の図書館に行ったとき、1995年に東葛市民生協の発行した「戦時下のひとびと」という冊子を何気なく手にとると、「三ヵ月の訓練で前線へ」、「部隊は全滅」、「十七歳で陸軍に志願」といった第四航空教育隊で訓練を受けた方の戦争体験記事のなかで、その建物そっくりの煉瓦造りの倉庫が「今も残る弾薬庫」として紹介されていた。

<弾薬庫と判明した煉瓦造りの倉庫>


過去に実際に陸軍第四航空教育隊にいた人の証言は、たまたま生協が残してくれた。一般的なことを言えば、活字としては残っているが、Webの世界にまで取り込まれた情報は、それほど多くない。問題は、人の記憶が年々失われること。早い話、その証言をした人のなかには、現在あるいは故人になっている人もいるかもしれない。かくいう小生も、じきにあの世に行くのである。

いかに細かいことでも、なんとか後世につないでいきたい。



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