古九谷焼とは、加賀国江沼郡九谷村(現在の石川県江沼郡山中町九谷)で焼成された、色絵磁器の
事で、江戸の明暦年間(1655~1658)頃から約4~50年間に、加賀前田藩の支藩の大聖寺
(だいしょうじ)の藩窯の元で作られた作品の事と言われています。
現在でも、九谷焼は加賀で焼かれていますが、これらは「復興九谷」とも言われ、古九谷と区別
されています。
1) 古九谷焼の特徴。
① 不透明な鈍い白色の磁器素地に、花鳥、山水、風物などを、上絵付けで描いた物です。
② 大胆な構図で、文様は祥瑞(しょんずい)風、和風などから、種々の影響がみられ、
幾何学文様なども多く、独自の古九谷様式を展開しています。
③ 濃い彩釉を用い、力強い筆致で青、緑、紫、黄の絵の具で、塗りつぶした青手(あおで)が
特徴に成っています。
尚、詳細については、後日お話します。
2) 古九谷焼の発生に関わる論争に付いて。
古九谷焼が何処で作られ焼かれていたかは、古くからの問題で、現在でも論争が続いています。
即ち、以下の説があります。
① 古九谷伊万里説(伊万里古九谷様式説)。
我が国で色絵磁器と言えば、伊万里焼(有田焼)と九谷焼が代表的な存在です。
古九谷は伊万里焼の影響を強く受けてはいます。古九谷の発掘調査で、二基の窯が発掘され
ますが、その実測寸法が有田の初期の窯である、天狗谷古窯などと極めて近い事からも
伺う事が出来ます。但し、伊万里様式とは、かなり違う様式に成っています。
) 戦前~1960年代にかけて「九谷ではなく佐賀県の有田で焼かれたものである」という
説が主張され始めます。
) 根拠として、有田の山辺田窯(やんべたがま)、楠木谷窯などの窯跡から古九谷と
図柄の一致する染付や、色絵の陶片が出土している事です。
) 石川県山中町の九谷古窯の発掘調査での出土陶片は、有田焼よりも焼成温度が低い、
半磁胎が多く、高温で磁器が焼成されたとは認められない事です。
) 伝世の古九谷とは作り方の違うものが、発掘されていた事です。
例えば、伝世九谷では、高台内に「目跡」が有るが、発掘品には見当たらない事。
皿類の高台径の違い、伝世九谷では口径の1/2以上あるが、発掘品では1/2以下である
事。更に、伝世九谷には染付文様が見られるが、発掘品には染付文様が全く見られない事
などの状態から、「古九谷は有田の初期色絵作品である」との説が有力となります。
) 伊万里焼古九谷様式説(有田古九谷様式)。初期伊万里から、柿右衛門様式と古九谷
様式の二つが発生したと言う説です。最初に古九谷焼様式が完成し、その後に柿右衛門
様式が完成したと見る説です。根拠に成るのは、海外輸出品に古九谷焼の作品が
ほとんど見られず、海外輸出が始まる以前の様式との見方もあります。
② 技術持ち帰り説。
) 陶工後藤才次郎が、有田で製陶法や絵付法を学び(盗み取った物)、明暦元年(1655年)
に現在の山中町の九谷に開窯したとの説です。
) 書物の「秘要雑集」によると、藩士の後藤才次郎が、身分を偽り有田に潜入し、
有田の技術を盗用し、逃げ帰り大聖寺藩の九谷村で発見された陶石を用いて磁器を
焼いたのが始まりと言う話は有名ですが、その真偽は不明です。但し、後藤才次郎なる
人物が田村権左衛門と共に、指導的役割を果たしたのは確かな様です。
③ 伊万里から素地を直接輸入説。
) 初期の古九谷の白磁は、有田から素地を直接輸入し、絵付けのみを行ったとする説です
即ち、当時の九谷古窯では、白磁を焼く技術が無く、伊万里で作った白磁を輸入し上絵付
を施したと言う事です。伊万里(有田)の白磁素地は、東インド会社を通じて、西洋に
多く輸出されています。その為、加賀藩まで、船便で送られた事は十分考えられる事です。
) 近年の科学的分析で、古九谷焼のほとんどの作品の素地が、有田の磁土である事が
判明します。
④ 古九谷焼は全て九谷で作られたと言う説です。
古九谷と伊万里、鍋島焼との大きな違いは色彩にあり、古九谷の色絵の伝統技術が
伊万里に伝わっていない事が根拠に成っています。
当時日本から輸出された「やきもの」の色の名前に、赤、青があるが、古九谷の紫、
黄はありません。また、古九谷は、黒呉須の線描きの上に透明性の高い絵具をべた塗り
しているが、伊万里では、輪郭線の中に絵付け(友禅のように)、鍋島焼は染付を重視
しています。こうした事は、古九谷の様式上の特徴は、伊万里、鍋島焼に繋がるものでは
なく、「古九谷様式」は加賀独自の色絵技術と伝統という見方です。
尚、現在有力な説は、① の「古九谷伊万里説」(伊万里古九谷様式説)ですが、決着はしばらく
