言語空間+備忘録

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裁判員制度は、憲法の禁止する「意に反する苦役」には当たらない

2011-11-19 | 日記
元「法律新聞」編集長の弁護士観察日記」の「「上からの」市民参加という性格

 「わが国で、この陪審制度を採用することになりました理由は、外国のそれとは根本から相異っているのであります」

 今から83年前にわが国で始まった陪審裁判に当たり、陪審員候補者に配布された「陪審手引」には、「わが国陪審の精神」として、諸外国で行われている市民参加との違いが、はっきりと述べられていました。

 英国はじめ諸国の陪審制度は、「人民が官憲の圧政に苦しみ、そして裁判官の横暴と専断によってその生命や財産が蹂躙され」、それから免れるため、民衆が要求した結果である、と。

 だが、日本の場合は、従来の裁判に弊害があったというわけではなく、「素人である一般国民にも裁判手続きの一部に参与せしめたならば、一層裁判に対する国民の信頼が高まり、同時に法律知識の涵養や裁判に対する理解を増し、裁判制度の運用を一層円滑ならしめる」精神からの採用であるとしています。

 驚くことに、従来の裁判に欠陥があったわけではなく、市民参加は市民の司法への信頼を高め、裁判への理解を増し、裁判を充実させるため、という論法は、この度の裁判員制度で司法当局が掲げた論法そのままです。戦前の陪審制度の精神が生き続けている、はたまた官僚司法のDNAか、といった皮肉めいた言い方もできなくありません。

 しかし、見方を変えれば、なんてことはありません。天皇主権国家・国民主権国家の違いを超えたこの符合は、市民が求めた下からの市民参加ではない、上からの制度構築であることを示す必然的結果ともいえます。


 日本の裁判員制度は、「上からの」市民参加である。すなわち市民が「自発的に」求めたものではなく、「上からの」制度構築である、と書かれています。



 これは真実を衝いています。私も、その通りだと思います。

 しかし、だからといって、裁判員制度が「好ましくない」ということにはなりませんし、市民(国民)が「望んでいない」ということにもなりません。

 裁判員制度は市民が「自発的に」求めたものではないとはいえ、それが「よりよい」制度である、と市民(国民)が判断し、制度を受容するならば、裁判員制度は市民(国民)の意思である、と考えることができます。

 そして現在、市民(国民)のなかには、「裁判員制度を廃止しよう!」という目立った動きはありません。すくなくとも、私が知るかぎりはそうです。

 とするならば、裁判員制度は「よい制度である」と市民(国民)によって受容されていると考えられます (そもそも現行憲法が効力を有するとされる背景には、このような考えかたがあります。この考えかたを否定すれば、現行憲法の否定につながります) 。



同 「国民が了解できていない「合憲」判断

 裁判員制度を「合憲」とする最高裁大法廷の初判断が出ました。非常に大きな意味をもつ判断ではありますが、この制度に反対や疑問を投げかけている人々が、この判断にショックを受けているかといえば、おそらくそうでもないと思います。

 いうまでもなく、これまでこの制度の旗振りをしてきた裁判所がどういう結論を出すかは、大方予想を付けている方がほとんどだと思えるからです。しかし、彼らがこの判決に注目していなかったわけではありません。つまり、結論はおそらく「合憲」であっても、どういう理屈でそれを導くのか、それを待っていた方々が沢山いるということです。

 したがって、この最高裁の判断に対し、これから専門家による反撃が開始されることと思います。それを手ぐすね引いて待っていた法律家の方々がいらっしゃいます。むしろ、この制度に関する最終審の判断、その理由づけの無理を明らかにすることで、この制度の根本的な弱点を白日の下に晒すことになるようにも思います。

 法律的な分析は彼ら法律家の反撃を待つとして、いくつかの違憲主張を、あっさりと退けている印象の今回の判断のなかで、あえてここで取り上げておきたいのは、「意に反する苦役」の点です。つまり、「裁判員制度は、裁判員となる国民に憲法上の根拠のない負担を課すものであるから、意に反する苦役に服させることを禁じた憲法18条後段に違反する」という違憲主張です。

 最高裁の結論はもちろん、これに当たらないとするものですが、問題はその理由づけです。判決理由は、裁判員が職務に従事し、裁判員候補者として裁判所に出頭することが、国民にとっての「一定の負担」であることを認めたうえで、こう言っています。

 「しかし、裁判員法1条は、制度導入の趣旨について、国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資することを挙げており、これは、この制度が国民主権の理念に沿って司法の国民的基盤の強化を図るものであることを示していると解される。このように,裁判員の職務等は、司法権の行使に対する国民の参加という点で参政権と同様の権限を国民に付与するものであり、これを『苦役』ということは必ずしも適切ではない」

 非常に重要なことを言っています。前段は国民が職業裁判官とともに刑事裁判に関与することで、司法への理解増進につながる、これは国民主権の理念に合致しているという制度趣旨の肯定論。後段は裁判員になることは、参政権同様の国民の権限だという裁判員権利論です。

 実は、これは判決理由に書き込まれるまでもなく、これまでつとに制度推進派の方々が主張してきた代表的な制度肯定論です。制度が司法の理解につながるという効用をあたかも民主的制度として描くとともに、参加への義務化をいう主張に対して必ずいわれる、これは国民の権利だという主張です。

