始めなき始めより・・至る

mem-papaのきままなつぶやき

Mavic R-Sys ツイタ

2011-08-19 22:38:51 | roadbike (item)
R-Sys


Mavic R-Sys装着したバイクをショップから引き取ってきました。タイヤはMavicのイクシオン パワーリンク23、フロントがグリップリンク23。側面がシンプルな1箇所ロゴで(同じメーカーらしく)ホイルに合ってます。

リアスプロケット(ギアの重なったとこ)はSRAMを流用したところ若干浅い締めになるということで、業者の回答を得るまでということでDura-Aceを仮組みしていただきました。

画像はコンデジを使わず、いつもの携帯で撮りました。カラーリング的にハマってくれて嬉しいです。

性能はcyclowiredやたくさんの方のブログで耳年増になってますが、おいおいインプレッションをあげようと思います。


追記:
重量はリヤタイヤつけてRスプロケなしで約1140gでした。ホイールが800g
でタイヤ215gだからチューブが125gあたりでしょうか。チューブはコンチの
普通のシリーズでした(って商品名憶えてないです)。となるとフロントはホ
イールが590g、タイヤが215g、チューブ125gとして930g。
・以前とくらべると…
 ホイルはGPX22が前後で1720g、R-Sysが1390gで330gの軽量化。
 タイヤは前23C/後25C(230+330)560g、今回は430gで、130gの軽量化。
等価質量で置き換えると
 (330gx1.5)+(130gx1.9)= 742g の軽量化が加速度一定とした場合に
 果たされています。ローラー台でローラーとタイヤを少し薄く接触させると
 パワーの出る瞬間はキュッと滑る音が大きくなり、自分のトルクの出方が
 わかりますが、引き足を使ってもトルクの出方は波があります。
 太ももの前後の筋肉を常に力を入れてコントロールすると、滑らずに回す
 ことができます…凄い疲れます(笑
 トルクが上がる→加速度が上がるので「回転の維持(慣性)」と「加速」
 の両方でいつもより余分に力が必要となり感覚的に、より軽量化は効くの
 だよ!というふじいのりあき氏の指摘は正しいなと
…そこかい(^^;

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エキップ…

2011-08-18 09:27:50 | roadbike (item)
昨日、閉店間際にショップにFCR1を持ち込みました。
さて、エキップのホイールと今履いてる同じくマビック
のGPX22という同梱ホイールを前輪同士タイヤを外した
状態で比較してみると…「10g」しか違いません(^^;

う~ん…在庫である、その上となると…
R-SYSというそりゃ巷でいろいろ定評高いが
値段もね…です…エキップはハブとか違う
とは思うのですが、第一印象が同じ感覚だとビミョー。
となると中空カーボンリムアルミスポーク剛体等々いろ
いろ説明も耳によく入ってきたりします…
お客さんの声でもエキップより頑張ってエリートに
しとけばよかった(H川さん)とか店長から聞き…
決めました。
タイヤは軽量化を図りかつコンチGP4000より少し
安いのでMavic YKSION Powerlinkにしました。
Rスプロケットは、そのまま流用です。無駄な歳出
カットでつ。

昨日のポタリングでは山の中のなかなかキツい上りで
30km/h維持なんてことがままあり、自分で「おっ」
と嬉しくなりましたがこれなら更に速度アップかなと
か、他の人のブログを読むと想像してしまいます。
楽しみです…&未来に借金でございます(あぅぅ)
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回転部の重量

2011-08-16 09:59:26 | roadbike (item)
ショップの店長からタイヤは少し頑張って軽くするほうがヒルクライムに効果あるとすすめられてそうしましたが、ふ~んどうしてだろう?というのがあり
ここに非常に引用の多い(w)本田技研のふじいのりあき著「ロードバイクの科学」を読んでみる。
まずホイールの等価質量
・加速度aで加速する力:m(外周部の質量)x a
・回すことによる慣性力(ホイルを回すために必要な力):m x a
合計で、2m x a であり、ホイールの重量は外周だけでなくスポークやリムにもあるので、実測すると1.3~1.6倍。だいたい1.5倍。
今回250g軽くなるとすると、375gの等価質量差