付かないと思われます。
以下次回に続きます。
事で、江戸の明暦年間(1655~1658)頃から約4~50年間に、加賀前田藩の支藩の大聖寺
(だいしょうじ)の藩窯の元で作られた作品の事と言われています。
現在でも、九谷焼は加賀で焼かれていますが、これらは「復興九谷」とも言われ、古九谷と区別
されています。
1) 古九谷焼の特徴。
① 不透明な鈍い白色の磁器素地に、花鳥、山水、風物などを、上絵付けで描いた物です。
② 大胆な構図で、文様は祥瑞(しょんずい)風、和風などから、種々の影響がみられ、
幾何学文様なども多く、独自の古九谷様式を展開しています。
③ 濃い彩釉を用い、力強い筆致で青、緑、紫、黄の絵の具で、塗りつぶした青手(あおで)が
特徴に成っています。
尚、詳細については、後日お話します。
2) 古九谷焼の発生に関わる論争に付いて。
古九谷焼が何処で作られ焼かれていたかは、古くからの問題で、現在でも論争が続いています。
即ち、以下の説があります。
① 古九谷伊万里説(伊万里古九谷様式説)。
我が国で色絵磁器と言えば、伊万里焼(有田焼)と九谷焼が代表的な存在です。
古九谷は伊万里焼の影響を強く受けてはいます。古九谷の発掘調査で、二基の窯が発掘され
ますが、その実測寸法が有田の初期の窯である、天狗谷古窯などと極めて近い事からも
伺う事が出来ます。但し、伊万里様式とは、かなり違う様式に成っています。
) 戦前~1960年代にかけて「九谷ではなく佐賀県の有田で焼かれたものである」という
説が主張され始めます。
) 根拠として、有田の山辺田窯(やんべたがま)、楠木谷窯などの窯跡から古九谷と
図柄の一致する染付や、色絵の陶片が出土している事です。
) 石川県山中町の九谷古窯の発掘調査での出土陶片は、有田焼よりも焼成温度が低い、
半磁胎が多く、高温で磁器が焼成されたとは認められない事です。
) 伝世の古九谷とは作り方の違うものが、発掘されていた事です。
例えば、伝世九谷では、高台内に「目跡」が有るが、発掘品には見当たらない事。
皿類の高台径の違い、伝世九谷では口径の1/2以上あるが、発掘品では1/2以下である
事。更に、伝世九谷には染付文様が見られるが、発掘品には染付文様が全く見られない事
などの状態から、「古九谷は有田の初期色絵作品である」との説が有力となります。
) 伊万里焼古九谷様式説(有田古九谷様式)。初期伊万里から、柿右衛門様式と古九谷
様式の二つが発生したと言う説です。最初に古九谷焼様式が完成し、その後に柿右衛門
様式が完成したと見る説です。根拠に成るのは、海外輸出品に古九谷焼の作品が
ほとんど見られず、海外輸出が始まる以前の様式との見方もあります。
② 技術持ち帰り説。
) 陶工後藤才次郎が、有田で製陶法や絵付法を学び(盗み取った物)、明暦元年(1655年)
に現在の山中町の九谷に開窯したとの説です。
) 書物の「秘要雑集」によると、藩士の後藤才次郎が、身分を偽り有田に潜入し、
有田の技術を盗用し、逃げ帰り大聖寺藩の九谷村で発見された陶石を用いて磁器を
焼いたのが始まりと言う話は有名ですが、その真偽は不明です。但し、後藤才次郎なる
人物が田村権左衛門と共に、指導的役割を果たしたのは確かな様です。
③ 伊万里から素地を直接輸入説。
) 初期の古九谷の白磁は、有田から素地を直接輸入し、絵付けのみを行ったとする説です
即ち、当時の九谷古窯では、白磁を焼く技術が無く、伊万里で作った白磁を輸入し上絵付
を施したと言う事です。伊万里(有田)の白磁素地は、東インド会社を通じて、西洋に
多く輸出されています。その為、加賀藩まで、船便で送られた事は十分考えられる事です。
) 近年の科学的分析で、古九谷焼のほとんどの作品の素地が、有田の磁土である事が
判明します。
④ 古九谷焼は全て九谷で作られたと言う説です。
古九谷と伊万里、鍋島焼との大きな違いは色彩にあり、古九谷の色絵の伝統技術が
伊万里に伝わっていない事が根拠に成っています。
当時日本から輸出された「やきもの」の色の名前に、赤、青があるが、古九谷の紫、
黄はありません。また、古九谷は、黒呉須の線描きの上に透明性の高い絵具をべた塗り
しているが、伊万里では、輪郭線の中に絵付け(友禅のように)、鍋島焼は染付を重視
しています。こうした事は、古九谷の様式上の特徴は、伊万里、鍋島焼に繋がるものでは
なく、「古九谷様式」は加賀独自の色絵技術と伝統という見方です。
尚、現在有力な説は、① の「古九谷伊万里説」(伊万里古九谷様式説)ですが、決着はしばらく
付かないと思われます。
以下次回に続きます。