言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

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60年安保闘争の実態

2010-12-18 | 日記
西部邁・宮崎正弘 『日米安保50年』 ( p.68 )

(宮崎) さて、少し歴史のコマを戻してみますと、大東亜戦争が終わってから、西側諸国が全然気がつかないところで中ソ対立が始まっていました。歴史をひもとくと、一九五五年が保守合同 (自由党と日本民主党の二大保守政党が合同して自由民主党が誕生) ですが、あの前後の国会の動きを見ていると、自主防衛は当然だと社会党でさえ言っているのです。その前の一九五二年の国会決議は、東條英機以下、東京裁判で不幸にも絞首刑になった人たちを「昭和殉難者」だとしていますが、この決議には社会党までが賛成しています。今では考えられないことで、当時の価値観がどこで変わってきたかという問題があります。
 これと関連しますが、安保条約改定で反対闘争を指令したのは、実は中国とソ連だったという事実、これはいまでは明確になっていることです。
 直前に共産党の指導者がモスクワへ行く。その時から共産党の路線が変更されています。北京には一九五九年の三月に社会党書記長の浅沼稲次郎 (いねじろう) が行っています。浅沼が行くと、四日間ぐらい北京に閉じ込められたらしく、彼の地で突如として「米帝国主義は日中人民の共同の敵」と言い出しました。以来、社共両党は「安保反対」に路線を転換して、それが六〇年安保と結びつくのです。
 中国の場合、毛沢東がスターリンにお願いしても原爆はくれない。それで朝鮮戦争に協力したり、国民は飢餓で死んでいても農作物をソ連に差し上げたりして、やっと核の技術をもらいます。一九五八年に中国人民解放軍が台湾の金門・馬祖を砲撃し、五七年はソ連が世界初となる人工衛星スプートニク一号の打ち上げに成功しています。それでいきなり大国の仲間入りをしてきました。
 そういう時代背景を考えていくと、六〇年安保闘争には、どう見ても外国勢力の介入があって、ひょっとしたら資金もきていたのかと勘繰りたくもなるのです。
 しかし、当事者たちは共産党を除いてみんな純粋にやっていました。やはり若さというものがあったと思います。学生の活動家は、睡眠時間はないし、会議をやってガリ版の中身を決めたら、ひたすらガリ版を刷って撒く (まく) 。全然寝る暇さえないというのが活動家でした。
 あの時代の雰囲気は、今から考えても、不思議で熱狂的で一方的で反米的でほとんどすべての知識人が安保反対を言っていました。そうした知識人ですら条約を読んでいませんでしたが。


 六〇年安保闘争は、中国とソ連が背後で指令していた。中ソの指令があるまでは、社会党ですら自主防衛は当然だと言っていたし、東條英機らを「昭和殉難者」だとしていたのである。安保反対を主張していた知識人 (のほとんど) は条約を読んでおらず、雰囲気に流されていただけである、と書かれています。



 引用文中、「知識人ですら条約を読んでいませんでしたが」とあります。この記述の背後には、

   「日本にとって有利に変更される」安保条約に、
    なぜ、反対したのか

という問題意識があります。「日本にとって不利になる」条約改定であれば、反対するのはわかる。しかし、「日本にとって有利になる」条約改定に、なぜ、日本(人)は反対したのか、ということです。



 60年安保闘争・安保条約に関する資料を引用します。



Wikipedia」の「安保闘争」(「60年安保」の項 )

事件推移

1951年(昭和26年)に締結された安保条約は、1958年(昭和33年)頃から自由民主党の岸信介内閣によって改定の交渉が行われ、1960年(昭和35年)1月に岸以下全権団が訪米、大統領ドワイト・D・アイゼンハワーと会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意。6月19日に新条約が調印された。

新安保条約は、
  1. 内乱に関する条項の削除
  2. 日米共同防衛の明文化(日本を米軍が守る代わりに、在日米軍への攻撃に対しても自衛隊と在日米軍が共同で防衛行動を行う)
  3. 在日米軍の配置・装備に対する両国政府の事前協議制度の設置
など、安保条約を単にアメリカ軍に基地を提供するための条約から、日米共同防衛を義務づけたより平等な条約に改正するものであった。

岸が帰国し、新条約の承認をめぐる国会審議が行われると、安保廃棄を掲げる日本社会党の抵抗により紛糾する。また締結前から、改定により日本が戦争に巻き込まれる危険が増すなどの懸念により、反対運動が高まっていた。スターリン批判を受けて共産党を脱党した急進派学生が結成した共産主義者同盟(ブント)が主導する全日本学生自治会総連合(全学連)は「安保を倒すか、ブントが倒れるか」を掲げて、総力を挙げて、反安保闘争に取り組んだ。




 これはどう考えても「日本にとって有利になる」条約改定であり、

 新安保条約に反対していた日本人は、「その場の雰囲気」で「なんとなく」反対していたにすぎないのではないかと思われます。学生であればともかく、知識人まで「条約を読んでいなかった」というところが、あまりにも「いびつ」です。



 引用文中、「安保条約改定で反対闘争を指令したのは、実は中国とソ連だったという事実、これはいまでは明確になっていることです」とあります。

 背後にいた中国とソ連にしてみれば、日本からアメリカの軍事力がなくなれば、自分の国 (=中国・ソ連) は安全になり、共産陣営が広がる。そこには、明確な合理性があります。

 とすると、日本の社会・共産両党は何なのか、何を考えていたのか、となります。中国やソ連の「指令」を受けて、突然、「日本に有利になる」条約改定に反対し始めたというのでは、「本当に日本(人)のために政治をやろうとしていたのか」と問われても、やむを得ないでしょう。もっとも、「米軍を追い出して、代わりに中国人民解放軍を日本に進駐させるつもりだった」というのであれば、それはそれで筋が通っていたのかもしれません。



 こうしてみると、すくなくとも安全保障に関しては、戦後の日本政治には「米国の指令か、中ソの指令」しかなかったのかもしれません。日本人が自分で、日本のために政治を行ってきたのではなく、米国と中ソという東西の二大陣営の狭間で、外国に「指令」されつつ、外国にコントロールされてきただけなのかもしれません。だとすれば、なさけないことです。

 このブログでは、外国の「指令」によらない、独自の見解を (すこしずつ) 形成していきたいと思っています。
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