タイヤの等価質量
すべて最外周のため1.9倍。
後ろはコンチネンタル ウルトラスポーツ700x25c 330g
これをコンチネンタル グランプリ4000 700x23c 205g (-125g)
フロントは23cの同梱もので、-40gの差として
165g x 1.9 : 313.5g
…コストが9000円差でもコスパは非常に高いわけです。

加速時に脚に感じられる重さはホイルの等価質量を含む自転車の重量+サイクリストの質量となるが、それでいくとフレームの2kgの違いとか、上記タイヤ688.5gの違いがかなり違って感じられるのはどうしてかについて「自転車を漕ぐ場合は、トルク変動に対する自転車の位置の変動があり、それが自転車を漕ぐときに影響を大きく感じさせる。トルクは一定に保ったつもりでも、実際に測定してみるとほとんどゼロになる瞬間があり、ダンシングで振る場合にもそれは感じられる。もちろん乗った感じには車体はホイルの剛性も影響します。」一定の円運動では平均的な差でもトルク変動があれば、瞬間に必要な力は大きくなるって訳でした。そこに「う~ん、重い!(><)」ってなるわけですね(笑
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canyon CF

2011-08-13 07:59:36 | roadbike (item)
メモ:

CF7.0だと
ユーロ108円で計算して21万切る価格で
従来より80g軽量化されたMavic Ksyrium Equipeがついて
重量:F810g/R960g
重量7kgで、Outstanding誌の2500ユーロレンジ
テストウィナーだものね。
(stiff and comfortableという評、操縦性も
 かかりも、ロングライドもバランスよくいい様子)

DELL同様、自社サイトでしか発注できないけど
コスパで行けば、いい買い物だと思う。

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『「正義」を考えるー生きづらさと向き合う社会学』

2011-08-09 10:17:56 | books
前記事と同じテーマですが、こちらは読後メモ。
要約はいつも書かない。読んだ後で発刊直後にブログで書かれる
非常にすばらしいものをどなたかが書かれているので
私など、読後にそれを読ませてもらうのが、楽しみだったり
するくらいだ。

今回もあった。
まず要約として完成度の高いのがコチラ(見もの読みもの日記)


私が読みたい内容が共同体主義の内実というか、功罪というか、そーいうところが1つあった。
前出の要約の方は共同体主義(コミュニタリアン)をこのようにまとめている。


著者によれば、サンデルはコミュニタリアンの立場に立つ政治哲学者なのだそうだ。ああ、なるほど。コミュニタリアンは、与件としての共同体こそが正義の条件であると考える。たまたま日本に生まれたからには、日本人として果たすべき義務と責任があると考えるのだ。しかし、これには、(1)他の共同体を批判する根拠が一切なく相対主義に陥る、(2)「われわれ」と「他者」の境界線が論理的でない、(3)共同体における物語の困難を克服できない、等の欠陥がある。

共同体主義=家族>身内>会社の同じ部署>のように
玉ねぎの芯のように対象を分けて行動のプライオリティを考える人なんかを
想像するとわかりやすい。
ここで、(3)の物語の困難を克服できないというのがポイントで、
多くの私のよく知る共同体主義の人にとっても、そこは無自覚
だと思う。(3)の「物語の困難を克服できないから
だから、共同体主義は時代錯誤なんだよ」と説明されて
いるが、なんのことやらピンと来ないはずだ。ピンと来ない人
からすると「もともと、人は自然的には共同体の中で文化・ルール
を共有しそのなかで<なにものか>役割とアイデンティティーを確立する
ものなので、それが時代錯誤とはどーいうことか?今も昔も
変わらないものは変わらないのだ」と、おそらくそんな感覚ではないか。

いわく説明に困る「物語性のない」状態。有意味なゴール
に向かって進歩成長しているという意味性のなかで生きて
いけない状態というのを感覚的にとてもよく説明している
ブログがコチラ(時折書房)の記述。

