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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

〈広告〉化する私

2017-05-19 20:03:07 | コラム
  
真の意味での奴隷とはどのような人たちことだろうか。
私は、ただ身体や精神を主人に縛られた人のことではないような気がしている。
奴隷とは、「身体や精神を不自由にされているにもかかわらず、それに気づかない人」のことではないだろうかと思う。
不自由であること、束縛されていること、自分自身の意志をそがれていることに気づいている人間は、何らかの抵抗をするものだ。
それができないと分かっていても、である。

だが、そのことさえ気づかされていない、「あるべきこと」があたかも元来なかったように信じ込まされている人こそ、奴隷なのではないだろうか。
 
 * * * 
 
私たちの中に、インターネットの影響を、ここまで大きなものがあると、意識していた者はいたのだろうか。
スマートフォンの影響によって、私たちは世界各地の情報を、持ち歩くことができるようになった。
様々な評論家が指摘している通り、私たちと情報の関係性は、すでに現実との関係性を越えた。
それはあたかも、ことばが無ければ認識できないというようなレベルで、〈転倒〉が起こっているようだ。

議論の基底的な内容なので、少し回り道して触れておこう。
たとえば私たちは、世界で起こっているあらゆる事を見聞きできる。
あるいはニュースという形で。
あるいは誰かが投稿した動画という形で。
テレビで流された番組やニュースも、直ちに誰かがネットに上げる。
それはプロの記者を名乗る大衆紙の「記者」かもしれないし、ネットにとても熱心な「一般人」かもしれない。
だから、テレビやその他のメディアで流された情報も、すべてネットにあることになる。

その逆は、あまりにも多すぎて、割合としてはごく小さいものになるだろう。
こうした状況に、私たちは現実をネットに持ち込んでいると勘違いしているかもしれないが、内実は逆である。
ネットによって現実を把握しているのである。

SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)がその典型と言える。
私たちの人間関係を、ネットに持ち込んだのがSNSなのかもしれない。
だが、私の知人(すでにその知人の枠は現実を越えているのだが)に何が起こっているかをネットを通じて知ることで、私たちはそれが「起こった」と知る。
両親が離婚しただの、子どもが生まれただの、友達と旅行に行っただの。
それは知らなければその人の詳細について関知しない、すなわち「私」には「起こって」ないことだった。

箱の中に猫がいる。
中にいるかどうかは開けてみるまでわからない。
「中に猫がいる」と言えるのか。
答えは「NO」だ。
なぜなら、認識できなければ、(誰も認識できなければ)それは存在しないのと同じだからだ。

逆に考えてみれば簡単だ。
もし私のその知人が、旅行に行ったとウソのSNSの記事を書き込んだ場合、私はそのことを見抜くことができるだろうか。
できない。
私たちは、すでにこの現実を痛いほど知っている。
フェイクニュースによって、アメリカ大統領選挙に少なからず影響を与えたことはすでに報道されていることだ。

現実で起こったことを、ニュースにするのではない。
ニュースになっていることをもとに、私たちは現実を知るのだ。
その現実は、カギ括弧付きの「現実」であり、現実ではない。
現実だと思い込んでいる「現実」である。
(仮に地球の裏側で核兵器が使われたとしても、それがネットに上がらなければ「ない」ものとして扱われるのだ)

デートにいって、男女がカフェの席で一生懸命話し込んでいる。
その光景は今も昔も変わらないが、今では目を合わせて話し込む姿はほとんど見えない。
向かっている相手は、目の前にいる相手ではない。
スマートフォンの向こう側にいる相手なのだ。
私たちは現実以上に、作られた「現実」を、あるいは切り取られた「現実」を見るようになった。

情報はすでに、現実を越えた「現実」を提供し始めている。
森博嗣か誰かだったと思うが、インターネットの情報は、そのほとんどが「何かものを売ろうとしている」ものばかりだと書いていた。
ヤフーニュースの合間に広告が挿入される、といったレベルの話ではない。
ニュースそのものも、何かものを売ろうと画策している情報ばかりが並べられている。
一見すると、単なるスポーツ記事であっても、その写真にはスポンサーロゴの入ったTシャツが映る。

芸能人の苦労話は、たいてい映画の公開やドラマの放映と絡めてある。
純粋な出来事だけを、あるいは意見だけを述べた情報は、実はかなり少ない。
つまり、私たちは、ほとんど「広告」の中で生きているといっても過言ではないのだ。
それはもはや「現実」ですらない。
私たち自身が、経済的な価値の中で、取捨選択し、経済的価値に結びついた情報(「現実」)しか発見できなくなっている。

だが、私が興味をもって考えていることは、「広告」の中で人々が生きていることではない。
おもしろいことは、広告をブロックするアプリが売れているにもかかわらず、私たちは率先して自身が「広告」に成り下がっているという事実だ。
フェイスブックでは、数年前から友人の記事以外にも、広告を表示するようになった。
このせいでかなりのユーザーを取りこぼしたという話だが、フェイスブックは依然としてある程度の勢いを見せている。
私は、自分の気に入った企業や商品の最新情報なら、広告が表示されても構わないと思っていたので、現在もアカウントは生きている。
ほとんど自分から記事をあげることはなくなったが。

それらの記事を見ていると、広告なのか、友人たちの「報告記事」なのか、区別がつかないときがある。
彼ら彼女らは自分が使って良かったと思った商品を、積極的に周りに勧めている。
いや、それがいけないとか、正しくないとかそういう価値判断ではない。

これはTwitterやその他のSNSでも言えることだろう。
人々は、いつの間にか、自分自身が誰かの「広告」になっているのだ。
私たちは、消費者でありながら、労働者である。
とくに、資本主義経済にからめとられている私たちは、そのどちらでもない人間になることは難しい。

だが、SNSやネット、スマートフォンが普及し、成熟した世界では、私という存在は、広告という側面を帯びてきた。
自ら積極的に広告化することによって、私たちは自分自身を保っている。
周りから「いいね!」やリツイートをもらうことによって。
 
 * * *
 
これは「奴隷」ではないだろうか。
広告化した私は、ただの労働者ではない。
この労働者は、「自分が奴隷(広告)である」ことを自覚しない、真の意味での奴隷なのだ。

そう、こんな映画を(結果的に)紹介するサイトを運営している私もまた、その一人なのだ。
 
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