 ある意味、恐ろしいことですが、さも当然のようにいわれるこれらの論法は、多くの国民の了解事項とは言い難いものです。司法に対する国民の理解を増進するということは、もちろん国民が求めたわけではありませんが、仮にお上が規定したことであっても、それについて、今、理解を増進するための方法が、強制的に国民を法廷に呼び出して裁判に直接参加させる方法しかない、と思う国民はどれほどいるのでしょうか。

 さらに、いうことにことかいて、これを強制によって義務化されているのではなく、国民の権限、しかも、参政権と同様という認識がどこにあるでしょうか。いうまでもありませんが、参政権を罰金付きで強制するという話もありません。もちろん、この参加を人民が勝ち取ったものという意識も歴史もこの国にはありません。

 この国民が了解できていない、少なくとも了解できているとは断定できないこの事実を前提として、だから「苦役ではない」という主張は、いかに法律的な文章として体裁を整えていようとも、前記引用した判決の理由の中に随所に登場する、肝心の「国民」とは、全く隔絶した見方というほかありません。


 裁判員制度は、憲法の禁止する「意に反する苦役」に該当する。最高裁は裁判員制度が「国民主権の理念に合致している」としたうえで「裁判員になることは、参政権同様の国民の権限だという裁判員権利論」を展開しているが、国民には、「国民の権限、しかも、参政権と同様という認識」はない、と書かれています。



 ブログ主の河野さんが上記のようにお考えになられる背景には、最初に引用した歴史的経緯があるものと思われますが、それについては(私は)すでに述べているので、ここでは繰り返しません。

 ここで私が問題にしたいのは、裁判員制度について、河野さんが憲法の禁止する「意に反する苦役」に該当する、と考えておられる点です。

 私も、裁判員になることが「一定の負担」であることは認めます。しかし、これを憲法の禁止する「意に反する苦役」というのは、さすがに無理があるのではないかと思います。ここで、次の資料をご覧ください。



裁判所」の「検察審査会の概要

検察審査会の概要

 選挙権を有する国民の中からくじで選ばれた11人の検察審査員が,検察官が被疑者(犯罪の嫌疑を受けている者)を裁判にかけなかったことのよしあしを審査しています。
 昭和23年の法施行から,これまで50万人以上の方が検察審査員又は補充員に選ばれています。




 もし、裁判員になることが憲法の禁止する「意に反する苦役」に該当するなら、戦後、数十年の長きにわたって続けられてきた検察審査会制度も、憲法の禁止する「意に反する苦役」に該当することになります。なぜなら、
国民にとっての「負担」という観点でみれば、裁判員制度における裁判員としての負担も、検察審査会制度における検察審査員(および補充員)としての負担も、大差ない
からです。大差ないどころか、「まったく同じ」だと言っても、過言ではないでしょう。



 ここで重要なのは、「裁判員制度に反対しておられる方々は、検察審査会制度には反対しておられない」ということです。

 同様の趣旨で定められた制度であり、かつ、国民にとっての負担も大差ない(またはまったく同じ)であるにもかかわらず、なぜ、裁判員制度には反対し、検察審査会制度には反対しないのでしょうか?

 その理由は、(おそらく)検察審査会制度は「公権力の一部である検察官の判断」を国民が審査するものであるのに対し、裁判員制度は「公権力である裁判権の一部」を国民が行使することになるからです。つまり、検察審査会制度は「公権力の審査」制度であるのに対し、裁判員制度は「公権力の一部行使」制度であるために、前者(検察審査会制度)は国民にとって利益になるが、後者(裁判員制度)は国民にとって不利益になる、と(司法制度改革)反対論者が考えているからです。

 とすれば、反対論者は、結論先にありきであり、裁判員制度については「意に反する苦役」に当たるとしつつ、検察審査会制度については「意に反する苦役」には当たらないとして、恣意的に「論理を使い分けている」ということになります。



 さらにいえば、反対論者の主張は「国民(大衆)にはまともな判断は期待できない」と考えなければ、成り立ちません。露骨に言えば、「国民は馬鹿である」という発想が、裁判員制度反対論のなかには「含まれている」ということです。

 「国民(大衆)にはまともな判断は期待できない」という発想が成り立たないことは、すでに当ブログの過去記事「最高裁、裁判員制度は合憲と判示」において記していますが、再度記載すれば、
憲法が裁判の公開を定めているのは、国民(大衆)の監視によって裁判が適正・公平に行われることを担保(保証)しようとしたからである。とすれば、そこには当然、「国民(大衆)は適切な判断をする」という前提があり、したがって「国民(大衆)にはまともな判断は期待できない」という発想は、そもそも現行憲法下では、成り立たない
ということです。



 以上により、私は、裁判員制度に対する反対論(河野さんの主張)には問題がある、すくなくとも、裁判員制度が憲法の禁止する「意に反する苦役」に当たるとする点には、問題があると考えます。



 最後に、裁判の公開を定めている憲法の規定を引用しておきます。



法令データ提供システム」の「日本国憲法」(昭和二十一年十一月三日憲法)

第八十二条  裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。
○2  裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる。但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。




■追記 ( 2011-12-03 )
 そもそも「上からの」制度構築であることが問題になるのか、問題視してよいのか、という疑問があることに思い当たりました。なぜなら、国民の代表たる国会で審議して議決された以上、「上からの」制度構築であるとはいえない、とも考えられるからです。
 「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」で定める裁判員制度を「上からの」制度構築であるとして問題視するなら、(ほとんど)すべての法律は「上からの」制度構築であり問題がある、ということになってしまいます。
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