「物語の重要な特徴は、目的論的構造です。すなわち、あるべきものに向かっているということです。」(p.242)と大澤さんは言います(大澤さんのこの本のトータルな主張は今回はあえてスルーしてしまいますが、そのまわりくどすぎる理路は私の趣味ではないのですが、いつかじっくり振り返ってみたい説得力はありました)。つまり、人格とか人生とかいうまとまったものは、「目的=あるべきもの」に向かって組織される、虚構にすぎず、その虚構ががばっと根こそぎ奪われてしまった(!!)ときに、人ははたして、そこにどうしようもないという気持ちでたちすくむしかない。そして、すべてが奪われてしまったと感じながらも、事実として、自分自身という肉体と思考はまぎれもなくかつ残酷にそこにありつづける。今まで「それが人生」と信じていたものを失うということ。

資本主義社会である以上意味性を失う。そのために意味性のなかで治癒された傷が、
意味性を失うために治癒されないというあたりをマラブーを引用して説明していた。
それは置いといて、目的論的な構造を持てない理由とはなんなのだろう?
コチラ(龍の尾亭)では一文だけ説明されている。


それはアリストテレスに共鳴するサンデル的コミュニタリアンの「目的論的」な正しさの限界を示す、という形(たった一つの目的に還元できないのが資本主義の現実っていう方向性ですね)で進行。

個人はドイツ教養小説(著者はビルトゥングスロマンと記述してたか)
のように様々な試練を乗り越え最後に成功・達成するという目的論的構造に
生が歩んでいるのであれば、そこに意味性が付与されているけれども
資本の要請は人にそのような意図を与えない、与えるとすれば極めて限定的に
囲い込まれた世界内であって、つまり分割された一部での意味はかろうじて成立
しているかに見えるということ。
資本主義では最高善はなく、様々なレベルの快楽や善が貨幣に換金可能な財
(サービス)として、どんどん並立していくんだよってなこと。

さきほどの(2)「われわれ」と「他者」の境界線が論理的でない
コミュニタリアンに特徴的な「われわれ」と「他者」の間に優先順位を
つけることで、様々な問題における正しさに秩序を与えるやりかたに戻れば、
資本というのは、「われわれ」と「他者」という境界を常に変容させるような、
あるいはボーダレスにするような特徴を持っているということです。
そうしなければ、適応できないし、イノベーションも起こせない。
ジジェクを引き、中国の文革は結果的に伝統や歴史を根底から否定することで
資本主義の成功のための地ならしをしたとしているのも同じ文脈です。

あるいは資本についてこのような説明(Hello,How Low?)もなされている。


それは、〈資本〉のメカニズムにほかならない。資本とは、マルクス主義風に言えば、剰余価値を生み出すものである。資本主義においては、貨幣はただ退蔵されるだけでは〈資本〉にはならない。それはさらに投資され、剰余価値を生み出す限りで〈資本〉になるのである。つまり、獲得した貨幣を消費してしまったりせずに、それをさらなる利潤獲得のために投資する必要がある。そのさらなる投資は、止むことがない。これが資本主義の根本的でもっとも単純なメカニズムである。そこで、この投資において何が起きているのかを考えてみれば、ウェーバーがプロテスタントに見たような禁欲が現れているのがわかるだろう。すなわち、何らかにおいて獲得した貨幣は、ただちに消費されれば純粋な快楽につながる。が、その消費は、より高次の快から見れば、言い換えれば、さらに投資して利潤を拡大するという快から見れば、たいしたことではなくなってしまう。つまり、〈資本〉のメカニズムの中では、消費(でも貯蓄でもいいが)の一次的な快は、より高次の投資の視点によって、相対化される、あるいはむしろ苦に転落してしまわざるをえない。世俗内禁欲が、資本のメカニズムへいたる、ということはこのことである。
とすれば、コミュニタリアニズムが措定した「物語」、あるいはアリストテレスの目的論は、資本主義によってまさに否定されていることになる。というのも、共同体・歴史などに固有の最高善があるという考えからすれば、自分の人生の選択をその善に配慮しながら生きねばならないということになるが、資本主義のもとに生きる以上、そのような善は、つねに相対化されていかざるをえないからだ。大澤社会学が長く論じてきたことだが、資本主義のもとでは、常に未来の快を考えねばならず、その連鎖は終わることがない。それゆえ、未来の快そのものの内容がどんどん抽象化され、その果てに快自体が不可能であるという事態が来る。快を超越的な規範(第三者の審級)に置き換えても良い。とにかく、コミュニタリアニズムが見誤っているのは、そうした「物語」に固有の善が、常に相対化されてしまい、もはや物語の中に自己を位置づけることが不可能となってしまった現代の社会構造であるのだ。

上記程度の短文ではまだ説明しきれてないか。ムム?と思われた方はお読みいただき、さらに
その先を考えていただきたし。1つ補足するとすれば、ウェーバーがプロテスタントに見た禁欲は、共同体に固有の最高善なんだけど、文中で資本主義での「より高次の視点によって」は最高善とは何ら無関係。未来の快は、人にとっても、共同体にとっても最高善か怪しい。資本にとって、具体的にはその企業にとって銀行にとっては快。そこはウェーバーは見えていなかったところだ。

結果的に労働は2極化すると説明が続く。コチラ(見もの読みもの日記)から引用。

高度化した資本主義社会において労働者は二極化し、研究開発や情報操作などの知的労働に携わる少数の人々は、多文化主義に接近する。対して、多数の周辺労働者は、宗教的原理主義やエスノナショナリズム(ネット右翼)に近づく。しかし、両者は、同じ空虚(普遍性)を取り戻したいという身振りなのではないだろうか。


と、下手なまとめはやめとこう。メモ目的だった。終わらなくなる予感。そーいうことは得意な人に任せた方がいい(苦笑

私が本書でおもしろかったのは、アクラシアの説明に当時最高の知性だったアリストテレスがなぜ失敗をしているのかという点と、イエスが気合いをいれて説明している話が、隣人愛をベースにしているカントの考え方(しいてはリベラリズム)とかなりずれていることを指摘し、後半にも少し説明するが、「まだ考え続けている」として、あまり長く説明することをやめている点。

アクラシアがおもしろいと思うのは、今の時代でも「○○すべき」という知性が先に立つ人は、アクラシア的一貫性のなさを理解しないし、理解したくない!という態度を取る人が多いように思う事。 (本題は大澤マジックだと思うので読んでみてください)

イエスのほうは、2つ話をいれていて、1つは放蕩息子の話で、なぜ金を遊びで使いつくし、事業にも失敗し戻ってきた弟の歓迎会に、父親が(勤勉に父に尽くしてきた)兄にもしたことがないような歓迎をしたかという話。

たぶん、より新しい視点が欲しいから深く触れるのをやめてるのだけど、弟のほうは、意味性を失った傷を抱えた人生で戻ってきていて…それが環境適応している側からすると、弱者に都合のいい弱者救済の論理にしか見えないのだけど、正しさという視点からは、そうした物語性を失った人だけが見える何かというものが、共同体における善よりも高い何かを持っている、そのことの重要性を意味しているのだと思う。
前出のブログでもまとめがあった。


では、失われた普遍性はどうすれば取り戻せるか。著者の答えはこうだ。共同体において「何者でもない」と否定されることを介して、われわれは連帯することができるのではないか。回答の注釈として、もう一度参照されるのがイエスであり(放蕩息子の帰還、ブドウ園の主人)、エイミー・ベンダーの寓話的な小説『癒す人』である。この小説はいいな。傷を負うことで癒される、傷を通じて、狭い共同体の外への回路が開かれる寓話、とだけ述べておこう。

声高に主張する何かではなく、そのような心の内から普遍性が出発することに異論はない。
ただ、ここまでは静かで内省的ですね。
試みとして冒険的であり、最後の「過去を変えるための自由な選択」(デュピュイ)
というところは飛び出したばかりで、着地はまだ先のことであるような印象を受ける。
なので続く「連帯」については、来るべき時が来るまで乗らないってことになってしまう?
そこは難しいですね。例え話で出されていた「皆、口には出さないけど、マルクスを
まともに理解できている人間ならば、共産党には入れないよな…」というかつての
フランス左翼知識人の気持ちがわかる(笑) 確実なゴールを見てから足を踏み出す
というのは政治社会的な選択においては、基本的に超保守だけなのではないのかな。



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